ファーリス杯・前編

 エルシスたちがレースハウスの前に着くと、ひとりの兵士が近づいて来た。
 ファーリスの私室の前を警備をしていた、あのユルい兵士だ。

 彼は周りに聞こえないよう、小声でエルシスに話かける。

「お待ちしてました、エルシスさん。王子から事情は聞いておりますよー。こんな無茶な願いを聞いてくれるなんて、あなたは超絶お人よ……いえいえ、神ですね!」

 ん?今、超絶お人よしって聞こえたぞ。
 ユルい兵士はへらりと笑って、エルシスを王族控え室へ案内すると言った。

「お連れさまには王子の友人として、特別席を用意してます。後ほどご案内しますので、上のパドックでお待ちください。王子に変装したエルシスさんが見れますよー」

 エルシスはもちろん王子の愛馬に乗るため、レース前のパドックでのわずかな馬を走らせる時間に、どのような馬か把握しなくてはならない。

 そして、すぐに本番だ。
 難易度は高いが、やるしかない。

「じゃあ……エルシス。観客席でみんなと応援してるね。頑張って!」

 ユリがエルシスに両手をぐっとさせて、エールを送ってくれる。
 なんだかゾーンに入りそうだ。

「肩の力を抜いて走れよ」
「エルシスさま、お怪我には十分お気をつけくださいませ」
「勝負となれば話は別よ。優勝しなさいよね、エルシス」

 三人からもそれぞれ激励を受け、エルシスは「ああ!」と力強く親指を立てた。
 ファーリスや観客の期待より、仲間たちの期待に応えたいとエルシスは思った。

 レースハウスに入ると、何やら慌ただしい様子にエルシスは気付く。

「たっ大変なんだ!オグイが怪我で、出場しないというのだ。本大会、王子と並んで優勝候補だったのに!あわわ、どど、どうしよう……。国の人々はさぞ、ガッカリするに違いない。誰か、代わりに出場してくれないものか……」
(!?そんな、オグイさんが……)
「まさか、オグイさんが出場できないなんて……。くやしいだろうなぁ。ファーリス杯楽しみにしてて、早朝から張り切って練習してたのに……」

 ユルい兵士の言葉を聞いて、エルシスは心配にいてもたってもいられず、オグイに会いたいと彼に訴えた。

「オグイさんと知り合いなんですか?たぶん医務室にいると思いますよ」

 エルシスがユルい兵士に案内されて医務室に入ると。
 そこにはベッドに座り、足に包帯を巻かれるオグイの姿があった。

 つい先ほどの事故なのだろう。

 オグイはしっかりと兜と鎧を身に付けたままだが、無念という思いが全身から滲んでいる。

「オグイさんっ……」
「やあ、キミか。わざわざ来てくれたのかい?ありがとう。ううっ…情けないことに、激しい訓練中に落馬して怪我を負ってしまったんだ。これではレースには出場できない……」

 くやしそうに言うオグイに、心配して来たのにエルシスは何も声をかけられなかった。

「ああっボクがファーリス杯に出られないなんて、なんたる悲劇だろう!ファーリス王子と一緒に走りかった!」

 エルシスはなんとも言えない気持ちになる。
 オグイは王子と走るのを楽しみにしていたが、中身は影武者のエルシスだ。
 エルシスはオグイと走るのを楽しみにしていたが、彼にとっては出場してもしなくても不運なことだった。

「僕もすごくくやしいです。どうかオグイさんの怪我が早く治りますように……お大事にしてください」

 それだけ言って、エルシスはそっと医務室を後にした。

「見てくださいよ!オグイの馬。モグパックンの悲しそうな様子を……。見てるこっちまで、心が痛くなってきますよ!」

 待機している馬たちの前で、世話ががりの男もくやしがっている。
 エルシスが近づくと、モグパックンはどこか悲しげな目をこちらに向けた。

「聞いたか。なんでも、オグイが怪我をしてレースに出場しないそうだ。こりゃ、このレースひと波乱ありそうだな」 
「ああ、あのオグイが怪我で出場できないなんて……。レースの女神はなんて無慈悲なんだろう。だが、これで優勝候補は王子さまだけ。これは、我々にとってはチャンスだぞ。ひょっとしたら優勝できるかも……?」

 同じ出場者の兵士だろうか。後ろからそんな会話がエルシスの耳に届く。

「……あの二人はオグイさんに比べれば足元にも及びませんよ。単なる引き立て役です。王子とオグイさんの一騎討ちがレースの目玉でした」

 そうユルい兵士はエルシスにこっそり耳打ちして教えてくれた。

「でも、エルシスさんにとっても喜ばしい事態ですが、全然嬉しそうじゃないですねー」
「そりゃあそうだよ。怪我をして、あんなにくやしがってるオグイさんに、喜べないよ……。それに、どうあれ僕はオグイさんと走るのを楽しみにしてたんだ」

 そう静かに言うエルシスに、ユルい兵士はきょとんとする。

「エルシスさんって……女の子みたいな顔に似合わず男らしいんですねー」
「怒るよ……?」

 ユルい兵士が、王族控え室の前にいた兵士に「王子さまのご友人の方をお連れしました」と言うと「……王子さまにご友人がいらしたのか」と、兵士は動揺しながら通してくれた。
 エルシスは切なくなった。(兵士のためにも王子のためにも聞かなかったことにしよう)

「ああ、良かった、エルシスさんじゃないか。来てくれなかったらどうしようかと思っていたところだったんだ。感謝するよ」

 ファーリスが今か今かと待っていたようだ。

「……さて、まもなくファーリス杯が始まる。ボクの代わりにレースに出場して優勝してくれれば、約束通り虹色の枝の件を父上に掛けあうよ」
(優勝…………?)

 条件のハードルが上がっている。

 エルシスが何か言いたそうにじぃーと見ていると「当然だろう?優勝候補のオグイが怪我で出場しないんだ。代わりの出場者を今から探しても、そうそうオグイと同じ騎手は見つからないさ」そう彼は言ってのけた。

(まあ、元々優勝は狙うつもりだったけど……)

「では、まずサマディー王族の鎧と兜を身につけてもらうぞ。なあに、心配ない。キミの背格好ならボクとソックリになるさ。さあ……」

 エルシスは王子から受け取ったサマディー王族の鎧と兜を身につけた!

「おお!バッチリ似合ってるじゃないか!これなら、まさか別人だとは誰も思わないだろう」
「王子もエルシスさんも良い感じですねー」

 代わりにファーリスはエルシスの服を着ていた。
 なるほど、確かに体格はぴったりだ。
 そして、異国の王子服がよく似合っている。さすが現役の王子。
 これならストールで顔を隠せば、バレないだろう。王子が王子の格好?をしているとは誰も思うまい。

 そして、ファーリスは改めてこれからの流れを説明した。

「いいか。部屋の外に馬が用意されてるからその馬に乗って、パドックに出るんだ。そこで軽く乗った後、兵士の誘導で奥のレース場に行く。ちなみに馬の名前は『シュテルテハイム=ラインバッハ』だ。モグパックンに劣らず名馬だぞ。ボクは乗ったことないけど」
「しゅて…なに??」

 エルシスは馬の名前を言おうとして、噛んでしまった。

「レースが終わった後は城の地下にあるレース場へと続く通路で待ち合わせしよう。そこでまた入れ替わるっていう流れだ」

 エルシスは「了解」と頷く。

「さあ、キミはもうサマディーの王子だからな。くれぐれもレースを頼んだぞ。王子にふさわしい走りを期待しているからな」
「分かってるさ。最善を尽くすよ」

 最後にファーリスはエルシスにそう言い、エルシスはファーリスにそう答えた。

「では、エルシスさん。ボクはお連れさんを観客席にご案内しないといけないので。残念ですが、ここでお別れです。ちなみに影武者の事情を知っているのは側近のボクだけなんで、注意してください」
「………………」

(え、こんなユルい兵士だけしか知らなくて大丈夫なのか。むしろ、側近とはいえ、こんなユルい兵士に喋っちゃって大丈夫なのか)

「あ、ボクがいなくて不安なんですね?大丈夫ですよぉ!その格好なら絶対バレませんって」

 ……。顔が隠れているため、エルシスの心情はユルい側近には伝わらなかったらしい。いや、顔が見えたところでへらりと笑う彼には伝わらなさそうだ。

「では、"王子"。心の準備は良いですか?行きますよ――」

 そう言って、ユルい側近が扉を開ける。

「ややっさすが王子さま!馬の乗りこなしもご立派ですな!」
「おおおっさすがは王子さま!なんとカッコいいのでしょう!馬に乗ったお姿が実に絵になりますな!」
「王子さま、いってらっしゃいませ!」

 用意された馬に跨がったエルシスは、周りの兵士たちのその反応にほっと安堵した。
 身近で接している彼らにバレなければ、ほぼ大丈夫だろう。

「では、王子さま。ボクはご友人を特別席にご案内してまいります」

 ユルい側近はエルシスにそう声をかけた。
 兵士たちは皆、王子を見ているため。
 友人に扮したファーリスは気づかれることなく、その場を立ち去ることに成功する。


「――あ、見て!……っじゃなくて、王子さまが出てきた!」

 思わずエルシスの名を呼びそうになったユリは、眼下のパドックを指差した。

 装飾された芦毛に跨がっている王子が現れると、周りから一斉に歓声が沸き起こる。
 
「おいおい、すげー歓声だな。これならバレることはなさそうだ」
「あら、あの格好似合っているじゃない。絶対に本物よりもカッコイイわよ」
「王子さまに国民の皆さまが声援がすごいです。…少しだけ騙しているみたいで申し訳ないですわ」
「もうすぐレースだね!エルシスの活躍楽しみ」

 それぞれが感想を口にしていると「お待たせしました、ご友人の皆さん」そう後ろから声をかけられ、彼らは振り返ってぎょっとした。

「ファっ……」

 驚くユリの口から、その名前が飛び出す前にカミュの手のひらが塞いだ。

「その格好って……」

 困惑するベロニカに、ユルい側近が説明する。

「本当はサマディー聖騎士の格好で、兵士に紛れる予定だったんですが……王子参加のレースということで、前回より兵士の警備の数や配置などきちっと管理されてて、紛れるのは無理そうだったんですよー。で、こうなりました」
「ふふ。木を隠すなら森の中って言うだろ?」

 ファーリスは得意気に言った。彼はエルシスが着ていた異国の王子服を身にまとい、ぐるぐる巻いたストールの中から目だけ覗かせている。
 確かにこれなら、ぱっと見ファーリスとは分からないが……。

「「(不審者…………)」」
「さあ、観客席に行きましょう。レースが始まっちゃいますよー」

 ユルい側近は四人の心情は気にせず、彼らを観客席に案内する。


 四人は一般席とも少し離れている、特別席に誘導された。
 かの席ならレースをよく見れるし、周りに観客はいないので、エルシスに扮したファーリスも安心だろう。

「では、王子。後ほど……」

 ユルい側近は小さく挨拶し、下がって行った。王子の側近である彼が、いつまでもこの場にいたら不自然だからである。

「……ファーリス王子」

 ユリは小声でそっと声をかけた。
 ファーリスは彼女の方を振り向く。

「昨日は、事情も知らないのに……ひどいことを言ってごめんなさい」

 ユリは気にしていたことを、この機会にファーリスに謝った。
 ファーリスのオアシスの泉のような、コバルトグリーンの瞳が見開く。

「いや、僕の方こそ……。こんなことを頼んで、情けないし、申し訳ないと思っている……。だが、せめてこうしてあなたと彼を応援することを許してほしい」
「ファーリス王子……」
「んん!」

 ユリとファーリスの間にいたカミュが咳払いをし、ファーリスは恨めしそうな目で彼を見た。
 この男が間にいなければ、確実に彼女と良い雰囲気だった。
 いや、そもそも何故ボクと彼女の間に座っているのか――表情が見えないので、目でファーリスは言っていた。

「優勝候補のオグイが怪我で不参加で、突然参加になったやつは大変だな」
「うん……それに、エルシスが言ってた挑戦したい人ってオグイさんだよね?残念だね……」
「そうだな……せめて代わりの参加者が骨のあるやつだと良いが……」

 カミュはファーリスの視線を完全無視し、ユリと談話している。
 うぐぐ……ファーリスはストールの下で歯ぎしりした。

「おい、王子。代わりの参加者が誰か知らないのか?」
「さあ、知らないな。パドックにはいなかったから、まだ必死に探してるんじゃないか?」

 カミュの質問に、ファーリスはふてくされたように答えた。


 パドックには観客席に入れなかった人たちが王子の勇姿を一目見ようと、上にも下の鉄格子の前にも集まっている。

 なかにはパドック内に小さい子供が入り込んでしまったようで、てんやわんやだ。

「しんにゅうせいこう!」
「わああ、本物の王子さまだーっ!」
「うおおおおお!すげえええ!」

 エルシスはそんな子供たちに手を振ると、少し胸が痛む。事情が事情といえど、騙しているのには変わりない。(もう少し早く王子と出会えれば、僕が馬の乗り方を教えてあげたのに……)

 乗馬の教え方には自信がある。
 最初はまったく乗れなかったユリが、今ではひとりで馬に跨がり、走らせることが出来るのだ。

「王子さまといえど、勝負は勝負です!私も騎士のはしくれです!正々堂々と勝負しましょうね!」
(すでに正々堂々じゃなくて申し訳ない!)
「わあっ王子さま!お話できて光栄ですっ!帰ったら、うちの娘にも自慢しますっ!」
(声を出したらバレるから、お話しできなくて申し訳ない!)

 同じく出場する二人の選手に話しかけられ、さらにエルシスの胸を痛めた。
(……いや、今はレースに集中しないと)
 エルシスは歩かせてた馬の体が暖まったことを確認すると、軽く走らせる。

「ファーリスさまー!かっこいいーっ!」
「頑張ってください!」
「うおおおお、王子ーっ!」
「ちょっと見えないわ〜!」
「ファーリスさま〜っ私よ!私を見てーっ!」

 歓声が凄まじい。これでレースになったらどうなるのだろう。(本当に王子は国民に慕われてるんだな)

 それにしても――馬を走らせて、エルシスは気づいた。名馬というのは本当のようだ。

 駆け出す時の滑らかさ。
 走っていても、揺れが安定している。
 そして、合図の反応の良さ。

 オレンジには申し訳ないが、乗り心地の違いを感じられた。(オレンジにはオレンジの良さがある)

 速さや持久力は分からないが、この分だと期待できるだろう。あとは乗り手がいかに馬を操り、導くかだ。(この馬なら心強い。えぇと、名前はシュテ…………?)

 名前が思い出せない。

(………ファルシオン2世と心の中で呼ぼう。同じ芦毛だし)

 ファルシオンとは最初にエルシスが乗ってた芦毛の名前だ。

(あとは、初めて鎧をまとって乗るから僕のバランスの取り方に注意と。手首は意外に動かしやすくて良かったな。足の鎧のサバトンだけ少し大きかったけど、なんとか大丈夫そうだ)

「王子さま、まもなくレースが始まりますっ!ご入場お願いしますっ!」

 兵士がそう開催を知らせて、エルシスは無言のまま頷く。――いよいよだ。

 レース会場に続く通路を、エルシスはハイテンションの馬を手綱で抑えつけながら歩かせる。
 馬はいつでも走れるよう準備万端だ。
 手綱を緩めれば、すぐにでも飛び出すだろう。
 馬だけでなく、エルシスのテンションもピークだ。今ならゾーンを越える。

(あれ……そういえば、代わりの選手って見つかったんだっけ?)

 ふとそのことを思い出したが、すぐにエルシスの脳内から消え去る。

 通路の先の扉が開くと、大観衆と大きな声援がエルシスを迎えたからだ――。





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王子の馬の名前、シュテルテハイム=ラインバッハは幻水の偽名を名乗る時の小ネタから。


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