勇者とは

 王国に着くと、セレンは民を集めるように大臣へ急ぎ指示をした。
 これから大切な演説をするという。
 王宮の外にはたくさんの人魚や魚たちが集まり、その中にはロミアの姿もあった。

「大切な演説とはなにかしら?なんだか不安で……」

 落ち着かせるようにぎゅっと両手を組むロミアを、ユリは優しく励ました。やがて、その場にセレンが現れ、ユリの顔を眺める。

「……不思議な人。あれほどの世界の惨状を目にしても、そのひとみに浮かぶ光は、消えていませんね」

 セレンに言われて、ユリは初めて気づいたような顔をした。……自分ではよくわからない。
 そんなユリに微笑を浮かべて、セレンは手を差し出した。彼女がその手を握ると、連れゆくようにセレンは頭上へと泳いでいく。

「ユリスフィールよ。これまで、多くの災いがあなたに襲いかかってきました!」

 ユリと向き合い、力強く話すセレン。

「しかし、その災いをいくどとなく打ち砕き、多くの命を奪ったあの破滅の最中にいながらも、あなたはこうして生きています!」

 ……そうだ。自分は二度も生かされた。

 一度目は、魔王に襲われ瀕死のところを、エルシスに助けられて。
 二度目は、ベロニカのバシルーラで窮地を脱し、海の底、セレンやロミアたちによって。

「そう……それはいまだ、あなたが魔王と戦う運命の中にあると、大樹が告げているのやもしれません」

 セレンは杖を振り、周囲に水流を作り出す。

「命の大樹が……」

 ずっと、考えていた。

(私が、生かされた理由……)

 この世に偶然はないという。だとしたら、その理由もきっとあるはず。

 ――目を閉じ、胸の前で片手を握りしめるユリを、セレンは見つめる。
 それが大樹からの運命であり、そのために生かされたとしたら……。
 過酷な世界の命運を、その小さな肩が背負うことになる。

(……それでも、私はあなたを信じますよ。ユリスフィール)

 何故なら彼女もまた……大樹に愛され、天使として生まれ変わった存在なのだから――。

「世界に勇者がいない今、あなたが勇者になるのです、ユリスフィールよ」

 セレンはユリに、世界を託す。

「その手の甲に勇者の紋章があるということは、命の大樹が選んだということ。この世界にふたたび光をもたらすために、希望の炎を灯しなさい」

 驚愕の目でユリはセレンを見つめた。
 自分が勇者になるということは、エルシスの存在は……?たとえこの世界に勇者が必要だとしても、心が追いつかない。
 ……そんなユリに、セレンは厳しくも優しく言う。

「希望の炎は、あなたの仲間たちと共にある。あなたの仲間たちに宿る、その炎が照らす先に、歩むべき正しい道が示されるでしょう」
「セレンさま……」

 次いでセレンは、表情を引き締め「はっ」杖をかざすと先端の真珠が光った。
 四方に生まれた水流は、みるみるうちに激しさを増し、ひとつの大きなうねりとなる。

「すべては大樹の導きを……」

 ――!

 海底全域で響くような轟音が、セレンの言葉を遮った。
 眼下で、人魚や魚たちが不安げにざわつく。

「見ろ!結界が!!」

 海の民が指を差す。はっとユリが見上げると――あの禍々しい海獣が笑ってこちらを見ていた。人魚たちの悲鳴が飛び交う。

 結界に、ヒビが入っている――。

「フフッ。ウルノーガはせっかちなのね。別れの言葉も言わせてくれないなんて……」

 その直後、セレンの持っていた真珠の杖は光が散るように砕け散った。

「セレンさま!今すぐ私を人間の姿に戻してください!」

 ユリはセレンに叫ぶように言った。気持ちの整理はついてはいないが、戦う覚悟はできている。

 この美しい海底王国を、天界のようにさせたくない――!

 セレンはユリに微笑み、その頬を片手で優しく包み込んだ。
 ふっと息を吐くと、それは呪文となり、ユリの身体は流される。

「セレンさま……っ。どうして……!」

 ユリは尾ひれを必死に動かし抵抗しようとするも、セレンとの距離は遠くなる一方だった。

「前を向きなさい!振り返ってはなりません。勇者とは……」

 響いた轟音は、振動となってセレンを襲う。

「……勇者とは!」

 よろめきながらも、彼女は必死にユリに思いを……言葉を伝えようとする。

「最後まで、けっして……あきらめない者のことです!」

 その言葉を……!

「セレンさまーーー!!」

 ユリは手を伸ばすが、セレンが作った大きなうねりに呑み込まれた。
 彼女はそれでいいというように、最後に微笑む。

「ああ……!」

 結界を破ろうとする魔物の勢いは止まらない。
 ユリの目に、必死に逃げる人魚や海の民たちの姿が映る。

(ロミアさん……っ!)

 ……お願い。どうか、どうか逃げ切って……

 さらに亀裂が走った。結界はもう持たない。


 "……海底王国の民どもよ。その命……魔王さまのため、もらいうける……!"


 ――水中に恐ろしい声が反響した。崩壊した結界の穴から、魔物は海底王国を見据える。
 禍々しい巨大な海獣だ。頭には長いツノと赤い目。にんまりしている大きな口には、びっしりとギザキザの歯が生えていた。

 一直線に海底王国へ降下する魔物と、水流に流されるユリがすれ違う――。

 ユリはなにもできず、ただ流され、魔物が襲おうとするのを見送ることしかできない。

 遠ざかる海底王国。

 魔物たちが一斉に襲撃する光景が、最後に目にした天使界と重なった。
 

 ……――ユリが流れついた場所は、珊瑚が美しい水中だった。
 ここがどこだかわからない。でも、今は考える気力がない。

 ユリはひとり、岩の上に座っていた。
 顔を伏せ、尾ひれとなった膝を抱えて。

 エルシスのこと、勇者のこと、仲間たちのこと――。

 考えるべきことはたくさんあるのに、前に進まなきゃいけないのに、魔物に海底王国の光景が、頭から離れない。

「……?」

 ……誰かがユリの頭をつついた。水中なのに涙で濡れた顔を上げると、そこには一匹の魚がいた。

「……あなたも逃げてきたの?」

 紫色のウロコにぽっこりしたお腹と、丸い身体。金魚のようなヒレをヒラヒラさせている。
 澄んだ青い瞳に、どことなく目元がエルシスっぽく見えた。
 …………。そう思ったら、無表情っぽいその顔もますますエルシスに見えてくる。
 今まで泣きじゃくっていたのに、ユリは思わずくすりとしてしまった。

「あなたはひとり?さびしくない?」

 話しかけるも、魚はなにも答えない。
 人魚の姿だから魚と会話できると思ったが、しゃべれない魚もいるのだろうか。
 代わりに魚はくるくるとユリの回りを泳いで、励ましてくれているように感じた。

「……そうだね。もう行かなきゃ」

 どこに行けばいいのか、なにをすればいいのかもわからないけど、このままで座っていても始まらない。

「ありがとう、お魚さん。私はもう大丈夫……」

 ユリがそう微笑むと、魚も微かに笑った気がした。
「……ん?」
 魚はなにかに気づいたように、ゆらゆらと泳いでいく。ユリは目で追った。

 海の上から糸が垂れ下がっている。

 その先には針がついており、そこにはプリっプリのおいしそうなエビが。見上げると、小舟の影があり、釣りのようだ。

 …………ぱくり。

「あー!だめー!」

 ユリが止める前に、魚はエビに食いついてしまった。
 ユリは慌てて魚を引き離そうとする。釣り人には悪いが、この子は食用じゃない。きっと。


 ――小舟でひとり、釣りをする男。その手の中にある竿が、ぴくりと動く。
 微かな反応で男が起きると、それは左右に暴れだして、男はぐっと握りしめた。

「おっ、おおおおおっ!こいつぁデカイぞ!まさか、伝説の人喰いオオマグロかぁっ!?負けねぇぞ、俺は海の男アラーニ!」

 アラーニは、そのムキムキの腕に力を込め、一気に引き上げる!

「うをぉっ!」

 ざっばーん。水面に大きく水飛沫が跳ねた。
 引き上げたと同時に、勢いあまってアラーニは後ろに倒れる。いてっ。その際頭をぶつけたが、そんなこたぁどうだっていい。

「……やったぁ。やったぞ!こりゃあ大物だっ!!世界が破滅したって言ったって、生きてりゃいいことがあるってもんよ!」

 ……ん!?喜ぶアラーニだったが、その目を疑った。
 重い雲に覆われた空の下、下半身が魚の尻尾の娘が、宙を飛んでいる――。次の瞬間、小舟が大きく揺れた。

 人魚か!?俺は人魚を釣り上げちまったのか……!?

 慌ててアラーニが振り返ると――そこには、人間の姿に戻ったユリがいた。

 …………。

「……あれ、人間に戻ってる。それに、お魚さん……?」

 驚くアラーニをよそに、海に戻ったのかしら……と、海を覗くユリ。

「な、なぬぅーーっっ!!ひ…人!?おいっ、嬢ちゃん!ど、どっから乗ってきやがった!?」
「ええと、あなたに釣り上げられて……?」
「いくらハラが減ったって、魚のエサを横取りする女の子があるかよ!いったい何があったってぇんだ!?」

 魚のエサを横取りしたわけではないけど、魚を逃がしてしまった事実がある。
 どう答えようかとユリが悩んでいると、アラーニは泣き晴らしたその目に気づいた。

「おい、嬢ちゃん……泣いてんのかい?」

 どうやら黙っていたのが、泣いていると思われたらしい。

「……いえ、もう泣いてません」

 ユリは立ち上がって、暗い海を眺める。

「何がなんだかわからんが……深いワケがあるみてぇだな。よしっ!こまってるヤツは放っておかねえ!それが、海の男ってもんだっ!」

 ユリの様子を見て、アラーニは励ますように豪快に笑いかけた。

「嬢ちゃん、ひとまず俺の小屋に来て、ひと晩休んで行けよ。こんなご時世だ。安全な場所はどこにもねぇ」

 気づかなかったが、辺りは暗い。闇雲に動くのは得策じゃないだろう。

「けどな、あそこなら……最後の砦なら、チカラになってくれるかもしれねぇぜ。あそこには英雄がいる、俺たちの希望だ!」

 最後の砦――千里の真珠で見た光景を思い出す。英雄とは、きっとグレイグのことだ。

「私、そこに行きます!」
「それがいい!さぁ、そうと決まればさっさと出航だ。嬢ちゃん、しっかりつかまってろよ。こっから先は海が荒れるぞ……」

 アラーニは小舟を岸に向かって漕ぐ。

「俺はアラーニってんだが、お嬢ちゃんの名前は?」
「私はユリスフィールです。でも……みんなからユリって呼ばれてます」
「愛称ってやつか。じゃ、ユリの嬢ちゃんだな!」

 ユリはアラーニの言葉に甘えて、漁師小屋で一晩休ませてもらった。
 よそ者なのに食べ物も分けてもらい、ユリが申し訳なさそうな顔をすると、アラーニは「このご時世、持ちつ持たれつだぜ」と豪快に笑った。

 翌朝――船着き場で、ユリは地平線を眺めるていた。朝なのに空は暗く、その空を映すように海も灰色だ。
 ここは、デルカコスタ地方の港だという。
 浜辺の方に行くと、朝早くから働くアラーニの姿があった。

「おう、ユリの嬢ちゃん。お目覚めかい?しかし、イヤになるよな。もう朝だってのに、まるで夜みてぇに真っ暗だ」
「世界が……異変が起きてから、ずっとこんな天気なんですか?」
「なんだい嬢ちゃん、知らねえのかい?……あそこを見てみなよ」

 アラーニはデルカダール国がある方を見上げた。その空には、暗闇のような靄が空を覆っている。

「あの不気味な闇は、おっかねえ爆発が起きた日にデルカダールっつう国の城から、突然湧いてでたって話でな……」
「デルカダール城から……」
「それ以来、あの闇がお空をおおっちまって、この大陸に住む俺たちは、お天道さんのカオを見ていないってワケよ」

 そこまでアラーニが説明すると、突然、鳥たちが一斉に飛び立った。

「まずいっ!隠れろ!!」

 なにがなんだかわからないまま、ユリはアラーニと共に荷物の影に隠れた。
 空にはぎゃあぎゃあと叫びながら、翼の生えた魔物たちが飛び去っていった。

「……っふう。あぶねぇ、あぶねぇ。ヤツラはな、闇と一緒に城から湧いてでた得体の知らねえ魔物どもだ」
「……魔物が増えてるのね」

 海の魔物が増えて、凶暴化していると聞いたが、それは地上も変わらないらしい。

「ちっ、ヤツラめ。ハラを空かしてこんな所まで出てきやがったか……。いつまでもここに隠れてるワケにいかねぇな」

 顔をしかめて、アラーニは腕を組む。

「面倒みてやりたかったが、この小屋で食料を調達すんのが俺の仕事でな……悪いがここから離れられん。だがな、嬢ちゃんは一刻も早く、もっと安全な最後の砦に行ったほうがいい。見たところ、剣は装備してんが……」
「はい、戦えます。大丈夫です」

 腰に装備した剣の柄に手を置きながらユリが言うと、アラーニは安心したように頷いた。

「あそこは俺たちの英雄がいるからなっ!嬢ちゃんを守ってくれるはずだ。ここから西に行くと、イシの大滝がある。最後の砦はそこを抜ければすぐだ」

 イシの大滝――それを聞いてユリはもしやと思う。(最後の砦があるのは、イシの村……?)

「気いつけて……また会おうな、ユリの嬢ちゃん」
「アラーニさん。いろいろお世話になりました。……あなたもご無事で」

 お互いの無事を祈り、ユリはアラーニと別れた。
 さっそく旅立とうとするが、どこからか呼び止める声が聞こえる……

「ユリ嬢さまー!ユリ嬢さまー!」
「……ヨッチ?」

 足元に、蝶ネクタイをつけたヨッチがユリのことを呼んでいた。

「おお、ユリ嬢さま!ワシはヨッチ村にいるクルッチの叔父のオジッチだッチ!」

 そうだ。そんな名前だった。すっかりヨッチ族のことを忘れていた。

「命の大樹がなくなった後、勇者さまの行方がわからなくなったから、ずっと探していたッチ!そしたら同じく我々の姿が見えるユリ嬢さまを見つけたっチ!」

 ユリはオジッチに勇者のことを説明した。勇者は今、行方不明だと……。

「そうだったっチか……。こんなたいへんな時に申し訳ないけど、引き続きヨッチ族の使命を果たすお手伝いをしてほしいッチ」
「うん。ヨッチの合言葉を聞くぐらいなら私にもできるから……」
「じゃあ、ヨッチ村に行きたくなったら、またワシに声をかけるッチ」

 オジッチはここに滞在すると言った。ヨッチ村に行きたくなったときはここに来よう。……いつになるかわからないけど。

「いやービックリした。大樹が地に落ちたあの日から、突然この辺りの魔物が強くなってるんだ。お嬢さんも真っ赤な目をした魔物には気をつけなよ。ヤツらは凶暴化して、以前より強くなっているからな」

 次に旅の商人からそんな情報を入手し、ちょうどユリは、ロトゼタシアの地図を購入した。
 本当は失くした弓矢も購入したかったが、このご時世で武器の需要が高まり、供給が間に合わないのだと商人は言った。
 剣と呪文があれば、ここからイシの村辺りの道中までならなんとかなるだろう。
 ユリはひとり、デルカコスタ地方の港を出発した。


 なるべく魔物との戦闘は避けて、西へと歩む。

 ……ひとり旅は、初めてだった。

 エルシスと共に旅立ち、デルカダールの牢屋でカミュと出会った。
 ホムラの里で、ベロニカとセーニャが仲間になり、サマディー王国ではシルビアが。
 ユグノア城跡地で、マルティナとロウが仲間になった。

 ずっと彼らと一緒に旅をしてきたから、ひとりはこんなに孤独なのだと知る。

(この道は……雨が降るなか、熱を出したエルシスをカミュが背負って歩いたんだ)

『……ったく。こいつ、顔のわりに体格良いからな……何食ったらこんなに育つんだよ……』
『シチューじゃないかな。牛乳って背が伸びるって……』

 ――そう答えたら、カミュがすごく不服そうな顔をしたのを覚えている。

『返事は……この旅が終わったら、くれ』

(…………)

 返事を伝えられる日は来るのか、もう、自分にはわからない。


「ヒャダルコ――!」

 氷の刃が、頭上から襲いかかってきたガルーダ・強を突き刺す。魔物との戦闘は避けつつも、凶暴化して襲ってきた魔物は別だ。

 ユリは剣技と呪文で返り討ちにしていった。

 この凶暴化は、魔王の悪しき力によってだろう。それだけではなく、この地方では見かけないはずの、スカルゴンやグールといった凶悪な魔物もはびこっていた。

 イシの大滝に着くと、清らかな雰囲気に魔物の存在はなく、ユリは少し休憩を取ることにした。
 そこにある三角岩は、エルシスとテオの思い出だ。足元には、テオからの手紙が入った箱を掘り起こした跡が残っている。

 三角岩に手を触れると、ひんやりと冷たくて、心が落ち着く気がした。

 イシの大滝を過ぎて、洞窟を抜けると――前にはなかった木で出来た防護柵が建てられており、見張りをしているデルカダールの兵士の姿があった。

「やや。これは旅のお嬢さん。こんな所にひとりでいたらあぶないですよ。早いとこ、南にある最後の砦にお行きなさい」

 兵士に急かされ、ユリは最後の砦に向かうが……その風景に心を痛めた。
 千里の真珠で見た光景と同じく、野が燃え、火種が燻っている。

「ここが……最後の砦」

 やはり、イシの村が最後の砦となっていたようだ。
 敵の侵入を防ぐため、先端を鋭く尖らせた木の枝が並べられた柵をユリは見上げる。
 デルカダールの国旗がかかげられており、先ほどの兵士といい、彼らが指揮をとっているのだろう。……いや、正確にはきっとグレイグが。

 ユリは木の扉を押して開ける。中から犬の吠える声が聞こえる……と、思ったら。

「ワン!ワンワン!」
「……!?」

 ……ルキ?

 ルキによく似た犬が、尻尾をぶんぶんと振っている。イシの村は滅ぼされて、ルキも共に……と思っていたが。

「あなた、ルキなの……?」

 ユリはしゃがんで、その顔を両手で包んでよく見る。……間違いない。頭を撫でてみると、そのさわり心地に確信した。

「ルキ……!」
「ワン!」

 名前を呼ぶと、ルキはそうだと言うように返事をした。ルキはエマの相棒の犬だ。どうしてここにいるのかはわからないが、ルキは無事だったのだ。

「ワン!ワンワン!」
「待って!どこにいくの?」

 走り出したルキを、ユリは慌てて追いかける。ルキはときどき立ち止まり、ユリが近づくと、再び走り出す。
 水溜まりも気にせずばしゃばしゃと走って、たどり着いた場所。

「…………」

 ユリはその場で立ち止まり、驚きに見渡す。

 ここが、今のイシの村――。

 ユリが知っているイシの村は、のどかであたたかい村の光景だった。次に目にしたのは、焼き払われ、悲しみに暮れた景色。

 そして……今はどうだ。

 柵や櫓、弩弓などが配置された、物々しい景観に変わっている。
 魔物たちに対抗するとはいえ、エルシスが見たらショックを受けるのでは、とユリは思った。
 
 茫然と眺めていると、再びルキがどこかへ走り出す。

「ルキっ!もうっ、どこに行ってたの!?」
「ワンワン!」


 ………………エマ?


 金色の髪、オレンジのスカーフ、エプロンのような服装。……まさ、か。

 ――ルキの視線を追う彼女は、立ち尽くすユリに気づいた。
 二人の目が、合う。彼女の腕から、集めた薪が落ちた。

「……ユリ……?」

 …………ああ、間違いない。彼女はエマだ。
 エマは泣きそうな笑顔を浮かべ、ユリに駆け寄る。

「ユリ……ユリなのねっ!……私よ。エルシスの幼なじみのエマよ!ちゃんと覚えてる?」

 ……覚えている。だってエマは、記憶を失くしたユリの、初めての友達だ。

「エマ……っ」
「ちょっ……ユリ!?」

 ユリの膝が折れ、ぷつんと糸が切れたようにその場に座り込んだ。
 視界が滲む。海中でさんざん泣いたのに、涙は枯れなかったらしい。

「……生きてた……」


 ……エルシス……


「っエマ、生きてたぁ……」
「う、うん。私は生きてるわ」
「エルシス……!エマ、生きてたよぉ……!」


 ……――どうして。
 彼はここにいないのだろう。


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