小さな王子

 ぜえぜえと息を切らしながら、こちらに走ってくる大臣。

「アーウィンさま、ロウさま!お産まれになりました!」
「そっ、そうか!」

 ロウとアーウィンは顔を見合わせ、急ぎエレノアの部屋へと向かった。

「アーウィンさま、ロウさま。おめでとうございます!本当にかわいい、たまのような男の子で!」
「うむっ」

 付き添いのメイドの言葉に、アーウィンは誇らしげに頷く。
 部屋の奥へ入ると、ベッドに身体を預けるエレノアの腕に、生まれたての小さな赤ん坊が抱かれている。

「あなた……」
「よくやったな!おうおう、このように元気に泣いて……」

 赤ん坊が元気に泣くのは、健康な証しだ。
 母子ともに元気で、ロウは当時と同じように安堵の笑顔を浮かべていた。
 
「さっそくだが、この子に名前をつけないといけないな」

 一生懸命アーウィンが考えていた名前だ。
 じつは、命名するのはエレノアなのだと知っているが、ロウはその気持ちを尊重したい。

「トンヌラというのはどうだろうかっ!?」

 自信満々に言ったアーウィン。その名前もよい名だと思うが……。

「まあ、ステキな名前!いさましくて、かしこそうで……でもね、私も考えていたのです」

 以前、エレノアがロウにこっそり話してくれた話だ。
 赤ん坊がお腹の中にいるとき、不思議な夢を見て、そして名前が思い浮かんだという。

 少年が冒険の旅にでる夢で、その少年の名前を、彼の冒険を見守る誰かがつけるという不思議なものだった。
 少年は名前をもらい、ワクワクと冒険の旅に出発する気持ちが伝わり、あたたかくて、とても楽しい気持ちで目覚めたと……エレノアは言っていた。

「エルシス、というのはどうかしら?」

 名前は愛してくれる者からの、最初の贈り物だ。

 "エルシス"

 とてもよい名をもらったな……ロウはまだ赤ん坊の彼を優しく見つめる。

 赤ん坊は嬉しそうに笑っていた。

「エルシスか……。どうも、パッとしない名だな。しかし、キミが気に入っているならその名前にしよう!」

 アーウィンは少し残念そうだったが、エレノアからエルシスを抱かせてもらい、その顔を近くで見ると……。不思議なことに、その名前がしっくりくるような気がした。

「命の大樹よりさずかった、我が子よ!今日からお前の名は……」

 ――なんじゃ、鼻がむずむずする。先ほどのコショウがまだ……

「エルシスだ!」
「えっくしょん!」
「まあ、お父さまったら!」

 ここぞという場面で、大きなくしゃみをしてしまったロウ。くすくすと笑うエレノアに、アーウィンも思わず吹き出してしまった。

「ごほん、ごほん……」

 ロウは恥ずかしそうに咳払いをして、ごまかした。

「……さあ、お父さまも抱いてやってください」

 アーウィンの腕からロウの腕へ――

「……だあ、だあ」

 赤ん坊のエルシスは、ご機嫌に笑う。

「おお、よしよし……。わしはお前さんのおじいちゃんじゃよ」

 にこにこの笑顔であやすロウ。孫は目の中に入れても痛くないとは、よく言ったものだ。

 ――このときの、赤ん坊のエルシスのあたたかさや腕に感じた重さは、ずっと忘れることはなかった。
 小さな王子の成長を見守るが何よりの楽しみで、ロウは長生きしようと決めていた。
 きっと、エレノアの優しさとアーウィンの勇敢さを受け継いだ、立派なユグノア王になると思っていた。

「な、なんということじゃ……」

 それが、次の瞬間には幻のように消えてしまった――。

 自身の腕の中はからっぽだ。

 エレノアの部屋なのは変わりないのに、今まで一緒にいたエレノアもアーウィンの姿も、どこにもいない。

「……お楽しみいただけたかしら?」
「バニーちゃん、どういうことなのじゃ?場所といい出来事といい、ここはまるで本物の……」

 バニーガールはロウの質問に何も答えず、くるりと背を向け行ってしまった。ロウはすぐさまその後を追いかける。
 
「ぬう……?なんだか城内がやけに静さじゃのう……」

 巡回している兵士や、城の中で遊ぶ子供たちの姿もない。
 廊下にバニーガールの姿は見つけたが、近づくと彼女は光の粒となって消えてしまう。
 そしてまた、別の場所に現れては、ロウが来るのを待っていた。

 そんなことを繰り返して、バニーガールは階段を降りていく。ロウも追いかけ、2階へとやってきた。

「誰ひとり、城内にいないじゃと?そんなバカな……。みんな、いったいどこにいってしまったんじゃ……!?」

 嫌な胸騒ぎがする。曲がり角を曲がるバニーガールの姿がちらりと見えて、焦る気持ちと共に、ひたすらロウは彼女を追いかけた。

 その先は、大広間だ。

 一体この部屋で何が待ち受けているのか。緊張の面持ちで、ロウはその扉を開けた――……

 大広間は綺麗に飾り付けをされており、まるでパーティー会場だった。
 一番に目を引いたのは、4段重ねの特大サイズのケーキだ。
 大きなイチゴで贅沢に飾り付けされており、一番上を飾る王冠は、ロウの被るものと同じデザイン。

「……なんじゃこれは?」

 呆気にとられながら、ロウが部屋に足を踏み入れる。
 そのとき、ケーキの後ろからぴょんっと現れたのは――

「おじいちゃん、お誕生日おめでとう!」
「おお、なんと!お前はもしや、孫のエルシス……」

 赤ん坊の姿から大きくなって、少年の姿になったエルシスだった。
 ロウは目を丸くする。ロウの記憶にない光景。緑色の王族衣装がとても似合っており、小さいながらも王族の風格があった。

「お…おおぅ……」

 そして、並べられた長テーブルの後ろに隠れていたように、次々と人々が現れた。
 アーウィンやエレノア、兵士たちに、他国の王の姿まで。

「ふっふっふ!おどろいた?おじいちゃんをビックリさせるために、みんな、ナイショで準備してたんだよ!」

 なにがなんだかわからず固まるロウに、エルシスは腰に手を置き、えっへんと胸を張って言った。

「おめでとうございます、ロウさま!ダーハルーネのパティシエを招いて作った、特製ケーキは気に入っていただけましたかな?」
「お父さま、おめでとう!これからもうんと長生きして、この子の成長を見守ってあげてくださいね!」
「アーウィン……エレノア……」

 固まっていたロウに、やっと感動が訪れるが、噛み締めるのはまだ早い。

「ロウさま、おめでとうございます!今日この国がこうして平和なのは、あなたさまのたゆまぬ努力のおかげです!」
「その努力を無駄にすることのなきよう、この国はアーウィンさまと共に我らがお守りいたします!」
「ロウさま、アーウィンさま……それにエルシスさま!皆さまがいる限り、ユグノアの未来は安泰ですね!それを守るため、私もがんばります!」
「頼もしき我が兵士たち……」

 兵士たちはびしっとロウに敬礼する。

「ようロウさま、おめでとさん!城下町の飲み仲間一同でパーーッと祝いにきたぜ!」
「ふふふ、これからも掘り出し物のムフフ本を仕入れたらすぐに教えてくださいねっ?」
「愛しき我がユグノアの民……」

 太っちょの男と細っちょの男は、立場を越えて語り合える、ロウのよき友人だ。

「ロウさま、おめでとうございます!いつも我々のことまで気にかけてくださり、困っている時には助けてくださり、ありがとうございます!」
「私たち、皆、この城で働けることを誇りに思っていますわ」
「今日、ロウさまをお祝いするために、料理人一同がんばって準備してきました。ぜひ、ゆっくりと味わってくださいね」
「働き者の城の給仕たち……」

 その場に拍手や祝福の声が沸き起こり、ロウの胸に感情が込み上げてくる。

 それは、目から涙となって溢れた。

「おじいちゃん、泣いてるの?……もしかしてうれしくなかった?」
「違うんじゃ、エルシス……。おじいちゃんはうれしいんじゃよ。とってもうれしいんじゃ……」

 ロウの頬には涙が伝っていたが、その目尻は下がり、心からの笑みをロウは浮かべた。


「さあ、このパーティーいちばんの目玉!エルシス王子発案の巨大なケーキはこちらで切り分けておりますよ!」
「こちらの巨大ケーキを用意したのはエルシスぼっちゃまのアイデアなんですよ。すごいでしょう!」

 ――大広間には、人々の楽しげな声や笑い声が溢れ、とても賑やかだ。
 長テーブルには料理人が張り切って作った美味しそうな料理が並んでおり、その近くでメイドや執事たちが料理の追加や、飲み物を客人に渡していく。

 食事をしたり、談笑したり、皆はロウの誕生日パーティーを自由に楽しんでいた。

「ロウさまのお誕生日をいわうため、世界各国からたくさんの人々が集まっておりますぞ!今までの実績と人望のなせるわざですな!」

 執事が持ってきた、ワインが注がれたグラスを二つ受け取ると、アーウィンはロウに渡す。
 乾杯、と互いにグラスをカチンと鳴らした。
「エルシスが呼んでますよ」
 一口飲んだところで、そっとエレノアがロウに声をかける。

「エルシスがお父さまと一緒に、パーティー会場を回りたいそうですわ。ふふ、よければ付き合ってあげてくださいね」

 ロウがエルシスに視線を移すと、うずうずとしており、どうやらアーウィンとの話を終わるのを待っていたらしい。

「どれ、エルシスや。またせたのぅ」
「ねえ、おじいちゃん!ボクと一緒にパーティー会場を回ろうよ!さあ、ついてきて!こっちこっち!」

 言うな否や、元気よく走り出すエルシス。
「これこれ、走るでない」
 ロウは微笑ましいという笑顔を浮かべてエルシスのあとを追いかけた。

 そこにはクレイモラン王と、学者たちの姿があった。

「お誕生日おめでとうじゃな、ロウ殿。これからも長生きしましょうぞ!」
「おお、遠いところからわしの誕生日に駆けつけていただき、すまぬのう、クレイモラン王よ」
「はっはっ、なにをおっしゃる。ときに例の盗難事件じゃが、ご提案をふまえて、我が国の学者が千年かけても解けなかった難問パズルに、容疑者たちを挑ませたのじゃ」
「ほう、どうなったのじゃ?」
「すると、おどろくべきことに、犯人はパズルを解いてしまったのじゃ!今は改心し、立派な学者になっておるよ」
「それはよかった。道を踏み外してしまうも、優秀な者じゃったのじゃな」

 クレイモラン王との会話のあとは、ロウは学者たちと一言二言、言葉を交わす。

「お誕生日おめでとうございます、ロウさま!これからも我らクレイモラン王国と末永く親交を深めてまいりましょう!そういえば、例のブルーオーブ盗難事件を解決へと導いたのは、ロウさまなんですよね」
「事件を解決しちゃうなんて、おじいちゃんすごいや!」

 話を聞いていたエルシスは、ロウを尊敬の眼差しで見る。孫に褒められて嬉しいロウは、得意気にヒゲを撫でた。

「誰も解けないパズルのような難事件を、犯人にパズルを渡して解決するとはなんとも皮肉のきいたご提案でした!」

 その言葉に次いで、おずおずと一人の学者がロウに話しかける。

「あの……。じつは私が、ロウさまが解決したブルーオーブ事件の犯人でして。あっ!もちろんもう改心してますよ!解けないはずのパズルを解いてしまった私を、我が王は寛大にも学者として登用し、心を改めるチャンスをくださいました」
「おぬしが……。今後はクレイモラン王国のために、その知恵を役立てるのじゃよ」
「はい!学門とは無縁で一度は罪を犯した私が、このように第二の人生を歩めたのもロウさまのおかげ……感謝してもしきれません!」

 同時に深くロウに頭を下げた。そんな彼に「今日は楽しんでいくとよい」そうロウは優しく声をかけた。

「みんな、すごくアタマがよさそうだね!あんな人たちからも尊敬されるなんて、おじいちゃんすごいんだねえ!」
「ふぉっふぉっ。エルシスも賢王と言われたおじいちゃんのように、がんばって勉強するのじゃぞ」
「うん!ボク、おじいちゃんに負けないくらいたくさん勉強して、かしこい大人になるね」

 素直に答えるエルシス。すでにかしこさは顔ににじみ出ているがのぅと思うロウは、親バカならぬ爺バカだ。

「よーし、おじいちゃん!次はあっちに行ってみようよ!」

 次にエルシスが向かったのは、サマディーのサーカス団員たちの元だ。彼らはその場で芸を披露し、盛り上がっていた。
 えっほえっほと、ロウは小走りにエルシスを追いかける。

「あのロウさまも、すっかり孫のあとを追いかけるようになっちまったか」

 そんな言葉をかけたのは、意地悪い笑みを浮かべている友人だ。

「前はぴちぴちバニーのお尻だったのになー!」
「これっ大きな声で言うでない!……エレノアに聞かれたら、数日は口を利いてもらえなくなる……」
「ははっ、そりゃ大問題だ」
「ロウさまはいくつになっても元気だよなあ。俺もロウさまみたいに、元気ハツラツにトシを取っていきたいもんだぜ」
「こんな豪華なパーティーに誘ってくれて本当にありがとうな、ロウさま。さあ、遠慮せずガンガン飲みまくるぜい!」
「思う存分、楽しんでいってくれい!」

 友人たちと別れて、ロウはエルシスの元へ向かった。

「ご覧あれ〜」
「ホホイのホイ!」
「それそれそれ〜!」

 エルシスは、エレノア譲りの空色の瞳をキラキラと輝かせて、夢中で曲芸を見ていた。

「ロウさま、お誕生日まことにおめでとうございます!本当に我がサマディー王国は、貴国には大変にお世話になっており……。いつかの不作の時も本当に助けられました」

 ロウの姿を目にするや否や、感謝の言葉と共に、何度も頭を下げるサマディー王。

「貴国のあたたかいご支援がなければ、我が国はとうに滅びていたことでしょう。あの時に受けたご恩は、末代まで忘れませんぞ!」
「頭を上げよ。サマディー王、サーカス団と共に祝いに来てくれてありがとうな。孫が喜んでおる」

 恩に着せようともせず、優しいロウの言葉に、サマディー王はますます感激した。

「我が国が不作の危機に陥った際、無償で食料を支援する判断を下したのは、ロウさまなのだとウワサで聞きました。だとすれば、我々が今こうして元気にしていられるのは、ロウさまのおかげ。本当にありがとうございます」
「貴国が提供くださった食料によって、いったい何人の命が救われたことか……。国民を代表として、お礼申しあげます。サマディー王国は騎士の国。あの時受けた恩義は、未来永劫忘れることはないでしょう」

 ――サーカス団の者たちからも感謝の言葉が続き、ロウは笑顔で答える。
 そして、ずっと眺めているエルシスに声をかけた。

「ほっほ。楽しいか、エルシス」
「うわあ、すごいよ、おじいちゃん!これってサーカスって言うんだよね?本物を見たのはじめてだよ!」
「そうか、そうか……。それでは、そのうち一緒にサマディー王国に行って、本場のサーカスを見せてやろうかのう」
「わーい、やったあ!約束だよ?」
「うむ……。男と男の約束じゃ!」

 約束と、二人は拳と拳を突き合わせる。

「えへへ、それじゃあ今度は、あっちの方を見にいこうかなー」

 そう言って、次にエルシスが向かった先には……

「あれれ、大臣さんがいるよ!こんな所でなにしてるのかな?しかも、お姉さんがいっぱい……!」
「まさか、本当にやってのけるとはな……」
「バースデー!」
「ハッピー!」

 そこには、女闘士に囲まれて、やっほーい!とはしゃぐ大臣の姿があった。

「ロウさま!おめでとうございます!本日は例の格闘大会でお近づきになったギャルたちを呼んでまいりましたぞ!」

 ギャルたちを呼んでくれたのは、嬉しいが……。

「いやあ、それにしても聞いてくださいよ。まさか大会がトーナメントではなく、バトルロイヤル形式だったとは……大会中、ちょこまかと逃げ回っているうちに、他の選手はバタバタと倒れてゆき……気づけばなんと、私が優勝してしまいました!」

 あの時は「なんか面白そうなことになりそう」ぐらいの思い付きだったので、この結果にはロウも予想外だ。

「わーい、本物のロウさまだ!お誕生日おめでとうー!話は大臣さまから聞いてるよ!大臣さまったら、あの大会の時、ちょこちょこ逃げ回っちゃってとってもかわいくってね!」

 ギャル闘士に褒められて、ぽっと頬を赤く染める大臣に「なにを照れておるんじゃ」すかさずロウはつっこんだ。

「優勝記念のパーティーの後から、ずっと仲良くさせてもらってるんだ!」
「おめでとうございます、ロウさま。そして、ごめんなさい……。今日誕生日プレゼントを忘れちゃって」

 続いて言ったのは、三つ編みの可愛らしい女闘士だ。

「そうだわ!今度グロッタの大会に出場してくださいな。そしたら、とっておきのぱふぱふ攻撃をプレゼントしてあげる!」
「まことか……!」
「おじいちゃん、"ぱふぱふ"ってなに?」
「ぱふぱふとはな、ぴちぴちギャルが……」

 はっ、いかんいかん!思わず説明しようとして、我に返る。小さなエルシスに教えるのは、さすがにまだ早い。
 このことがエレノアに知られたら、今後はエルシスと会わせてもらえなくなるだろう。

「……ゴホン。エルシスよ、よく覚えておくのじゃぞ。人間には、本当にはかりしれない可能性があるということを……!」
「うん、忘れないよ!あきらめずにがんばれば、きっとなんだってできるよね!」

 話題を変えて真面目に話すと、エルシスは素直に聞いてくれた。……ええ子じゃ。

「……ふう。おじいちゃんと会場を回れてすごく楽しかったけど、なんだかお腹すいてきちゃった。そうだ!ボク、おじいちゃんのためにケーキをとってきてあげるよ!」

 言うな否や、再びエルシスは行ってしまった。

「どうだった?」
「いろいろ見てきたよ!」

 ――エレノアたちに、楽しそうに話すエルシスを、慈しみある笑顔で見つめるロウ。

「ユグノアが滅ぼされることなく、エレノアも、アーウィンも、エルシスも、誰もが幸せそうに生きておる」

 ロウが失った、ありえたはずの平凡で幸せな日々。
 それが今、目の前に広がっている。

「この場所も、ここにいる皆も、おそらく現実ではないのじゃろう。じゃが、そうとはわかっていても……」

 ――わかっていても。

「これ、おじいちゃんの!」
「ふふ、よかったわね」
「……なんと幸せで、離れがたい光景じゃろう」

 ……――おわっ!

 小さな悲鳴が響き、はっと気づくとエルシスが倒れていた。ケーキを持っていく途中で、転けてしまったらしい。

「ううっ……」
「おうおう、大丈夫か、エルシスや……」
「うわあああーーん!」

 ロウが声をかけると、エルシスは声を上げて泣き出した。

「これこれ、泣くでない」

 困ったように言いながら、ロウはエルシスの元へ向かう。
 手を差しのべようとしたとき、――倒れているエルシスの姿が、あの日の姿と重なった。

「そうじゃ、あの日、わしらは戦いに敗れ、世界は闇におおわれた……」

 エルシスだけでなく、倒れている仲間の姿も鮮明に思い出す。

「そして、ひとり目を覚ましたわしは、仲間たちの無事を祈りつつ、魔王と戦うチカラを得るべく旅に出た……」

 不思議なことに、今まですっぽり抜け落ちていた記憶たちが次々とよみがえっていく。

「そう、我が師であるニマ大師に修行をつけてもらうために。ということは、ここは……」
「……どうしたの、おじいちゃん?」

 泣き止み、立ち上がったエルシス。涙で濡らした目をロウに向け、不思議そうに尋ねた。

「すまんのう、エルシス。おじいちゃんには行くべき所……やるべきことがまだ残っているようじゃ」
「おじいちゃん、どこかへ行っちゃうの?」

 ロウはまっすぐとエルシスを見つめて答える。

「……ああ、行かねばならぬ。もしかすると、さびしい思いをさせてしまうかもしれん。でも、お前さんは強い子じゃ。きっと、元気でいておくれよ……」

 優しく言い聞かせるように話し、ふと振り向くと……。扉の向こうで、あのバニーガールがこちらを見ていた。

「おじいちゃんが出かけてる間、ボク、いい子にして待ってるから大丈夫だよ!」
「偉いぞ、エルシス。お前さんはやはり強い子じゃのう……」

 笑顔を見せるエルシスに、ロウはその頭をぽん、と優しく撫でた。

「えっへん!でも……あんまり遅くなっちゃやだよ。早く帰ってきて、また一緒に遊ぼうね!」
「………………」

 その言葉には、答えることができなかった。

「あら、大丈夫ですか、お父さま。なんだか思いつめたようなカオをしていらっしゃるけど……」

 エレノアが心配そうに声をかけてきた。ロウはせめて、別れの挨拶だけでも口にしようと思う。

「エレノア……。すまんのう。わしはもう行かねばならぬ。エルシスを頼んだぞ」
「変なお父さま。エルシスならちゃんと見ていますから、早く帰ってきてくださいね……?」

 曖昧に微笑んで、続いてアーウィンに視線を移す。

「アーウィンよ……。エルシスの未来はお前にかかっておる。どうか……守ってやってくれよ」
「もちろんですよ、ロウさま。なにが起ころうとも、エルシスとエレノアは必ず守り抜いて見せます!」
「アーウィン……ありがとう」

 深くは聞かずそう力強く答えてくれたアーウィンに、心からロウは礼を言った。

 彼らに背を向ける。

 耐えがたい思いが、一歩踏み出そうとするロウの足を重く引き留めた。
 それでもロウは、歩み、大広間を後にした。

 もう、覚悟は決めた。

(幻は、幻でしかないのじゃ……)

 失われた者たちのために、自分は歩みを止めてはならない。それがあの日、亡くなった者たちへの、生きている自分からの弔いだ。


「……バニーちゃん。ようやく、おぬしを捕まえられそうじゃのう」


 バニーガールは、今度は逃げなかった。


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