真実を告げる

 霧が晴れ、白の入り江が姿を現した。

「おかえりなさい!ずいぶんとお戻りが遅いから、私、とっても心配していましたわ!」

 ――そう彼らの姿を見て、明るく声を上げたロミア。
 彼女は出会った時と同じように岩の上に座り、キナイを待つように自分たちを待っていたのだろう。

「もしかして、あなた方やキナイの身に何かあったんじゃないかって、不安で祈りの唄をずっと歌っていたの!」

 興奮気味に話すロミアははっと気づいて口を閉じる。

「……って、ごめんなさいね。長旅でお疲れなのに、私ったら……」
「いえ、僕らも待たせちゃってごめんなさい」
「……それで、どうだったかしら。キナイは元気でしたか?私を……私を迎えにきてくれる?」

 ロミアの問いに、エルシスは意を決して口を開く。
「ロミアさん。キナイさんは――……」

「……キナイが死んだ?エルシスさん、何を言っているの?イヤよ……そんなことってないわ」

 エルシスは、ロミアに真実を話した。

 それがロミアに対しても、キナイ・ユキに対しても、自分が出来る"正しい"ことだと思ったから。

 信じられないというロミアに、エルシスは目を伏せる。彼女が受け入れまいが、事実は変わらないのだ。
 エルシスの後ろからユリが前に出て、ロミアに言う。

「……ロミアさん。私、しじまヶ浜でキナイさんの声を聞いたんです」
「キナイの声……?」
「ロミアさんに伝えて欲しいと。"どうか、君は幸せに生きてくれ"……と」

 キナイ・ユキの言葉は、ただ愛するロミアを思う言葉だった。
 自分に囚われず、ロミアに前を向いて生きて欲しいと――キナイならそう願うのではないかと、エルシスは思う。

「そんな……だって、私の幸せは……」

 混乱するロミアは、真実から逃げるように目を泳がせ――気づいた。

「……あら、エルシスさん。その手に持っている物はなんですか?」
「これは……」

 エルシスは説明すると共に、ロミアに約束のベールを渡す。

「……えっ?あの人が…?キナイがこのベールを握って死んでいった……?」

 ベールを受け取るロミアの手が震える。

「ウソよ!だって……だって、あの人は必ず迎えにくると約束してくれたもの!」
「ロミアさん……っ」
「ロミアさん、悲しいですが……キナイさんは……」
「ごめんなさい、エルシスさん、ユリさん。私は彼の死をこの目で確かめるまで、とても……信じられない……」

 エルシスの言葉を遮るように言ったロミアは、次いで強い視線を彼らに向けた。

「……あなたが会ったというキナイに会わせてください。キナイに、会わせてください。私を……ナギムナー村に連れていって!」

 お願い…と繰り返すロミア。エルシスら困惑し、思わず隣のユリに視線を寄越すと、彼女は無言で頷いた。

「……わかりました」

 これほど懇願され、エルシスも断ることなどできない。
 戸惑いながらも頷く彼に「ありがとう……」とロミアは静かに礼を言った。

 早々にシルビア号に戻り、出港の準備をする。

「ねえ……エルシス。本当にロミアをナギムナー村に連れていって大丈夫かしら?」
 ベロニカが不安げにエルシスに声をかけてきた。
「あのコ、かなり気が動転してるわ。ショックで倒れちゃったら、あたしたちどうにかできるかな?」

 そう言われると、エルシスも不安になってくる。ロミアの必死さに二つ返事をしてしまったが……。

「ロミアの決意はかたいわ……。アタシたちが連れていかなくてもナギムナー村まで泳いでいってしまいそうね」
「もし、魔物や人魚をよく思わない人に出会したら……」
「ええ、一人で海を渡るのはあまりに危険だわ。アリスちゃんに相談して、ロミアを隠しながらナギムナー村へ連れていきましょう」
「ロミアもキナイに会えば、キナイ・ユキの死を受け入れられるさ。つらくても前に進むしかないんだよ」

 シルビアとユリだけでなく、通りすがりにカミュまでも。カミュは励ますようにその肩にぽんっと触れた。

「ロミアが言っておったじゃろ。陸に上がった人魚はふたたび海に戻る時、泡となり消える。人魚が人間の村に近づくことはかなりの覚悟が必要なはず」
「…ロウおじいちゃん」
「そうまでして、キナイに会いたいというなら、わしらにできることはその手助けをしてやることだけじゃ」
「そうだね……」

 皆の言葉を聞いて、同意するようにエルシスは頷く。

「ロミアさまは何十年もの間、恋人との再会だけを心の支えにキナイ・ユキさまを待っていたのです。死を……彼の死を受け入れるのはカンタンなことじゃないはずですわ」

 セーニャが静かに呟いた。
 簡単に受け入れられることじゃないからこそ、ロミアが乗り越え、前に進むために必要なことだ――。
 エルシスはそう納得し、船の上から海の中に佇むロミアに声をかける。

「ロミアさん!船を出せる準備が出来ました!」
「エルシスさん、私にかまわず船を出してください!私は後からついていきます!」

 こちらを見上げたロミアは「人魚は泳ぐのが得意なの。はぐれたりせずちゃんとついていきますから」そう付け加えて。

「わかりました!」


 シルビア号は、再びナギムナー村に戻る。
 今度はロミアと共に――。


「ナギムナー村の船着き場は人通りもあるし、ロミアを隠すのにはむかないわ」
「そうねえ。漁も再開されて賑わうでしょうし……」
「どこか人気のない海岸があればいいんでげすが……」
「しじまヶ浜なら誰も来ないと思うし、ロミアとキナイを会わせるのにうってつけの場所になるんじゃないかしら」
「教会の裏にある村の墓地でもある場所ね。ちょっと寂しそうな場所だけど……人気がないのに越したことないわね」

 マルティナ、シルビア、アリスが話し合い、キナイと落ち合うのはしじまヶ浜と決まった。

「ロミアさま。もし何かありましたらお声をおかけくださいませ!」
「私たち交代で見張りをしているの!」
「ありがとう!セーニャさん、ユリさん」

 海を走る船の後ろを泳ぐロミアに、セーニャとユリは声をかけた。
 ロミアはしっかりと船のあとをついて来て、彼女が言ってた通り泳ぎは大丈夫そうだ。

 私が本当に人魚だったら良かったのに――そんな無意味なことをユリは考えてしまう。

 真実を確かめるため、一人船を追いかけ泳ぐロミア。
 その隣で泳ぎ、寄り添うことが出来たなら――彼女の姿を見て、そう思ってしまったのだ。


 ロミアに危害が及ばぬよう周囲の魔物は倒しながら、途中で休憩も挟みつつ、船は海を進んだ。

 逸る気持ちから彼女は休まなくて大丈夫だと言ったが「だめよ。ナギムナー村に着くまで体が持たないわ」とシルビアが説得する。

 ユリの提案で、小舟でロミアの側まで来て、一緒に食事を取ることにした。
 地上の料理を食べるのは初めてだったらしいが、ロミアはおいしいと笑う。

 ――その笑顔を見て、安堵するエルシス。

 今は無理でも、いつかきっと、彼女はキナイの死を乗り越えてくれるだろうと思った。

「ロミアさん、もうすぐナギムナー村です。漁猟が盛んなので、他の船に見つからないよう気を付けてください」
「はい、大丈夫です。いざとなったら海の中を潜るわ」

 エルシスの言葉に、分かるようにロミアは大きく頷いた。

 ――ここが、ナギムナー村。

 ロミアは船について泳ぎながら、小さな集落を見る。
(キナイが生まれ、キナイが育った村……)
 初めて目にした愛した人の故郷。

 夕陽に照らされる美しい村を――その目に焼き付けた。
 きっと、もう二度と見ることはできない。


「ここなら人が来ないようですから、私はここでキナイを待っています」

 しじまヶ浜に着くと、波打ち際の岩影にロミアは身を潜める。

「何度もわがまま言ってごめんなさい。キナイを連れてきてください。どうか、どうか……お願いします」
「オレたちもここで待ってるぜ。ぞろぞろ押し掛けても、な」

 カミュの言葉にエルシスは頷き、一人その場を離れた。

「もしも、陸にあがれたのなら……。自分の足で地面に立って、走れたのなら……。すぐにでもキナイに会いにいくのに……」

 さざ波に混じって、そんな切ない声が聞こえた気がする。


「……そうか、ベールを渡してくれたんだな。本当にありがとう。イヤな頼みごとをして悪かったな……」

 エルシスはキナイの家を突き止め、そこに向かえば、ちょうど漁の道具を手入れする彼の姿があった。

「お礼に俺ができることはないか?簡単な雑用でも船の修理でもなんでもやってやるぞ」
「今日はキナイさんにお願いがあって、来たんです」

 エルシスはキナイの目を見つめて、詳しい事情は伏せて話す。

「……え?しじまヶ浜に来てほしい?……変わったヤツだな。あそこには何もありゃしないぞ?まあ、そんなことでお前の気が済むならいいだろう。さっそく行くとしよう」

 
 エルシスはキナイを連れて、しじまヶ浜に向かった。
 人魚であるロミアに会ったら、彼はどう思うだろうか。

 二人がしじまヶ浜に着いた頃には、すっかり陽が落ちて、辺りは暗くなっていた。

「エルシスがキナイを連れて来たようね」
「…………」

 マルティナとユリは、行く末を静かに見守る。

「こんな所に連れてきていったいなんだってんだ?」
「あなたに会わせたい人が……」
「キナイ、キナイなの?」

 二人の気配に気づき、海からロミアの声が響いた。

「ああ、俺がキナイだが?」

 怪訝そうにその声に答えたキナイ。
 辺りは明かりがなく真っ暗で、声の主が分からない。

 その時、波音とは違う大きく水が跳ねる音がした。魚か?とキナイはそこを凝視していると、

 雲に隠れていた満月が顔を出す。

 月明かりは岩に腰かける彼女の姿を、闇夜に露にした。

「そ、そんな……人魚。本物…なのか……?」
「あなた、キナイじゃないわ……」

 当然のように驚くキナイに、ロミアは悲しそうに呟く。
 キナイはすぐに分かった。

 彼女が呪いの人魚、ロミアだと――。

「あんたが探してるのは、俺の祖父だ。あの人はもういない……。ここで……死んだ」

 キナイはそっけなく言いながら、指を差す。
「…………っ!」
 ロミアの目に、浜辺にぽつりと建てられた質素な墓が映った。

 他の墓地とも離れて建てられたのは、人魚の呪いを恐れてだろうか。
 そんな理由をロミアは知らずとも。

「キナイは……こんなさびしい所で……。ひとりぼっちで……死んでいった」

 彼が村へ帰って、どんな風に過ごして亡くなったのか分かってしまった。
 そして、古い石は年月を感じさせる。

「人魚は500年の時を生きる。人間の一生は、私たち人魚にとって一瞬であることを忘れていたわ」
 それほどまでに、二人の間に"違い"はなかったのだ。
「……あれから、そんなにも時が過ぎていたのね……」

 ロミアは突然、海に飛び込んだ。驚き、思わず浜辺に駆け寄るエルシスとキナイ。

「エルシスさん、最後まで私のわがままに付き合ってくださって、本当にありがとう」
 浅瀬に横座りし、ロミアはエルシスを見上げて言う。
「お礼の品は白の入り江に置いてきました。直接渡せなくてごめんなさいね」

 何故そんな風に言うのか、エルシスは上手く理解できず、戸惑った。

 ロミアはベールを被る。

「私、もういくわ……」

 その言葉の意味も、彼女に問うことはできない。何故なら――(……なんて、悲しい唄だろう……)

 そして、とても美しい。

 その場にいる皆が、静かに彼女の唄に耳を傾ける。
 悲しげな人魚の唄が、しじまヶ浜にひびき渡った……。

 唄い終わると、ロミアのそのヒレが輝き、人間の足に変わっていく。
 茫然とするエルシスとキナイの目の前で、ロミアはその足で立った。

 見た目は人間と同じなのに、彼女にとっては紛い物の足。

 ロミアは覚束ない足取りで、一歩、また一歩と歩いて、向かう先は――。
 倒れるように膝をつき、キナイの墓に両手で触れた。

「…………ずっと、待っていたわ」

 ずっと……ずっと待っていた。今日は来なかった。でも、明日は来るかも知れない。そんな風に待っていたら、いつの間にか月日は流れていた。

 ――時間なんて関係ないほどに、あなたを待っていられたの。

 誓いの口付けのように、ロミアは愛する人の墓にそっと唇で触れる。

(キナイ……私の幸せは、アナタよ)

 何かを決意するように見つめ、やがて彼女は来た道を戻る。

 途中、がくっと膝が折れ、エルシスがあっと思った時には手が伸ばされていた。
 キナイの手は、ロミアの手をしっかりと掴む。振り返ったロミアは、初めて彼の顔を真っ正面から見た。
 キナイとは似ていない顔。なのに、どことなく雰囲気は似ている。

 その手を両手でそっと包むロミア。

「手は……同じなのね。キナイと同じ…………手をしているのね」

 彼とキナイが重なって見える気がした。
 ユリが彼の声を聞いたというなら、待っていてくれたのかも知れない。

 なおさら、行かなくちゃ――ロミアはその手を離した。

「陸に上がった人魚は泡となり消える。それが……人魚のオキテ。最後にキナイと会えてよかった」

 海を見ながら彼女は言う。

「もし、私が人間だったなら、キナイと共に生きられたのかしら」

 人魚も人間も、関係ないと思っていた。

「さようなら……」

 キナイはロミアの背中に手を伸ばす。声はかけられなかった。…いや、かける声が見つからなかった。
「っ、待って……!」
 必死に絞り出した声を出したのは、エルシスだった。
「っだめだ。こんなのだめだ……っ!」

 自分の言葉で、彼女を引き留められるとは思わない。

 それでも。

「だめだよ……。違う。こんなの悲しすぎる……っ」
「…エルシスさん、泣かないで。私はあの人と一緒に海に還るだけだから」

 ――悲しいことではないの。

 そう最後に微笑んで、ロミアは海へ還っていく――……


 
 彼らの目に映るのは、波に漂うベールだけであった。

 ――二人はきっと、長い旅路に出たのだ。

 ユリはエルシスがキナイを呼びに行っている間に、ロウから聞いた話を思い出す。

 この村では、死後の魂は海を渡って命の大樹を目指すと謂われているのだと。
 海の近く、しじまヶ浜に墓地があるのもその為だ。

 ならば、何も悲しむことはない。

 魂は消えるのではなく、流れ、巡るのだから。

 あの声は聞こえない――きっと、彼はロミアと共にある。(だから、何も悲しむことは……)

「………っ」

 ……ないのに。ユリは頬を指先で拭った。セーニャとベロニカのすすり泣く声が聞こえる。

「……行ってしまったのね、ロミア」
「……人魚とはかくも美しく、はかない生き物なのじゃな」
「…………だから、人の色恋に首を突っ込むのはイヤだって……言ったんだ」

 離れた場所で見守っていたシルビア、ロウ、カミュ。

「ロミアさま……。ああ、なんてことでしょう……」
「なんとなく、こうなるってわかっていたの。……それでも、あたしたちにロミアを止める権利なんてないじゃない」


 誰もがロミアが消えた海を眺め、悲しみに暮れていた。


「……ロミアさん……」
「……あの姿、どこかで見たことがある」
「…………?」
「あれは、たしか……祖父の小屋に……!」

 愕然と膝をついてるエルシスをよそに、突然キナイは弾かれたように走り出した。
 ただ事じゃない気配に、エルシスは腕で乱暴に涙を脱ぐって後を追う――

「…?どうしたのかな……」
「私たちも行ってみましょう」

 マルティナの言葉にユリは頷いた。
 二人もエルシスに続いて、小屋に入ると……。

 ちょうどキナイが布を取り払うところだった。その下から現れた絵は、美しい人魚の絵。

 満月の下、約束のベールを被ったロミアが描かれていた。

「これって……」ユリの言葉を引き継ぐようにエルシスは言う。「キナイ・ユキが描いていたのは、夜の海じゃなくて、ロミアだったんだ……」

 目にすることは叶わない、ベールを被った彼女を思い描いた――。

「これは……手紙?」

 手紙……?三人はマルティナに視線を移す。キャンバスの後ろに挟まれた手紙に気づいたマルティナは、それをキナイに渡した。
「……祖父の手紙だ」


 キナイは手紙を読み上げる。
「愛する人へ……」
 ロミア宛の手紙を――。


『君に助けられたあの嵐の日から、君を迎えにいくことだけを、支えに生きてきた。
 それはもう終わりにしようと思う。
 すまない。俺は約束を守れそうにない。
 あれは、俺が村を追われて数年後のことだ。
 ひどい大嵐でたくさんの人が死んだ。 村長とダナトラの夫も犠牲になった。
 その数日後、しじまヶ浜の崖の上に  赤ん坊を抱いて立ってある女がいたんだ。
 その女は……かつての許嫁、ダナトラだった』

 そこまでキナイは読み上げ、祖父の記憶を辿るように、ドアの向こうの海を眺めた――……


 ダナトラは生きる希望を失っていた。

「…………っ!!」

 大きな悲しみを抱えた彼女に、俺の声は届かなかった。彼女は、俺の目の前で海に飛び込んだんだ。

 俺はふたりとも助けようとした。
 だが、救えたのは……赤ん坊だけだ。

 ……キナイ。

 助けた赤ん坊を抱いて、海辺を歩いていると、海から彼女が俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたんだ。
 ロミアのことは片時も忘れたことはなかった。
 
『身体は本当にもういいのね?』
『ああ、ロミアのおかげだ!もうすっかり元気だよ』
『キナイ。私はいつまでもここであなたを待ってるわ』

 必ず迎えにいく――その言葉に偽りはない。彼女と別れたあの日の誓いは、今もこの胸にある。

「……オ…オギャア……」
「……大丈夫だよ。名前、付けないとな」

 でも、腕の中で泣きじゃくるこの子を――指を差し出すと、笑って小さな手で握り締める姿に、気づいてしまったんだ。
 
 この子には、俺が必要だ。
 
「すまない…ロミア、俺は……」


 俺だけ、幸せなになるなんて、できない――。


「人魚の呪いの言い伝えは、俺のようにおろかな人間が二度と出ることのないよう、いましめとして村に残した」

 キナイは明かされる新たな真実と、キナイ・ユキの心情に戸惑いながらも、彼は手紙を読み上げ続けた。

「君の仲間をおとしめるような、皆の言葉を許してほしい。……君は、まだあの入り江で俺を待っているのだろうか」

(待っていた。待っていたんだよ、じいさん。彼女は、ずっと……)
 
「俺はもう君を迎えにいく資格がない。だが、これだけは信じてほしい」

 手紙の最後に締めくくられるその言葉を、キナイは口にする。
 できることならば、この手紙を彼女に渡したかった。
 
「……君を、愛している」

 キナイは手紙を読み終わると、静かに呼吸をする。
 感情を落ち着かせてから、エルシスたちに顔を向けた。

「今までの無礼を許してくれ。ロミアに会わせてくれて、ありがとう」

 三人の顔を順に見ながら、感謝の言葉を口にし、ロミアの絵に視線を向ける。

「今ならじいさんの気持ちがわかる。恋を……してしまいそうだった」

 
 ……――誰も、悪くなかったのだ。

 キナイ・ユキは償いのために彼女と決別し、何も知らないロミアは長い時を一途に待って……。
 二人は想い合っていたのに、ほんの少しの運命の違いに、どこで直したら二人は共に生きられたのかとエルシスは考える。

「ねえエマ……現実の人魚の恋物語も、悲恋に終わってしまったんだ……」

 終わらせてしまったのは――

「……本当に、悲恋なのかな」

 船から海を眺めるエルシスの隣に立ち、ユリは彼に話す。

「私たちから見たら悲恋でも、ロミアさんにとっては違かったのかも知れない……。彼女は、キナイ・ユキへの愛を貫いたのだから……」

 共に生きることは叶わなかったけれど、それほどまでに愛した人がいたことは、きっと素敵なことだと思いたい――ユリはそうエルシスに伝える。

「でも……君はあの時、僕の質問に嘘をつくと答えた。真実を話さなければ……きっとロミアさんは今も……」
「違うよ、エルシス」

 ユリは彼を見つめ、きっぱりと言い放った。

「ロミアさんの決断はロミアさんのものだよ。どちらの選択肢が正しかったなんて誰にも分からない。正しいからこそ、つらい選択肢だってある。エルシスが二人のことを思って、悩んで出した答えなら……」

 それは、絶対に間違いじゃない。
 
「ロミアは白の入り江にお礼の品をわざわざ残したんだろ」

 ユリとは反対にエルシスの隣に立ったカミュは言う。

「……あいつの中ではキナイに会いにいくと言った時、何をするかもう決まっていたんだ。だから、エルシス。真実を話したことを悔いる必要はない。オレはそう思うぜ」

 責任を感じているその顔に、ユリと同じように言葉をかけた。

「そうじゃぞ、エルシス。過ぎたことを悔やむのは誰にでもできることじゃ」
 ロウも二人に続いて、優しい眼差しで彼に説く。
「たとえ、悲しみの目のあたりにしても前へ前へと進み続ける。それが、勇者の使命なのだとわしは思うぞ」
「勇者の…使命……」

 それは、エルシスが重く背負う運命だ。
 この世界が、これからもエルシスにつらい選択肢を迫るのなら――少しでもその重荷を減らしたいとユリは思う。


 悲しみはすぐには癒えない――抱えたまま、シルビア号はロミアが残した物を受け取るため、海を進む。

「……っロミア姉さん……」

 マスクの下で涙を流しながら、アリスは白の入り江に向けて舵を切った。


 涙は流し尽くし、ベロニカの赤い目に映るのは、いつもと変わらない青い海だ。

「ロミア……泡になって、この海のどこかにいるのかな」

 彼女の小さく呟いた声は海風にさらわれる。

「お姉さま、ふたりが共に生きる道は他になかったのでしょうか……」

 セーニャはベロニカに尋ねた。

「私には、キナイ・ユキさまが選んだ道を間違っていたとは言えません。……けれど、やっぱり胸が痛いですわ」
「そうね……」
「キナイちゃんが真実を知ったことで、この村に残る悪しき人魚の伝承はすこしずつ正されていくんじゃないかしら」
 悲しいことだけではないと――シルビアが二人に言う。
「ロミアとキナイ・ユキの別れをムダにしてはいけないわ」

 せめて、二人は純粋に恋をしたのだと――

「キナイ・ユキが描いた人魚の絵……。ロミアにそっくりだったわね。思いのこもった美しい絵だったわ……」

 そう伝わってほしい。マルティナの言葉に、三人はロミアの絵を思い出した。


 ――誰もいない白の入り江は、忘れ去られた地のようだ。
 ロミアがいた場所には、彼女の代わりにマーメイドハープと手紙が残されていた。

 エルシスが手紙を開くと、そこには見たことない文字が並んでいる。人魚の文字だろうか。
 戸惑っていると――突然文字が宙に浮き上がり、変形していく。
 やがてそれは文章となって紙に戻り、エルシスにも読めるようになった。


『エルシスさんへ。
 アナタがこの手紙を読んでいるということは
 私の身に、何かが起きたのでしょうね。
 最後まで迷惑をかけて、ごめんなさい。
 エルシスさんは、私が知る人間の中で、キナイの次に優しい人です。
 お約束通り、アナタを海底へお連れします。
 手紙と一緒に入れたマーメイドハープがアナタを未知なる世界へ、導くでしょう。
 ソルッチャ運河を抜け、内海の中心にそびえる光の柱でハーブを使ってください。不思議な形の岩場がその目印になりますわ。
 海底王国に着いたら、私は幸せだと女王さまによろしくお伝えください。
 本当にありがとうございました』

 ……ロミアより。


 読み上げたエルシスの中に、言葉に出来ない感情が生まれる。(キナイさんの次に優しい人――……)


「ロミアさん……僕は謝ればいいのか、お礼を言えばいいのか、わからないや……」


 泣いてるような笑みと共に膝を着くエルシスを、仲間たちは静かに見守った。


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