闇夜の追手・前編

 ――ユリに酷いことを言ってしまった。

 一人になったエルシスは、とぼとぼと山道を歩いていた。
 つい感情的になって、ユリにぶつけてしまったと後悔する。
 何があっても味方になってくれて、受け止めてくれる彼女に甘えてしまったのだ。(……ちゃんと、しなきゃ)

 そんな宛もなく歩いていたエルシスに、悲しげな後ろ姿が目に飛び込んだ。

「エレノアさま……」

 ――マルティナだ。

「誰っ……!?」
「……っ」

 気配に気づき、ばっと振り返った彼女に、エルシスは目を見開いた。
 その際に、彼女の目元から雫が溢れ、きらりと月光に光ったからだ。
 マルティナは一瞬顔を背け、目元を拭う。

「これは……恥ずかしいところを見られたわね」
「あ……いえ、僕の方こそ急にごめんなさい」

 次に顔を見せた時には、いつもの凛とした表情を浮かべるマルティナの姿であった。
 
「エレノアさまのことを思いだしてたの。そう、キミのお母さまのことよ」

 エルシスは少しだけ間を置いて、口を開く。

「母は……どんな人だったんでしょうか」

 二人のことを何も知らないから。
 きっと、これから知らなくてはならない。
「……歩きながらすこし、お話でもしましょうか」
 マルティナの言葉に、エルシスは頷いた。

 ――山道を歩く二人。

 その場には虫の声しか聞こえない。
 そんな静けさのなか、マルティナがやがて足を止め、エルシスも同じように止めて、彼女を見た。

 マルティナは前を向いたまま、ゆっくり口を開く。

「私の母は病弱でね。私が生まれてすぐ亡くなったの……」
「え……」
「エレノアさまは、そんな私を気遣って絵本を読んでくれたり、花摘みに誘ってくれたり、本当に優しい方だったわ……」

 思い出すように語るマルティナの横顔は、とても穏やかだ。

「だから、そのエレノアさまが子供を授かったと聞いて……私、心の底からうれしかったの。自分に兄弟ができたような気がして……」

 ――その時。ぽつりとエルシスの頬に雨粒が落ちる。

「雨が……」
「そう……。エレノアさまと最後にお会いした16年前のあの日も、こんな雨だった……」

 だんだんと雨足が強くなっていく。
 空から視線を戻した二人の視界に映るのは――松明の火。

「あれは……?」
「…!」

 二人は岩影に隠れる。

「どうやらキミたちの追っ手のようね。かなりの数だけど……あれだけの追っ手を出せるとしたら……」

「「デルカダール王国……!!」」

 二人の小声が重なった。あの鎧は間違いなくデルカダールの騎士だ。

「新手の兵士が来る前に早くここから逃げなければ……!エルシス!急いでみんなのもとに戻りましょう!」
「はい……!」

 エルシスとマルティナは静かに仲間の元へと向かう――……


「あ……」
 ユリはそんな声と共に、手のひらを空に向けた。

 雨が降ってきたのだ。

 そういえば……あの牛の天気予報の通りだとユリは思い出す。

「雨も降ってきたし……エルシス、大丈夫かな」

 マルティナさんの姿も見えないと付け加えて。

「…様子を見てくるか」

 カミュの言葉にユリは頷き、二人は双子とシルビアにエルシスを迎えに行ってくると伝え、山道を降りていく。

「……!」

 ――すぐに異変に気づいた。
 暗闇に動く松明の明かりは分かりやすい。

「あれって……!」
「ああ、デルカダール兵士だ。こんな廃城まで追いかけて来るとはな……!」

 二人は崖の上から様子を伺った。
 ここまでやって来るのも時間の問題だろう。

「!カミュ、エルシスとマルティナさんが……!」

 ユリは眼下を指差す。
 二人も兵士たちに気づき、身を隠すところだった。

「今、オレたちがあいつらの助けに向かったら兵士たちに気づかれちまう。まずはいったん戻って皆にこのことを知らせるぞ」
「うん!」


 二人は急いで来た道を戻る。


「……みんな!!」

 ユリは祭壇の間に飛び込んだが、――すでに遅かった。

「共犯の娘!」
「手引きした盗賊もいるぞ!」
「ちっ、遅かったか!」

 ロウを含む四人は兵士たちとじりじりと向き合っていた。(山上にやつらがもういるってことはオレたちがここにいることを目星をつけて、人海戦術で取り囲んでいるのか……?)

 カミュはちらりと四人を見て考える。
 このまま逃げても、ロウとベロニカの足じゃ、走って逃げきれない。

 ならば――。

「ユリ!あいつら連れて逃げろ!」
「カミュは!?」
「オレはシルビアとこいつらを引き留めてから後を追う。その間にエルシスたちも来るかもしれねえ」
「だったら私も戦う!」

 剣を引き抜くユリ。彼女ならそう言うだろうとカミュは予想がついていた。

「お前が、三人を守るんだ。ロウのじいさんはユグノア国に関する重要人物だ。デルカダールの手に落ちたらまずい。頼んだぞ、ユリ――」

 そう言ってカミュは最後に微笑んで、兵士たちの元に飛び込んでいく。
 その背中に、ユリはぎゅっと唇を噛み締めると。
 カミュとは反対方向に駆け出した。(…そんな言い方されたら従うしかない…!)


「はっ!」
「くっ…!」

 予想外につっこんできたカミュに兵士たちの反応が遅れた。
 彼は体術を混ぜながら剣を振る。

「盗賊め!調子に乗るなぁぁ!!」
「…生憎、盗賊業はやめたんだ」

 兵士の剣を受け止めるカミュの背後を狙った攻撃。
 彼は避ける素振りも受け止める素振りも見せなかった。
 直後、横からの弧を描くような太刀筋に、兵士は倒れる。

「――アタシを最初から入れてくれるなんて。信頼してくれてるみたいで嬉しいわ、カミュちゃん」

 何故なら、シルビアが助けに入ると分かっていたから。
 二人は背中合わせに剣を構え、兵士たちを見据える。

「さすがに、この数をオレ一人じゃ骨が折れるからな」
「フフ、殿しんがりね♪せっかくだから楽しみましょうか」


 カミュとシルビアがデルカダールの兵士たちと戦っている間、ユリたちはロウの案内で行きとは違う山道を急ぎ降りていた。


「――では、マルティナ姫とエルシスは一緒にいたのじゃな?」
「はい、二人も追っ手に気づいてるみたいでした…!」
「まさか、デルカダール兵士たちがここまで追ってくるなんてね……」
「皆さま、無事逃げ仰せればいいのですが……」

 不安げなセーニャの言葉に「セーニャ!まずはあたしたちが無事に逃げないと」とベロニカが言う。

「……!!」

 すると、四人の前に人影が現れる――……


「――数で攻めてきやがって……!きりがねえ…!」
「カミュちゃん!エルシスちゃんたちが来ないってことは、下山して逃げたんじゃないかしら?ユリちゃんたちの時間稼ぎもしたし、アタシたちも一旦引くべきよ」
「……」

 シルビアの言葉に少しだけ考え、カミュは彼に目配せする。
 ――まかせて。そう言うようにシルビアはぱちんとウィンクした。

「ウフフ!とっておきのショーで今宵はお開きにしましょうか!」

 片手剣を鞘に収めたシルビアは、代わりにみわくのリボンを手に取りポーズする。
 唖然としながらも何をするのかと警戒する兵士たち。

「スパークショット!」

 鞭を振ると、同時に目映い光が弾けた。

「うわぁ!!」

 攻撃と共に暗闇に突然起こった光に、彼らの目が眩む。

「アデュ〜♪」

 その隙にその場から立ち去るカミュとシルビア。


「たく、いちいち技が派手だな……。まあ、そのおかけで逃げきれたが」
「このまま下山しましょう。上手くみんなと合流できるといいけれど……」


 ――カミュたちも追っ手を振り切った頃。
 エルシスとマルティナは仲間と合流するため、山道を駆け上がり、祭壇の間に向かっていたが……


「祭壇から逃げた連中はいたか?」
「いや、見つからん。悪魔の子は?」
「ダメだ。どこにも見当たらん。くそっ!逃げ足の速い連中だ!」

 岩影から覗く。そこにはすでに大勢の兵士たちの姿。
 だが、彼らの会話から、どうやら皆は上手く逃げられたらしい。
 エルシスがほっとしたのも束の間だった。

「あ……悪魔の子!」
「!」

 別方向から捜索していた兵士に見つかってしまう。

「み……みんな!ここに悪魔の子がいるぞー!」
 すぐに声を上げ、仲間を呼ぶ兵士。
「っ!」
「こっちに逃げよう!」

 すばやく踵を返し、来た道を戻る二人は、騒ぎを聞きつけた兵士たちと鉢合わせする。

 ――挟み撃ちにされた。

「仲間の女がいるぞ!どうする!?」
「グレイグ将軍からは悪魔の子を捕らえよとしか言われておらん!女のほうは殺してしまえ!構わん!あいつも悪魔の子の仲間だ!」

 そんな彼らの会話が聞こえてきて、マルティナは覚悟を決める。

「こんなところで終わるワケにはいかない……」

 剣を振り上げる兵士の一人。
 姿勢を低くし、避けるマルティナ。
 その際に、彼女の優艶な瞳が左右に動く。(兵士が二人、ニ方向から!)

「はあああ……!」

 脚だけでなく、全身に力を込めた回し蹴り。
 一人、二人、三人――!!

 襲いかかろうとした兵士たちは、順にその脚一本に吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

 やっぱり強い――エルシスは心の中で呟く。
 彼も剣を構えていたが、動く前に終わってしまった。

「た…大変だ。グレイグ将軍を呼びにいかないと……」

 自分の足元で叩きつけらた仲間を見て、兵士は一目散に駆け出す。

「あっしまった…!」
「くっ!新手を呼びにいったようね。エルシス!急いで山を下りてみんなと合流しましょう」

 マルティナは彼の腕を掴み、走り出す――……


 ――グレイグ指揮するデルカダール兵士が捜索をユグノア城跡に絞ったのは、一重にグロッタの町での情報が元だった。

 新チャンピオンと盗まれた虹色の枝の話題は、良くも悪くも町全体に広まっていたためだ。

 行き先に確実性が高いと判断したグレイグは、周辺を捜索していた兵士たちを一同に集め、数に物を言わせた悪魔の子包囲網を完成させる。


 そこには、彼直属の部隊だけでなく、駆り出された新米兵士の姿もあった――。


「……うう、廃城の裏山で悪魔の子狩りなんて……僕、呪われないかなぁ」

 松明片手に裏山の裏手を捜索していたのは、兵士になったばかりの青年だ。
 暗闇に、物音がしただけで彼はびくっと肩を震わす。

「いざ見つけたとして、僕に悪魔の子なんて物騒な名前の人、捕まえられる?いやいや、新米の僕なんて絶対返り討ちにされるって」

 独り言を言いながら捜索する新米兵士。
 どうか、こっち方面にいませんよーに――彼がそう願った時だった。

「!?」
「……!!」

 斜面を降って彼の前に現れた人物たち。(銀髪の女の子……!悪魔の子の共犯の娘……!?)

 特徴だけは耳にしていたたが、いざ彼女の姿を目にしたら、"悪魔の子の共犯者"というイメージが結びつかない。

 いやいや、可憐な見た目に騙されてはいけないと新米兵士は自分に言い聞かせる。
 グレイグ将軍やホメロス将軍を狙う貴族の女性たちの目は恐ろしいではないか。
 女性同士のピリピリした場を目撃してしまった日にゃあその夜は悪夢に魘される。

(悪魔の子はいないみたいだけど…ど、どうしよう。グレイグ将軍には悪魔の子を捕らえよとしか言われてないし……)

 だが、ここを見過ごすことは兵士の名折れ。
 新米兵士は意を決して、松明を持つ反対の手で剣を引き抜き、彼女たちに向けた。
 それを見て、共犯の娘――ユリも反射的に剣を抜く。

「…っ」
 実戦経験が乏しいが故か、怖じ気づき、思わず後ずさる新米兵士。

「ッ、わっ……わぁーー!!」

 足を踏み外し、後ろに倒れる……!
 後ろは――崖だ。(落ちる――!)

 そう覚悟する前に、新米兵士の腕はバシッと何かに掴まれた。

「ユリ!?」
「ユリさま!」

 ――落ちそうになる彼を見て、思わずユリは飛び出した。
 剣を投げ捨てた彼女は、両手で彼の腕を掴み「〜〜!!」自分の体重をかけて引き上げる。

「おわっ」
「わっ」

 勢い余って二人は地面に倒れた。

「おーい、新米。何か見つけたかー?」
「!」

 遠くから別の兵士の声が響く。

「ユリ!新手だわ!早く逃げるわよ!」

 小声で急かすベロニカに「う、うん」とユリは急いで立ち上がり、剣を拾い三人と共に駆け出した。


「もう!敵の兵士まで助けるなんて、ユリもエルシスとどっこいどっこいのお人好しね!」
「ごっごめん…気づいたら体が動いてて……」
「ふふ、ユリさまらしいですわ」
「ふむ。人として立派な行いじゃ」


 ――彼女たちの姿はすぐに見えなくなった。(僕……共犯の女の子に助けられた……)
 その場に一人残された新米兵士は、ぽかんと座り込んだまま。

「おーい、新米!そんな所で座り込んで何してんだ?」
「せ、先輩……!」
「何かあったのか?」

 先輩兵士の問いに、新米兵士は兜の中で口を開く。
 悪魔の子の共犯の娘に出会したことを報告しなければ――。
 逃げた方角に、一緒に追いかけないと……!

「……い、いえ、何もないです!根っこに転けてしまって……あはは」
「……まったく。そんなんじゃいつまで経っても昇級せんぞ」

 新米兵士の口から出たのは思考とは違う言葉だった。呆れる先輩兵士に「すみません」と言いながら彼は立ち上がる。

「よし、次はこっちを探…」「あー!そっちはダメです!ダメ!」

 そっちは彼女たちが逃げていった方角だ。

「?」
「そ、そっちには……、毒ヘビ!そう毒ヘビがいたんです!たくさんっ」
「毒ヘビー……?」

 怪訝な声と共にこちらに体を向ける先輩兵士。(あわわ、怪しまれた……!)

 新米兵士は兜の中でだらだらと汗を流す。

「…オレ、ヘビ苦手なんだよ〜。よし、反対方向を探そう。きっとあっちは悪魔の子はいないだろ。うん」

 くるりと進行方向を変える先輩兵士に、彼はほっと胸を撫で下ろした。

(……本当に悪人の仲間の人なら、僕なんかを助けるのかな……。そもそも、"悪魔の子"ってなんなんだ?)


 災いを呼ぶと聞いたが、本当にその人が、災いを呼ぶ所を誰か見たのだろうか――……

 
 ――雨でぬかるんだ道をもとろもせずに馬は疾走する。

 その馬に跨がる騎手は、見通しの悪い視界でも、逃げる二人の姿をしかと捉えていた。
 距離が縮まる。泥が一際激しく飛び散った――その瞬間、馬が大きく飛躍したからだ。

 二人を追い越し、四本の足が地面に着地する。
 体勢を少しも崩すことなく、騎手――グレイグは馬の手綱を引き、二人に向き合った。

「そこまでだ、悪魔の子よ!デルカダールの将、グレイグ推参!」

 グレイグ――旅立ちのほこらで自分たちをぎりぎりのところで追い詰めた男。

 彼が再び目の前に現れ、エルシスは戦く。
 エルシスだけでなく。マルティナも、また――。(まさか、グレイグとこの状況で再会するなんて……!)

 複数の足音にエルシスは振り返った。
 後ろもまた兵士たちが詰め寄っており、再び挟み撃ちになる。

「デルカダールで脱獄した貴様を追いつづけ、グロッタの町でようやく足取りをつかんだ。よくもここまで逃げのびたものだな」

 グレイグは片手を上げると、その合図に兵士たちがぐるりと二人を取り囲む。
 馬から降りたグレイグに、エルシスを庇うように手を伸ばすマルティナ。

「悪魔の子は私が相手をする。その女はお前たちにまかせた」

 狙いはあくまでも自分――エルシスは剣を構え、集中するように息を吸って……吐く。
 
「ゆくぞ!!」

 かけ声と共に振り落とされた大剣。
 エルシスは受け止める。

 ――ガキン!!

 ぶつかり合う鈍い金属音が闇夜に響いた。

 エルシス……!
 助けに行こうとするが、グレイグの命令で兵士たちに取り囲まれてしまったマルティナ。
 彼らを倒さない限りは……彼女は全身に闘気を込める。
「は――!!」

「くっ…!ッ……!」
 その近くでエルシスとグレイグの大剣が何度も激突し、重い音と共に火花が弾けた。
 その度にエルシスは弾かれ、重心を下に踏ん張らないと、体ごと吹っ飛ばされそうだった。(剣が重い……!受けるだけで体力が消耗する……っ!)

 ――これが英雄、グレイグの実力なのか。剣技はホメロスより上かも知れない。
 
「どうした!貴様の実力はそんなものか!」

 挑発するような言葉。エルシスは剣を握り直すが、グレイグの覇気は、エルシスの意思とは関係なく、その足を後ずさりさせた。

 彼の足元で小石が転がる。
 後ろを振り返ると、そこは崖で、下は渓流が流れていた。
 …いつの間にか自分は追い詰められていたらしい。

「やああ………!」
「うあっ!」

 無防備な彼にグレイグは剣を落とし、大きく弾かれたエルシスは後ろに倒れた。「……っ」今の衝撃で、手がびりびりして剣を上手く握れない。

「もう逃げ場はない。ここまでだな、悪魔の子よ」

 エルシスの目に、グレイグは顔の横でまっすぐと剣を翳す姿が映る。
(だめだ……!こんなところで諦めたら……!!)

 絶体絶命――。
 グレイグの背後で稲光が走った。


「やめなさい、グレイグ!」


 まるで、雷鳴をかき消すような力強い声が響く。
 ――兵士を倒したマルティナの必死の制止。

「なんだと?」

 グレイグは振り返る。
 己を射ぬくような視線。拳を握り締め、堂々とした立ち姿に。

 ――幼い姫の姿が重なった。

「ま…まさか、マルティナ姫なのか……?」

 そんなはずはない。マルティナ姫は16年前に……。だが、あの姿は――。

 グレイグが呆然自失になっている隙に、エルシスが立ち上がろうとすると、わずかな体重の移動で岩に亀裂が走った。

 それに気づき、息を呑むマルティナ。
 直後、岩は音を立て崩れる――!

「う……うわあ!」

 悲鳴と共に真っ逆さまに落ちるエルシス。

「ダメ!!絶対に!!」

 血相を変えて駆け出すマルティナ。
「うわ!」無我夢中に邪魔な兵士を押し飛ばした。

 そして、崖から一寸の躊躇もなく彼女は飛び降りる。
「姫さま!!」
 思わずその呼び名で叫んだグレイグ。

 崖を蹴り、加速して落下するマルティナ。
 一直線にエルシスの下へ――

 意識を飛ばした彼に、手を伸ばし、守るように頭を抱える。(あの時は、離してしまった……!!)

 ――脳裏に浮かぶ、彼女の心に消えない傷の記憶。

 手放してしまった苦しみ。
 守れなかった痛み。

『マルティナ姫、エルシスを頼みます――。どうか、共に生き延びて……』

 託された思いを絶ちきってしまった。
 何度後悔してもしきれなかった。

 ――あの日も、雨が降っていたのだ。

 水流を増した川は、二人を引き離し、幼い手は届かなかった。

「今度は離さない……っ!」

 マルティナは腕に力を込める。
 もう、二度と。あの日の罪は犯さない。

 激しい水しぶきと共に、二人の体は水中深くに沈んでいく――……。

「……………」

 やがて、何事もなかったかのように。
 崖の上からただ一人。グレイグは二人が消えた水面を見つめていた。


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