記憶喪失のカミュ

 別れと再会……一度に色々あったその翌日の朝に、シルビア号は北の大陸を目指し、出港した。

「カミュ、昨日の夜はよく眠れた?」
「あっ、はい。本当にありがとうございます……!ずっと野宿だったんで、久しぶりにぐっすり寝られました」

 昨日よりも顔色もいいようだ。ユリはよかったと微笑む。
 あのあと――仲間たちのことや、これまでの旅の話をしたが、カミュがなにかを思い出すことはなかった。

『今は思い出せなくても、なにかのきっかけで突然思い出すかもしれないし、気に病まないで』

 申し訳なさそうに落ち込むカミュに、ユリはそう励ました。それは、記憶を取り戻した元記憶喪失者としての経験からだ。
 きっと、今はまだ思い出すその時ではないのだ――と、ユリは思う。

「フンフン、フフーン、いい潮風だわー♪……さあ、ここを抜けたら、いよいよ外海よ。気を引きしめていきましょう」

 ご機嫌な鼻歌混じりで船を操縦しながら、シルビアは皆に声をかけた。
 以前より内海の魔物たちは強くなっていたが、外海はそれ以上だろう。

「……いや〜ユリ姉さんたちを乗せてこうしてまた船旅できる日が来るなんて、航海士アリス、感激の極みでげすよ!なにはともあれ、カミュのダンナにも再会できたげすしね!」

 アリスの言葉に、ロウがうむと頷く。

「記憶がないと想定外じゃったが、このような海の上で、カミュと合流できたのは思わぬ幸運じゃったな」
「俺はカミュを追う立場だったからな。この男の危機を切り抜けるしぶとさは、身をもって知っているつもりだ」

 グレイグはそう言ったあと「……姫さまもご無事ならばよいのだが」ぽつりとマルティナの身を案じた。

「すみません、ユリさん。迷惑をかけますが、オレも皆さんの旅に同行させてください」

 改めてお願いするカミュに、ユリはにこやかに「もちろん」と答える。

「それに、ユリでいいよ。敬語とかもいらないし」
「そんなわけにはいかないです!オレにとってユリさんは、路頭に迷っていたところを助けてくれた恩人ですから」

 ……そのやりとりを見て、シルビアは身体をかゆそうにした。

「今のカミュちゃん、素直でイイ子なんだけど、どうも調子がくるうというか……なんだか身体がムズムズするわ」
「同感だ……。敵意が強いと思われる、私のこともまるっきり忘れて何も感じないとはな……」

 とくにホメロスは、記憶喪失の彼とどう接していいか悩んでいた。カミュは仲間の中でも、ホメロスと因縁が深い。

 ふたたび仲間になった……と言いきるには微妙なカミュと共に、船は外海へと出た。

 そこから少し進むと、辺りが白い霧に包まれて、異界に誘われるようにたどり着く。

「ここは時が止まったように静かね」

 白の入り江は世界に切り離されたように、以前と変わらずそこにあった。
 アリスが漕ぐ小舟に乗って、一行は入り江に上陸する。
 音もなく、浮世離れた神秘的な空間に、初めて訪れたグレイグとホメロス、そして記憶のないカミュはほう…とため息をもらした。

「美しい入り江だ。まるで夢でも見ているみたいだな。たしかに人魚がいそうな場所ではある。人魚か……ぜひ俺もロミアという人魚に会ってみたいな」
「このような場所が外海に出てすぐの場所にあったとは……。こうしてユリさまと旅をして、世界は書物で見るよりずっと広いのだと痛感する日々です」
「ええと、オレもこんな不思議な場所に何度か来たことあるんですよね?すみません、思い出せませんが、とても美しい場所だとは思います」

 三人が興味深く白の入り江を眺めている間、ユリはロミアと初めて出会った水辺に真っ先に駆けていく。そのあとをロウとシルビアが続いた。
 そこには、マーメイドハープが入っていた宝箱がぽつんと置かれたままで、ロミアの姿はない。

 ユリは膝をつき、水面を覗く。

「ロミアさん!」

 水中に呼びかけてみるが、そこは水鏡のように、ユリの不安そうな顔をただ映し出すだけだ。

「ロミアさん、ここにはいないみたい……」
「大丈夫よ、ユリちゃん。今は信じましょう。信じることはチカラになるわ」

 ゆるゆると首を振って、落胆した顔を向けるユリを、シルビアは励ます。

「シルビアの言う通りじゃ。セレン女王も言っておったであろう。人魚は人間よりチカラも身体も強いと……きっとうまく逃げおおせておる」

 ロウもまた。二人の言葉に、ユリは同意するように頷いた。

(今は信じることしかできない。ロミアさん……セレン女王……ムウレア王国の皆の無事を――)

 一行は早々に白の入り江をあとにし、シルビアは船を出発させる。

 航路はラムダがある北の大陸へ。

 途中、カミュの故郷があると思われる、クレイモラン地方に上陸することになるだろう。
 ユリはカミュの横顔を見つめた。
 故郷には帰りたくなさそうだったが、もしかしたらなにか思い出すかもしれない。

「あっ、オレ、やり方間違ってましたか!?」

 ――ユリの視線に気づいたカミュは、野菜の皮むきをしていた手を慌てて止める。
 盗み食いしたこともあり、雑用でもなんでもするというカミュに、本日の食事当番のユリは料理を手伝ってもらっていた。

「ううんっ、大丈夫!料理上手は以前と変わらないよ」
「オレってそうだったんですね」

 むしろカミュの皮むきは、自分がむくよりずっと上手だ。失ったのは自身に関する記憶だけで、それ以外の一般常識や基本的な世界のことは覚えているのも、かつてのユリと一緒だった。

「皆さんから自分の話を聞いても、まるで別人みたいで……。こんな弱い自分が、かつて魔王の手下と戦っていたなんて信じられないです」

 自虐的にカミュは笑って言った。そんなカミュに、ユリはあることを気づく。

「カミュ、武器は持ってなかったの?」
「はい……気づいたら丸腰で、なにも持ってませんでした」

 カミュの身になにかが起こって記憶喪失になってしまったのは確かなようだ。その際に、武器や持ち物も失くしてしまったのだろう。
 戦えなくても、護身用として武器は必要だ。
 ユリは自身の腰に装備していた短剣を外すと、両手でカミュに差し出す。

「これは……?」
「これはね、カミュが私に託してくれた愛用の短剣なの。私は、何度もこの剣に助けてもらった」

 助けてくれただけでなく、ユリの心の支えにもなってくれた。

「初めてカミュと会ったとき『こいつがいれば100人力』って言ってたんだ。きっと、またチカラを貸してくれると思う」

 持っていて――と、微笑むユリに、カミュはその短剣を手にする。……確かに……柄を握ると、手にしっくりと馴染む気がした。
 自分の主に扱う武器は、短剣だったという。

「ありがとうございます、ユリさん。記憶が戻って、また返せるといいんですけど……」

 カミュはその短剣を、迷うことなく腰に巻く赤い布に差した。以前とまったく同じ位置に――。

「残りの野菜の皮もむいちゃいますね」

(……やっぱり、カミュだ)

 記憶がなくても、性格が違っていても……その何気ない仕草や節々に、ユリはカミュを感じた。


「せやっ!」

 カミュは短剣をラッコアーミー・強に切りつける。
 そのあとをユリやシルビアの武器攻撃が続き、ロウは呪文を唱えた。

 ラッコアーミー・強は水流をよびよせ、水柱を引き起こしたり「きゃあ!」「のわぁ!」貝を取りだし食べ始めたと思ったら、取り出した貝は好みに合わなかったという理由で「痛いっ!」カミュに貝がらを投げ捨てたりと、なかなか手強い相手だった。

 後ろに控えていたグレイグとホメロスは、うずうずしながら彼らの戦いを見守っている。
 通常攻撃だけでは楽にとはいかず、呪文や特技を合わせて、四人はラッコアーミー・強たちを倒した。

「ユリさま、濡れたままだと風邪をひかれてしまいますので、このまま着替えてきてください」

 ここは我々が……そのホメロスの言葉に「ありがとう」と、ユリは着替えるために急いで自室へ戻る。

「船の上だとあまり暴れることができんから、気を使ってわしの本気が出せんのう」
「ンもう、自慢のシルビアヘアーが台無しよ〜」
「やはり、海上での戦いは我々に全面的にまかせてもらうことにしよう」
「ああ、俺たちは盾と剣だからな。厄介な船上での戦いに、ユリたちが余計な負担を負うことはない」

 人数が増えて、魔物との戦闘メンバーをローテーションにしようってことになったが、なるべく自分たちが固定で戦おうと、ホメロスとグレイグは話し合う。

「…………」

 カミュは浮かない顔のまま、自身の服や髪に含んだ水を絞る。
 身体が覚えているというのだろうか。
 一応、自分も武器を持って戦えるとわかったが、圧倒的に戦力外だった。

 いくつか呪文は覚えていたが、特技は綺麗さっぱり忘れていて、かつて二刀流で戦っていたというが、そんな芸当は今の自分には到底無理だ。
 きっと、経験を重ねて成長した能力値も落ちているかもしれない。

 わかっていたが、自分の無力さと劣等感にため息が出た。(こんなんじゃ、あの人を守ることなんて……)

「ほら、カミュちゃん!そんな顔しないで。動きは悪くなかったわよ」

 はい、タオル――と、明るくカミュに渡したのはシルビアだ。

「ありがとうとございます。あ……オレ、濡れた甲板拭きますね!」

 カミュはタオルを受け取らず、掃除道具を取りに走っていってしまった。
 シルビアはうーんと困ったように頬に手を添える。

「カミュちゃんって、初めて会ったときも警戒心が強い子だと思ったけど、そこのところは記憶を失っても変わらないわね……」
「わしらに心を開いてもらうにはちと時間がかかりそうじゃな」

 ロウも同じような顔でカミュが走り去ったあとを眺めた。一見、丁寧な口調と素直な青年だが、その内に見え隠れしている警戒心は、まるで手負いの狼のようだ。

「でも、ユリちゃんがいれば大丈夫ね。カミュちゃんのことは、ユリちゃんにまかせましょう」
「うむ。カミュもユリのことは信用しておるみたいだからな」
「――エルシスとユリ、カミュの三人が一番古い付き合いになるのだな」

 二人の会話を聞いていたグレイグとホメロスが会話に混ざる。

「ええ、アタシたちはみんな仲間だけど、中でも三人は付き合いが古いからかしら。三人を見てると、ちょっとだけヤケちゃう、そんな特別な友情を感じる時があるの」

 とくにカミュちゃんは、エルシスちゃんの相棒って感じよね――そう最後にシルビアはつけ加えた。

「エルシスちゃんも、今のカミュちゃんを見たらびっくりするわね」

(……――相棒か)

 シルビアの話を聞き、ホメロスは口には出さず、心の中でそう呟いた。

 ……あれは、ダーハルーネだった。

 勇者を悪魔の子だと信じ、やつらを見つけて、捕らえようと奮起しているときだ。

『僕の相棒に比べたら、そんな攻撃、遅いな……!』

 あの勇者の言葉が胸に刺さったのを、今でもよく覚えている。眩しくて、胸が苦しくなった。けれど、自分はそれを認めようとしなかった。

 でも、今は――……

「……ん?なんだホメロス。俺の顔に何かついているか」
「いや……船旅の間、剣の手合わせでもせぬか?」
「おお、いいな。時間をもて余していたところだよ」


(今の私は、お前と肩を並べられる、相棒になりたいと素直に思っている)


 ――カミュは掃除具入れからモップを手に取り、戻ってくる途中、着替え終わったユリと出会した。

「あ、カミュ。濡れた床を拭いてくれるのね?私もやる!」

 同じくモップを取ってこようとするユリを、カミュは慌てて引き止めた。

「オレ一人で大丈夫です!これはオレの仕事っていうか……、これぐらいしかできませんから」
「そお?でも、カミュにできることはたくさんあるよ」

 そう屈折のない笑顔を向けられ、カミュは照れてしまう。それに……

「その……着替えた服、……とても似合っていて可愛いと思います」
「ありがとう。これはエルシスがレシピを見て作ってくれたんだ。師匠……ベロニカとセーニャと色違いで、お揃いなんだよ」
「エルシスさんは本当の勇者で、ベロニカさんとセーニャさんは双子だという……?」

 カミュの口から、三人の名前が"さん"付けで出てくると違和感がすごい。とくにベロニカ。

「今の気候ならこれぐらいの薄手がちょうどいいかなって。これから北に近づくほど、どんどん寒くなるよ」
「ユリさんたちは一度来たことがある大陸なんですね」
「うん。今は旅路を巡る旅、みたいな感じかな」

 頷いてから、ユリはカミュをまっすぐ見て、再び口を開く。

「カミュにとっては、記憶を辿る旅だと思う」
「記憶を……」
「でも、無理に思い出なくても大丈夫だよ。知らない自分に不安になるだろうけど、カミュはカミュだから」

『知らない自分に不安になるだろうが、お前はお前だろう?記憶があってもなくっても』

「今の言葉、カミュが私に言ってくれた言葉なの。……あっ、魔物が現れたみたい!私も戦ってくるね!」

 カミュがなにか言う前に、ユリは元気よく行ってしまった。

「…………」

 その背中を、まぶしそうに目を細めて見送る。

 どことなく浮世離れした雰囲気に、こんな自分にも優しく手を差し伸ばしてくれて、最初は天使みたいな人だと思っていたが。(実際に元天使と知って驚いた)
 いざ話すと、町娘のような口調で友好的に接してくれて、暖かい人だと思った。

 でも、きっとそれだけじゃない。

 カミュはただ黙々とモップを動かし、水びたしになった甲板を拭いていく。

 なに一つ思い出せないカミュだったが、一つだけわかったことがあった。

 腰に装備した短剣に触れる。

 愛用の短剣を託すほどだ。きっと、記憶を失う前の自分にとって、彼女は大切な人だったんだろう。

 それなのに、全部忘れて。その気持ちも忘れて――


「……その程度の思いだったのかよ……」


 自虐する言葉が、自然に口から出ていた。


 北西の外海を進むシルビア号は、以前は気づかなかった停泊できそうな小島を見つけ、一行は上陸してみた。

 メダチャット地方・西の島だ。

 そこには、エルシスが聖獣に似ていると言っていたマムーの色違いのグレイトマムーがのしのしと歩いていた。狂暴な性格ではないらしく、ユリたちを目にしても襲いかかってくることはない。
 同様な大人しい魔物で、カラフルなとんがり帽子を被ったトンブレロには「可愛い〜」と、ユリとシルビアは声を揃わせる。

 そして、この小島には小屋が建っており、人が住んでいるようだ。

「おや?旅人さんとはめずらしいな。この島に集まるヤツは、世界からはみだした世捨て人ばかりだぜ」

 そう一行に話したのは、海の男のような風貌をした男だ。世捨てと言うだけあって、彼は大樹が落ち世界に異変が起きたことなど、まったく知らないようだ。

「オレも若い頃はムチャをやったが、今は日がな1日、海をながめる生活が板についちまったってもんだ。旅人さんはこの島にいたって何もやることがないだろうから、他の町に行ったほうがいいんじゃねえか」

 その海の男の助言に、ユリは素材採取だけして、船に戻ることにした。

「でも、気分転換にはなりましたね」

 気軽な雰囲気でカミュに声をかけられ、ユリはにっこり頷く。カミュがふたたび仲間?になって、数日が経過したが、少しはこの旅にも慣れたようだ。

「ユリさん、今日はなにを食べたいですか?」
「うーん、カミュの作る料理もどれもおいしいから悩む……」

 料理や皿洗い、掃除や洗濯まで、カミュは雑務を一身に引き受けてくれた。
 どれもそつなくこなすので「器用なヤツだ」と、グレイグは感心している。

「………………」
「ちょっとちょっと、ホメロスちゃんってば。カオ、こわいわよ。アナタ、もともと目付きが悪いんだから」
「ふぉっふぉっ。ホメロスよ、わしからのアドバイスじゃ。男の嫉妬は見苦しいぞ」
「嫉妬ではありませんのでアドバイスは結構。……ユリさまのために、料理を勉強しておけばよかったと思っていただけです」

 むすっと言ったホメロスに、シルビアとロウは肩を竦めて顔を見合わせた。
 嫉妬まではいかなくとも、張り合うような姿勢に、ちょっと面白くなさそうなのは確かだろう。


 嵐に見舞われた翌日の天気のいい日は、ズボンをまくり上げ、素足のカミュが甲板を掃除していた。
 デッキブラシで力を込めて、こする。
 途中、ふぅ……と額の汗を拭って、腰を伸ばしていると、

「カミュのダンナ。お掃除、お疲れさまでがす。カミュのダンナのおかげで、シルビア号はいつにも増して輝いてるでげすよ!」
「大げさですね。オレにはこれぐらいでしか皆さんの役には立てませんから」
「……きっと、カミュのダンナが思っている以上に皆さんのお役に立ってるでげよ」

 生きていてくれて、こうして再会できただけで、皆さんの心を支えているげすから――……そのアリスの言葉が、妙にカミュの耳に残った。

(オレの存在が、少しでもあの人の心の支えにもなっているなら……)

「――カミュ!」
「うわぁ!」

 ちょうどその人物から声をかけられ、カミュは驚きのあまり声を上げた。

「ご、ごめんっ。びっくりさせちゃって……」
「す、すみません!ちょっと考え事をしてたので……。それより、ユリさん、どうしたんですか?」
「私も一緒に掃除しようと思って!」

 そう満面の笑みで言ったユリの手には、デッキブラシを持っていた。

「ユリさんにやらせるわけにはいかないですから!オレにまかせてください!」
「でも、一緒にやった方が早いし、私、甲板掃除って好きなんだっ。裸足になって気持ちよくない?」

 そう言ったユリの足を、カミュの目は思わず映す。――裸足だ。白い素足が伸びていて、それにドキッとしたカミュは慌てて視線を逸らせる。

「天気がいいともっと気持ちいいんだけど……」

 そう言って、ユリは空と海に視線を向ける。どちらもどんより濁った色だ。

「カミュはどっちからやった?」
「えっと……向こうからです」
「じゃあ、私はこっちからやるね!」
「……わかりました!」

 なにか……言葉を交わすわけではないが、二人でただひたすらにデッキブラシで甲板をゴシゴシとこすっていく。

 時々、目が合えば微笑み合って……

 その空気が、とてもカミュには心地よかった。

「……ユリさま。ユリさまは掃除なんてしなくていいのですよ」

 現れたホメロスは、眉を下げてユリに言った。対してユリは笑顔で口を開く。

「私がやりたかったからやってるだけだよ」
「ですが、掃除はこの者の仕事です。それを奪うというのもいかがなものでしょうか」

 ホメロスは上に立つ者の経験則からユリに言った。下々にとって仕事を失うということは、生きていく手段を失うのと同義だ。
 それほど彼らにとって仕事は大事なものであり、社会的に己の存在価値を示すものである――と、ホメロスは認識している。

「う、うーん……」

 ホメロスの理論的な話に、ユリはしばし考える。……彼の言葉も一理あるような気がした。

「ごめん、カミュ!私、余計なことを……」
「い、いえ!全然そんなことないですから!」

 申し訳なさそうに謝るユリに、カミュは慌てて弁解する。余計なことどころか楽しかった。もっと一緒にいたかったのに……

「では、行きましょう。ちょうどお茶を淹れようと思っていたところです」

 ホメロスはそう言って、ユリを連れていってしまう。

「……ッ!?」

 ――鋭い殺気は、ホメロスの背筋をゾクリと撫でた。
 慌てて振り返ると、そこには無害そうな青年しかいない。

「?どうしましたか、ホメロスさん」

 こちらを訝しげに見るホメロスに、カミュはきょとんとして言った。

「……いや、なんでもない」

 ……間違いない。殺気はこの男からだった。だが、今は何事もなかったような顔をしている。無意識か……?
 
(あの者……本当に記憶喪失なのか?)
 
 そうホメロスが思ってしまうほど、彼の隠された本心からは、獰猛な牙が見えた。


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