郷愁の過去

 イシの村まで、もう少し――。

 ナプガーナ密林を抜けると、懐かしい明るい日射しが届いた。
 見知った景色がエルシスの目に映り、彼は野原を駆け出す。
 渓谷地帯特有の道に、草花が美しく咲き乱れている。

「二人ともこっちだ!」

 いつもはカミュが先頭を行くのだが、今はユリと並走し、エルシスの背中を追いかける。
 エルシスの走りに、スライム達も慌てて逃げていった。

 あまり顔や口には出さなかったエルシスだったが、焦りを感じさせる背中にどれほどの心境だったかを伺える。
 それは――隣を走る彼女もきっと同じだろうと、カミュはちらりとユリの横顔を盗み見た。

 ユリはエルシスの村で手厚く看病され、世話になったと聞いた。
 短い期間だとしても、村への思い入れは強いだろう。ましてや、記憶喪失の不安定な状態ならなおさら。
 ポーカーフェイスの 気質があるエルシスと違い、ユリはわかりやすい。
 その横顔に、村に何事もないことを祈っているような気がした。

 たとえ、これから何が待ち受けようとも、自分だけは揺らいではいけない――そうカミュは気を引き締める。


 逸る気持ちを抑えきれず、エルシスはいち早く村に辿り着いた。
「エルシス!」
 すぐに後ろから名前を呼ばれて、彼は笑顔で振り返る。

「ユリ、良かった!村は無事みたいだ!」

 エルシスはユリに見せるように、手を広げた。そこには、村を出た頃から変わらない光景が広がっている。

「本当に、良かった……」
 ユリは息を切らしながら、安堵のため息を吐く。
「……あれ、カミュは?」

 エルシスの問いに、ユリはきょろきょろと辺りを見るが、カミュの姿は見当たらない。

「今まで一緒に隣を走ってたんだけど……」
「……もしかしたら、僕たちに遠慮してくれたのかな。カミュってああ見えてすごく気を遣ってくれるし」

 エルシスはそう結論付けて、ユリに言う。

「それより、今は村の状況を知りたい。城でのことも相談したいし……まずは母さんのところに行こう」

 彼女は二つ返事で頷いた。

「お兄ちゃんたち、見ないカオだな?旅の人かい?ここはイシの村。なんにもない所だがゆっくりしていくといいさ」

 村の入口で立ち止まっていると、男にそう声をかけられ、エルシスの顔が一瞬固まる。

「やだな、もう僕の顔を忘れたの?エルシスだよ、ヨハンおじさん」

 すぐにエルシスは笑って返すと、ヨハンおじさんと呼ばれた男はハッハッハと声をあげて笑った。

「……え?あんたがこの村の出身だって?なにバカなこと言ってんだ。お兄ちゃん、面白い人だなあ」
「………え?」

 しっかしなんでおれの名前を知ってるんだ?とさらに聞かれ、エルシスの表情がほんの少し怪訝に変わる。
 なんでって……上手く答えられず、適当にはぐらかして、エルシスはユリを連れてその場を離れた。

 言い知れぬ違和感を覚えながら、二人は村を歩く。

 村の様子は何一つ変わっていない。
 建物も、畑も、馬や牛も。
 小さな村だ。住人は皆、顔見知り。
 なのに、

「みんな、どうしたのかな……」

 ユリは戸惑う声で呟いた。「私ならともかく」という言葉は心の中でつけ加えて。

「分からない……」

 村の住人は、誰もエルシスとユリのことを覚えていない――というより、知らないという感じだった。

「……母さんのところへ、行こう」

 エルシスはユリの手をとり、自宅へと足早に向かう。ユリはその手を安心させたくて、ぎゅっと握り返した。
 
 小さな坂を登り、自身の家の扉の前に立つ。
 自宅だというのに緊張している自分に、エルシスは内心苦笑いする。

 意を決して扉を開けた。

「ただいま……」小さな声で、その後ろ姿に声をかけた。

 まだ村を出て日が浅いというのに、せっせと家事をしている母の後ろ姿に、懐かしさが込み上げてくる。

「おかえりなさい、エルシス。お前の大好きなシチューが、もうすぐできあがるよ」

 ──ああ、いつもの母さんだと、胸を撫で下ろし、安堵するエルシス。

「お腹が空いたでしょう。さあはやくテーブルに、」

 そう振り向きながら言ったペルラは、エルシスを姿を見て目を見開いた。

「ひっ……!あ……あんた…、あんたたちは誰なんだい!?」

 エルシスとユリに向かって叫ぶペルラ。

「…っ母さんまで冗談はやめてよっ!僕だ、息子のエルシスだ……!」

 悲願するようにエルシスは言う。

「な……なに、言ってるんだい!?うちの子はまだ6歳だよ!お前さん、わたしをバカにしてるのかい!?」
「……6歳……?」

 エルシスとユリが同じように復唱した。
 どういうことだ……いよいよエルシスは頭を抱える。

「さあとっとと出て行っておくれっ!でないと人を呼ぶよ!」
「ご…ごめんなさいっ!失礼しました!」

 茫然とするエルシスの手を掴むと、ユリは慌てて家を飛び出した。

「こっちの方からなんか大きな声が聞こえたんだが、いったい何があったんだろ……」
「びっくりしたなあ。今の声ってペルラさんだよな?あんな声出して何があったんだ?」

 騒ぎを聞き付け集まってきた住人に、ユリは坂を下るのを諦めて、離れがある方にエルシスを連れて向かう。

「……エルシス」

 エルシスは柵に手をつけ、村を見下ろしている。
 ショックを受けてる彼に、ユリはなんて声をかけて良いのか分からない。

 ここは、本当に自分たちの知っているイシの村なのだろうか。

 これからどうしたらいいのだろう。
 こういう時、カミュならどうするのだろう――そもそも彼はどこに行ったのか。

「……ユリ」

 静かに名前を呼ばれ、エルシスを見る。

「ここは、過去のイシの村だ――」

 そう言って、こちらをまっすぐ見る彼の表情は、凛々しさを取り戻していた。

「……過去?」
「うん。さっき母さんが言ってた言葉から、十年前のイシの村だと思う。なんで僕たちだけが過去に来てしまったかはわからないけど……。見て、あそこ」

 エルシスの指を差す方を見る。

 イシの村の象徴のような不思議な大樹にいる金髪の小さな女の子の姿は……

「も、もしかして……エマ!?」
「そう。幼いエマだ。隣に小さいルキもいる」

 それはここが過去のイシ村だという何よりの証拠だった。

 ならば、すべてが納得いく。

 どおりで村の住人たちがエルシスやユリのことを知らないはずだ。

「でも、少し様子がおかしいみたい……」
「…何かあったのかも。とりあえず行ってみよう」

 エルシスの言葉に急いで坂を下り、二人は大木の方へ向かった。

「ひっく……ひっく」

 幼いエマはしゃくりあげるように泣いており、その隣にこれまた小さなルキが大樹に向かって吠えている。

「可愛いお嬢さん。どうして泣いてるの?」
 ユリは幼いエマの視線に合わせるようにしゃがむと、優しく聞いた。
「……あたしの、あたしの……スカーフッ!」

 その幼いエマの言葉をそこまで聞いて、エルシスは何が起こったかすぐにわかった。
 村から出発する前日の夜に、ちょうどこの大樹の前で、エマとそんな思い出話をしていたからだ。

「待ってて。すぐに取るよ」

 エルシスはそう言って、高い枝に引っ掛かったスカーフをいとも簡単に取った。

「どうぞ」

 渡されたスカーフを戸惑いながらも嬉しそうに幼いエマは受け取る。

「あ……ありがと、お兄ちゃん。あたし、エマっていうの。お兄ちゃんは?」
「えぇと……エルシス?」
「エルシス……?」

 エルシスはどう言おうと悩み、疑問系で答えると、当然幼いエマも不思議そうに聞き返した。
 が、すぐにぱっと笑顔を見せる。

「あっわかったわ!お兄ちゃん、エルシスをさがしてるのね!エルシスならテオおじいちゃんのとこにいるはずだわ!」
「テオおじいちゃん……」

 彼女から出てきた敬愛する祖父の名にエルシスは驚く。

 そうか……ここは十年前。その頃はまだ、おじいちゃんが――。

「エマちゃん、そのエルシスくんのところに案内してもらえないかな?」
「っユリ!?」

 エルシスはユリの突然の提案に慌てる。
 さすがに過去の自分と対峙するのはいかがなものか。

「うんっ案内してあげる!綺麗な瞳をしたお姉ちゃん!でもなんでアタシの名前知ってるの?」
「あ…えぇと……ペルラおばさんに聞いたの」

 ユリは上手く誤魔化した。

「ペルラおばさんの知り合いなのね!お姉ちゃんはなんてお名前?」
「ユリだよ」

 彼女が名乗ると幼いエマは嬉しそうに笑って走り出す。

「ユリお姉ちゃん、こっちよ!」
 可愛い。とっても可愛い。
「ユリ、さすがにまずいんじゃ……」

 ついて行こうとするユリにエルシスが引き留める。

「きっと大丈夫だよ。エルシスも行こう。エルシスだってテオおじいちゃんに会いたいでしょ?私も会いたい。小さいエルシスにも会いたい」
「えええ……」
「ユリお姉ちゃん早く!お兄ちゃんもこっちよ!」
「ほら!エマちゃんもルキも呼んでるよ」

 ユリに手を引っ張られ、エルシスは観念して、彼女に引きずられるように幼いエマの後を追う。


「ねえ、おじいちゃん!はしご知らない!?はしご!エマのスカーフが木の上に飛ばされたんだ!」
「ははは、わかったわかった。待っておれ。今行くでな」

 幼いエマの案内に、二人は川辺に小さいエルシスとテオの姿を見つけた。

「……おや?」

 テオは二人の存在に気づき、こちらを見る。
 エルシスの祖父のテオは、白いふさふさの髭が特徴の、優しそうで、愛嬌のある老人だと――そんな印象をユリは受けた。

「エルシス。はしごなら大丈夫よ。あのお兄ちゃんがスカーフをとってくれたから。それでね、このお姉ちゃんがあなたに会いたいって!知ってる人?」
「ううん、知らないよ」

 今の彼より少しやんちゃそうな顔つきをしている幼いエルシスは、当然首を横に振った。
 大きい方のエルシスが、ひそひそとユリに耳打ちする。

「ユリ、どうするのさ。こうなることは予測して何か考えがあって来たんだよな?僕たち怪しまれてるよ」
「んんん?」

 もちろん考えてなどいない。

 ユリが必死に頭を働かせていると、テオが先に口を開いた。

「ふむ……。あのお嬢さん達はわしに用があるようじゃ。エルシスとエマは向こうで遊んでなさい」

 テオの言葉に「はーい」と元気よく幼い二人は返事して笑いながら駆けていく。
 もしかしなくても助け船を出されたのだろうか。

「さてと……」テオの視線がエルシスに向いた。

「お前さんも……エルシスじゃな」

 変わらず穏和な声で言われた言葉に、エルシスは驚きに目を見開く。

「いや、僕は………」

 エルシスが名乗っていいのか戸惑っていると、テオは朗らかに笑った。

「ははは。隠さんでもいい。わしにはわかるわい。赤ん坊の頃から面倒を見てきたんじゃ」
「っ……テオ、おじいちゃん……!」

 何でも知ってて、強くて、優しくて、釣りが得意のテオおじいちゃん。

「…はは、やっぱりおじいちゃんにはかなわないや」

 記憶の中の存在とまったく変わらぬテオの姿に、エルシスの目頭が熱くなる。

「して、エルシス……そんなつらそうなカオをしていったい何があったというんじゃ?わしに話してみなさい」

 テオの暖かな言葉に、エルシスは涙を呑み込み、素直に事情を話した。

 テオの言いつけを守って、イシの村を出た後、自分たちの身に何が起きたのかを――。

「なるほど、どうやらお前さんはわしがいなくなった後の未来からやってきたようじゃな。ふむ……。頼りにしていたデルカダール王に裏切られたというか。つらい思いをさせてしまったのう……」
「おじいちゃん……僕は、どうしたらいいんだろう……」

 エルシスがそう弱音を口にするのを聞いたのは、ユリは初めてだった。

「エルシス。デルカダール王が頼りにならないとわかった以上、お前さんには包み隠さずすべて伝えたほうがよさそうじゃ」
「どういうこと……?」

 エルシスはテオをじっと見つめる。

「だが、こうして話してる時間はあまりなさそうじゃな。よいか?よく聞くんじゃぞ。村を出て東に向かった所にイシの大滝があるじゃろ。戻ったらそこにある三角岩の前を掘ってみなさい」

 エルシスの問いにテオは答えずに、矢次早に彼に伝える。

「そこに何が……」
「東にあるイシの大滝。そこの三角岩じゃぞ」
「……分かった」

 再度テオに言われ、エルシスは素直に頷いた。

「しかし、大きくなったのう。これほど立派になったエルシスを見ることができ、わしは果報者じゃ」

 テオはエルシスを眺め、にっこりと笑った。
 そして、次に視線を隣のユリに移す。

「お嬢さん。エルシスと同じく純粋で綺麗な瞳をしておる。良かったらこれからもエルシスの良き理解者になってくだされ」
「もちろんです!」

 ユリは力強く答えた。
 嬉しそうに笑みを浮かべたテオは、もう一度エルシスを見据える。

「おじいちゃん……?」

 どこか様子がおかしく、エルシスが名前を呼ぶ。
 すると、徐々に透けていくテオの身体。 
「待ってっ!おじいちゃん、僕まだ話したいことが、たくさん……!」

 エルシスが手を伸ばす。

 彼の手は宙を掴み、完全にテオの姿は見えなくなってしまった。
 
 ──エルシスや。人を恨んじゃいけないよ。わしはお前のじいじで幸せじゃった。
 
 最後に、二人の耳に届いたのはその言葉だった。
 
「テオ、おじいちゃん……」

 しばらく、ぼんやりとテオがいた場所を見つめていたエルシスだったが。

「……ユリ、村に戻ろう」

 やがて、隣の彼女にそう声をかける。

「あの村に生えてる大木。ナプガーナで見た大樹の根っこに似た根っこが巻きついてるんだ。もしかしたら、何か分かるかも知れない――」

 二人が村に戻り、大木の所に向かうと、小さなエルシスが駆け寄ってきた。

「お兄ちゃん!さっきはお礼を言いそびれちゃったけど、エマのスカーフ、取ってくれてありがと!」
「……どういたしまして」
 エルシスは幼い自分に微笑んだ。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、またこの村にあそびにきてね!」

 その言葉に、ユリは小さく手を振る。

 幼いエルシスは幼いエマの元へ駆けて行く。
 無邪気で楽しげな笑い声を上げ、なにして遊ぶ?という子供らしい会話をしながら。

 二人がその様子を眺めていると、ふと意識がぼやけて、景色も色褪せていく――そして、二人の名前を呼ぶ声が。

 行きは突然だったが、帰りも突然だった。 

 そこには心配そうに二人を見つめるカミュの姿。

 どうやらエルシスとユリは、"現実"に戻って来たようだ。


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