彼女は海の底

 ――海の底にある、海底王国ムウレア。
 千里の真珠で、地上の様子を眺めているのは、その国を治める女王セレンだ。
 
「勇者の仲間たち……その希望の炎のかがやきは、今も消えてはいない……。たとえ、ロトゼタシアが闇につつまれても、すべてが終わったわけではない。まだ、希望はある……!」


 セレンの言葉に答えるように、真珠は眩い希望の輝きを放っていた。


 ……――水泡の音が、する。まぶたを開けると、その視界に魚たちの姿が映った。

(あれ……わたし……、ここは……?)

 顔を横にずらすと、魚たちは逃げていく。色鮮やかな珊瑚。ゆらゆらと揺れる海草。
 ここは、海底都市ムウレア――?
 どうして自分がここにいるのか、ユリにはわからない。

 貝殻ベッドに寝ていたらしく、起き上がると、ユリは自分の異変に気づいた。

「人魚……?」

 そこに二本の足はなく、不思議な色に輝く尾ひれになっていった。
 そして、異変はそれだけではない。

「……!」

 不意に自分の右手の甲を見ると、そこには今までなかったアザが浮かんでいた。


 どうして……、勇者の紋章が――


「……ああっ、よかったユリさん!目覚めたんですね!」

 困惑するユリは、その声にはっとし、そちらに顔を向ける。三つ編み人魚の彼女は、確か……

「大怪我をしていて、一時はどうなることかと……」
「あの、私……」
「あっ!急いでロミアさんを呼んでこなくちゃ!」

 ユリがなにかを聞く前に、ロミアの家政婦の彼女は慌てて外に泳いでいってしまった。

(ここは、ロミアさんの家……)

 わからないことだらけだと、ユリはうつ向き、片手で顔を覆う。どうして自分はムウレアに……。
 あのとき――魔王が復活し、命の大樹は枯れ果ててしまった。

(みんなは、無事なの……?)

 たしか……たしか……、そうだ。ベロニカがバシルーラの呪文を唱えて、ぎりぎりのところで皆をあの場から離脱させてくれたんだ。

(……あ、私のポーチ……)

 近くにはポーチと、愛用の剣が置いてあった。弓矢がないのは、失くしたのかもしれない。
 ポーチを開けると、中から短剣が出てきた。……カミュにもらった短剣だ。
 それを胸の前でぎゅっと握りしめる。
 自分がこうして無事なら、皆もきっと……

「ああ、ユリさん、目が覚めてよかったわ!」
「ロミアさん……!」

 現れたロミアに、ユリは思考をそこで止める。ユリの姿を目にしたロミアは、安堵の笑みを浮かべた。

「ユリさん、海底に落ちてきてからずっと眠りつづけていたの。あのケガから息を吹き返すなんて、奇跡が起こったのね」
「ロミアさんが助けてくれたのね。ありがとう」

 ユリの手を優しく握るロミアは、静かに首を横に振った。

「私はここで看病していただけ。痛みにうなされるユリさんに、女王さまが毎晩癒しの唄を歌ってらっしゃったの。ユリさんが助かったのは、女王さまのおかげよ」
「セレン女王が……」

 たしかに大怪我をしていたと言われたが、痛みはない。
 そして、看病をしてくれたというロミアに、彼女のおかげでもあると再度ユリはお礼を言った。

「あの、ロミアさん。聞きたいことが……」
「……地上は、大変なことになっているみたいだわ。海に凶暴な魔物が増えて、王国から出ると危険なの。……キナイは大丈夫かしら……」

 憂いを帯びた表情で話すロミアは、はっと顔を上げてユリと視線を合わせる。

「ごめんなさい、ユリさん。私ったら、自分のことばかり……」
「ううん。……やっぱり、地上は大変なことになっているのね」
「女王さまなら地上がどんな様子か、詳しくお話しできると思うわ。きっと、あなたのことを待っている」

 ロミアの言葉に頷き、ユリはさっそくセレンに会いにいくことにする――が。
 尾ひれは動かせるのに、なかなか前に進まない。

「ふふ。ユリさんは人魚になったばかりだから、まだ泳ぎが上手じゃないのね」
「どうして、私は人魚に……?」
「女王さまの魔法よ。慣れれば私たちみたいに、海の中を自由自在に泳げて便利だと思うわ」

 ――ロミアに泳ぎ方のコツを教わると、ユリはぎこちなくも人魚の姿で泳げるようになった。

「海底王国って、こんなに広かったんだ……」
「人間の足だと行ける場所が限られてしまうけど、上も下もここは王国なのよ」

 くるりと回ってロミアは言う。高い位置を泳ぎながら、王国を上から見下ろす。
 人魚になって水中を自在に泳げるだけでなく、ユリが驚いたのは……

「……え?魚がしゃべるのにおどろいてるの?魚がしゃべるのは当たり前のことよ〜!それに、あんた人魚じゃな〜い。人間以外が言葉を持たないとアタマから決めつけるなんて、おっかし〜!」

 魚の言葉がわかることだ。初めて魚と会話を交わしたのに、言いたい放題言われた挙げ句、鼻?で笑われた。

「あんた、カナガシラみたいにアタマのかたい人魚ね〜!」
(カナガシラ……?)

 ……もしかしたら、魚の言葉がわからない方が平和だったんじゃないかと、ユリはちょっぴり思った。

 泳ぐのにもだいぶ慣れて、セレンのいる海底宮殿に向かうと、ユリは海の民に声をかけられる。

「お嬢さん、キズはもういいのかい?アンタときたら、ボロボロの格好でサンゴの森に引っかかってたんだもん。どっからどう見ても死んじゃってるからいいだろうって、サメたちがどう料理するか相談してたよ」
「サ、サメ……?」
「女王さまが止めてくださらなかったら、アンタは今頃サメの腹の中。二度と目覚めることはなかっただろうね」
「まぁ、ユリさん。危機一髪だったのね」

 ロミアはよかったとおっとり笑ったが、ユリは笑顔を引きつらせた。まさか、サメに食べられるところだったとは。

(セレン女王に深くお礼を言わないと……)

 二度の命の恩人である。海底宮殿へ着くと、門番の人魚がユリを出迎えてくれた。

「待っていたぞ。元天使の人魚よ。ん?元天使で元人間の人魚か。……ややこしいな」

 自分が元天使だということは、一部の人魚には伝わっているらしい。

「ここは海底宮殿。女王セレンさまは、そなたが目覚めるのを心待ちにしておられた。女王さまは玉座の間にいらっしゃるぞ。きっと、およろこびになるだろうから、元気に泳ぐ姿を見せてやりなさい」

 そして、宮殿内へと通してもらう。

「ロミアさん。ここまで一緒につき添ってくれてありがとう」
「ユリさんのお役に立ててよかったわ。また、いつでもお家に遊びにきてね」

 ロミアと笑顔で別れて、ユリは頭上を見上げる。

「ようこそ、元天使さん。女王さまが玉座の間にてお待ちです。玉座の間へお連れしましょうか?」
「自分で泳いでいってみます」
「……ふふ。かしこまりました。がんばって泳いでくださいね」

 控えていた人魚に見送られ、ユリは尾ひれを動かし、縦に泳いでいく――

 やがて、玉座の間への入り口が見えた。

「……ユリスフィールがお目覚めになったのね。こうしてはいられない……時は満ちました」

 ユリが玉座の間へ入る前に、セレンは気づいていたらしく、そんな会話が中から聞こえる。

「セレンさま……――!」

 ユリが玉座の間に訪れた瞬間、どしんという地響きのような音と、ぐらりと宮殿が揺れた。
 セレンの持っている杖の真珠が、危機を知らせるように光っている。

 それを見て、セレンは杖を床に突いた。

「クッ……!」

 あれは、結界……?海底王国にも、天使界と同じように結界が張ってあるのは知っている。
 セレンから魔力を感じ、ユリは結界を強化しているのだと気づく。

「陛下!!」
「フフッ。大丈夫よ……。わたくしには、まだやることがある。それまでは……」

 心配そうにする海の民の大臣に、セレンは安心させるように微笑んだ。
 ユリはセレンの元へ、ゆっくり泳ぎ向かう。

「……あら。おはよう、ユリスフィール。フフッ、その姿……とってもお似合いよ。いつにもまして、かわいらしいわ」
「ごきげんよう、セレンさま。この度はいろいろと助けていただき、本当にありがとうございます」

 優しく微笑むセレンに、ユリは頭を下げて感謝の言葉を述べる。

「キズはだいぶ癒えたようですね。王国の民があなたを運んできた時には、難破船みたいにボロボロだったのですよ」
「……魔王のチカラに、私たちは太刀打ちできませんでした」

 私は、なにもできませんでした――懺悔するようにユリが言うと、セレンは彼女を慈愛の眼差しで見つめる。

「魔王はあなたを死んだものと思っていました。わたくしは魔王の目をあざむくために、あなたを人魚の姿に変えていたのです」
「それは……」

 それは、自分が元天使だからだろうか。それとも――

「あれからもう、数か月になるかしら……。わたくしの魔法で人魚の姿になったあなたは、今までこんこんと眠り続けていたわ」

 数か月も……ユリは絶句した。そんなに時が経って、世界はどうなってしまったのだろう。

「キズが完全に癒えれば、やがて人間の姿に戻れるでしょう。それまでムリは禁物ですよ」
「はい……」
「フフッ。それとも、このまま人魚になってもかまいませんよ。空を飛び、海を泳いだ者は、このロトゼタシアであなたが初めてかも……ですね。フフフッ」

 冗談のように言って可愛らしく笑うセレンに、ユリは困った笑みを浮かべた。

 ――どしん。

 再び振動のような大きな音が響き、セレンの杖の真珠が光を放つ。(……もしかして、結界が……!)

 はっとユリはセレンへと視線を送った。

「……聞きたいことがたくさんある。そんなカオをしていますね」

 不安とも悲痛ともいえるユリの表情を見つめながら、セレンは口を開く。
 
「あなたたちが挑んだあの戦いのこと。勇者エルシスのこと。共に戦ったお仲間のこと。……わたくしはすべてを見ていました」
「っセレンさま、教えてください……」

 教えてほしいことは、それこそたくさんあった。
 世界の状況、仲間たちの安否、魔王の動向……そして。

「なぜ、私の手の甲に……勇者の紋章が現れたのでしょうか……?」

 信じられない、という顔と声でユリはセレンに問う。

 勇者の力は、魔王に奪われて失われてしまったはず。それに、自分の甲にあるということは、本来の勇者であるエルシスは……
 セレンはユリの質問にすぐには答えず、杖をかざした。すると、ちょうど真上の壁にある扉が、杖に反応して開く。

「ユリスフィール。すべてを受け入れる覚悟が出来たら……わたくしについて来なさい」

 覚悟、という言葉にユリは息を呑んだ。泳ぐセレンは尾ひれをなびかせ、その扉の中へと入っていく。

「…………」

 残されたユリは、ぎゅっと拳を握り絞めて……その扉の向こうを見つめた。

「守り人の海への扉が、王家の人魚以外のために開かれるのは何百年ぶりになるでしょう……。それほどまでに女王セレンさまは、ユリスフィールさまにお伝えしたいことがあるのです。どうか、心してお進みください」

 大臣は佇むユリの心情を察して、そっと声をかけた。

 "すべてを受け入れる覚悟"

 こわくないと言えば、嘘になる。
 けれど、ここで立ち止まることはできない。
 ユリは海の中で深呼吸をした。

 ――よしっ。

「大臣さん。私、行ってきます」
「……あなたなら、きっと大丈夫です」

 迷いのない顔を大臣に向け、ユリはまっすぐと上へ向かって泳ぐ。扉の横には、サメが見張りについていた。

「女王さまは、この先の守り人の海であなたを待っておいでです。どうぞ、お進みください」

 ユリは扉をくぐり、守り人の海へと泳ぐ。

 そこは、静かな海だった。

 魚はおらず、海藻だけが野に咲く草花のようにゆらゆらと揺られている。
 洞窟のような道を抜けると、ぽっかりと光が射し込み場所に、セレンはユリの訪れを待っていた。

「人間を連れてきたのは、何百年ぶりかしら。ここは、守り人の海。海底の王たる者が、立ち入ることを許された海」

 ユリの訪れと、その顔を見て覚悟を知ると、セレンはこの場について説明した。
 そして、視線を白サンゴの台座に乗った大きな美しい真珠貝に移す。

 その真珠は、どこか神秘的なかがやきを放っている。

「これは王家に伝わる、千里の真珠。川や湖、一滴の朝つゆ、あらゆる水に魂を乗せて、地上の様子を見ることができる秘宝です」
「それで、セレンさまはあらゆる出来事を見ていたのですね」

 セレンはユリの言葉に頷くと、杖をかかげた。

「……地上にこっそり雨を降らせました。今なら、この雨を通じて世界を見ることができるでしょう」

 小さな雨粒に魂を乗せて、地上の様子を見るという。

「さぁ、ユリスフィール。準備は、いいですか?今、世界はどうなっているのか……千里の真珠に触れるのです」

 ユリはこくりと頷くと、千里の真珠へと手を伸ばした。
 ……――気づくと景色が変わり、ロトゼタシアの上空にいた。


「……っ!」

 眼下に広がる景色を目にし、胸が切り裂かれるような痛みを覚える。
 荒れ果てた大地。草木は枯れ、未だに火種が燻っている。

 そして、目の前には大きな枯れ木があった。
「……まさか……これが命の大樹……」
 無惨に地面に落ち、生命力も聖なる力もなにも感じない。
 
「これが、今のロトゼタシアの姿。あなたたちが魔王ウルノーガに挑んだあの日、世界は死んだのです」

 世界が死んだ――。セレンの言葉を、ユリはただ受け止めることしかできなかった。

「熱をおびた猛烈な爆風が世界を駆けぬけ、草木を焼きはらい、水を干あがらせた」

 どうして守れなかったのか。どうしたら守れたのか。

「空からは燃えさかる大岩が降りそそぎ、山脈を崩し、大地を砕いた……。魔王ウルノーガは、多くの命を一瞬にして奪いさったのです」

 たくさんの命……。(私は……)
 天界が滅ばされ、生き残ったこの命で誓ったのに、使命もなにも果たせなかった。

「絶望が新たに生み出すものは悲しみだけ……。わたくしは、すべてを見ていました。しかし、どうすることも出来なかった……」

 最後に紡がれた言葉に、ユリはセレンの横顔を見た。
 国を統べる女王として、表には出さずとも。
 彼女もまた、地上の出来事と自分の無力さに苦しんでいたのだと知る。

 セレンが杖を軽く振ると、景色が変わる――。
 荒れ果てた地に、ぽつんと建っている教会があった。……デルカダールにある導きの教会だ。

 そこに訪れたのは、ひとりのまだ幼い少女。

 教会の中は暗く、どんな時でもあたたかく迎え入れてくれる神父の姿はない。
 雷の稲光で室内が一瞬照らされると、少女は短い悲鳴を上げた。

 そこは、命を失った人々の亡骸たちで埋め尽くされていたからだ。

 糸が切れたように床に倒れている者、神に助けを求めながらこと切れた者。
 生きている者は、ひとりもいない。ここに訪れた少女だけ。

 少女は恐ろしさに足がすくみ、床に崩れるように倒れる。その際、目に入ったのは、自分と同じぐらいの生き絶えた少年の姿だった。

 どれだけの絶望を目にしたのか。

「たす……て………」

 ユリは気づくと両目から涙が溢れていた。自分が泣いてもどうしようもないのに、止まらなかった。

「……だれか……たすけてっ……!」

 必死に助けを求めているのに、助けられない。くやしい……っ
 唇を血が出そうなほどに噛み締める。
 そのとき――顔を上げた少女と、確かに目が合った。

「そこに……だれか、いるの?」
「……ッ」

 そう問われ、ユリは無我夢中で叫ぶように返事をする。

 伸ばされた小さな手を、必死に掴もうとする。

 魂だけを乗せて、この光景を見ているだけなので、少女と言葉を交わすことも触れることも決してできない――。
 少女を助けたいという必死なユリの姿に、セレンは自身の口から伝えられず、そっと悲しみに目を伏せた。

「たすけて……」

 ユリは涙で濡れる目を見開く。だめ……!その手はすり抜け、少女は力尽きるように――

「!……あの人は……」

 その手が床に落ちる前に、受け止める者がいた。
 顔はここからでは見えないが、体格のいい男で、剣士だとわかる。
 その背中に、大剣を背負っていたから。
 彼は気を失った少女を抱え、その場を後にした――……

 少女を助けようとする者が現れ、一先ず安堵するユリの目に、再び違う光景が映る。
 道なき道を、ひたらすらどこかへ向かって歩く人たちの姿だ。

「もう、帰る家もねえ、家族もいねえ。だけど、命がまだあるじゃねえか。それなら歩け、歩きつづけろ!」
「そうよ、英雄についていきましょう!デルカダールの南に、最後の砦があるの。あそこなら、私たちを守り、助けてくださるわ」

 デルカダールの南……?それに、英雄とは……。

 皆がフラフラと歩くなか、娘と歩く若い母親は、胸を押さえながら足を止めた。
 青い顔をしている。一緒に歩いていた彼女の娘が、心配そうに見上げて寄り添う。

「あきらめるな。英雄は僕たちを見捨てない。最後の砦に行けば、何かが変わる。絶望してはいけない……生きるんだ!」

 男が励ますように力強く母親に言った。
 他の者たちも足を止めて、男の言葉に同意する。

「歩け。歩きつづけろ。デルカダールの南に最後の砦があるっ……!」

 母親は目に生気を取り戻し、しっかりと頷いた。
 再び、彼らは歩いていく。
 小雨が降るなか、やがて暗い雲の隙間から光が差した。
 その光を受けるように、皆の先頭を引いている男。その腕には少女を抱いており、先ほどの者だとわかった。

 後ろ姿だが、紫の髪色、その立ち振舞いでユリは気づく。

「グレイグ……?」
「絶望の中にも希望は残っています。この世界のどこかに、彼のような希望の炎をいくつか感じます」

 ユリがその名前を小さく呟くと同時に、セレンが口を開いた。

「しかし、その炎もいま消えようとしている。誰かが灯してやらなくては」

 同じようにその光景を眺めていたセレンだったが、ユリに視線を移す。
 視線が交差し、セレンはまっすぐユリを見つめたまま……

「……それは他でもない、あなたの役目」
「私の、役目……」

 その言葉を、ユリは考える。……人々の希望を燃やすことが、天使としても人間としても、曖昧な自分にできるのだろうか。
 セレンは視線を上空に移し、ユリもつられるように見上げた。
「あれは……」
 禍々しい闇のオーラをまとう、城のようなものが空に存在している。

「世界の意思たる命の大樹は地に落ちました。そして今、世界を統べるのは、悪しき天空魔城に住まう魔王ウルノーガ」

 その城を強く見据えるセレン。微かに表情を厳しくさせ、感情を抑える声でユリに話す。

「魔王は命の大樹の魂を吸いとるだけでは、飽きたらず……この世のすべての命をつみとり、悪しきチカラに変えようとしているのです」

 続けてセレンは「……あれをご覧なさい」と、灰色の海を見つめた。

 …………

 同じように見つめるユリの目に、海の中――海の底――やがてマーマンの大群が映る。

「……!」

 禍々しく、巨大な海獣のような姿をした魔物が、なにかを力ずくで壊そうとしていた。

 ――セレンの杖の真珠が光を発する。

 両手をかざし、集中して結界を強める術を唱えるセレン。その形のいい額から、一筋の汗が流れるのをユリは見る。

「あれは……わたくしたち、海底の民の命を狙う、魔王ウルノーガの手の者です」
「やはり……海底王国の結界を破壊しようとしてるんですね」

 ユリの言葉に、セレンは無言で頷いた。

「海底王国はわたくしが作った結界で魔王の目をあざむき、難を逃れてきました。……けれど、それももう限界です」

 悟ったような目。かつては美しかった海を見つめながら、セレンは静かに言う。

「魔王のチカラはわたくしのチカラをはるかにしのぎます。……まもなく結界は砕け、海底王国は魔物に飲み込まれることでしょう」

 ――あなたの天界と同じように。

「……っそん…な……っ」

 ユリの脳裏にその惨劇がありありと浮かぶ。

 結界を砕け散った瞬間、上空からおびただしい数の空を飛ぶ竜の魔物たちが襲撃した。
 天使たちも応戦するが、次々と白い羽が舞い散り、赤い血の色に染まって落ちていく。
 悲鳴があちこちから響き、反対に声も上げられず倒れた者もいた。

『ユリスフィール。お前はこのシルバーオーブを持って、勇者に届けるんだ』
『イザヤールさまは……!』
『私はこちらのニセモノを持って敵の気を引く。……そんな顔をするな。大丈夫だ。きっとうまくいく』

 混乱のなか、仲間の安否もわからないまま、別れの挨拶もできないまま、滅びゆく天界を、ユリは羽根を広げ、飛び出した。

 最後に見た光景は、白く美しい天界が、火の海に呑まれていく景色だった――……


「ユリスフィール。私が知りえることを話しましょう」

 あなたのその右手にある、勇者の紋章のことを……。
 その言葉に、ユリは顔を上げる。

「……魔王がエルシスから勇者のチカラを奪おうとした時、あなたは阻止しようとしましたね」

 聖なる魔力を込めて。その際に、勇者の力の一部がユリに移った……というのがセレンの見解だった。

「じゃあ、このチカラをエルシスに戻せば……」

 一筋の希望か見えた、と。手の甲の勇者の紋章を見ながら呟くユリに。セレンは一瞬、言うのをためらうような表情を見せ、口を開く。

「……本来の勇者エルシスですが、彼がどこにいるのか、私にもわからないのです」
「……え」
「私のチカラを以てしても……彼の魂も感じられない。私は、なんらかのチカラで、勇者エルシスは消失したと考えています」

 ――目の前が暗闇になったように感じる。
 セレンの言葉の意味はわかるのに、理解が追いつかない。

(エルシスが消失した……?)

 違う。そんなはずはない。だって、エルシスは……。(そうだ……)

「……私は、夢の中で会った。あれは、幼い頃のエルシスの記憶……?」
「……もう、あまり時間がありません。ユリスフィール。王国へ戻りましょう」

 ぶつぶと小声で呟くユリに、セレンは声をかけた。
 まだ頭は混乱しているものの、ユリはセレンの言葉に従い、共に海底王国へと戻る――。


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