嘘をつく

 霧が晴れ、白の入り江が姿を現した。

「おかえりなさい!ずいぶんとお戻りが遅いから、私とっても心配していましたわ!」

 ――そう彼らの姿を見て、明るく声を上げたロミア。
 彼女は出会った時と同じように岩の上に座り、キナイを待つように自分たちを待っていたのだろう。

「もしかして、あなた方やキナイの身に何かあったんじゃないかって、不安で祈りの唄をずっと歌っていたの!」

 興奮気味に話すロミアははっと気づいて口を閉じた。

「……って、ごめんなさいね。長旅でお疲れなのに、私ったら……」
「いえ、僕らも待たせちゃってごめんなさい」
「……それで、どうだったかしら。キナイは元気でしたか?私を……私を迎えにきてくれる?」

 ロミアの問いに、エルシスは一呼吸置いてから口を開く。

「その前に……ロミアさんに渡すものがあります」

 エルシスは約束のベールをロミアに渡した。

「キナイが……私に」
 驚きながらも、受け取るロミア。
「とても、きれいなベール……。私の大好きな真珠の色だわ……」

 嬉しそうに笑うロミアだったが、当然の疑問が彼女の頭の中に浮かぶ。

「……でも……変ね。なぜ、キナイと一緒じゃないの?先に行ってくれとキナイに言われたの?」
「ロミアさん――ここに来れないキナイさんの代わりに伝言を預かっています」

 そう答えたのは、エルシスの後ろから前に出たユリだった。


 それは、ナギムナーを出港した日の話――……


「ねえ、ユリ。その言葉を聞いて、君は……ユリならどうする?」

 ロミアに真実を伝えるか、否か。

「私は――……私は、伝えない」

 迷いのない声でユリは答えた。

「愛した人のいない世界で生きるのはつらいから……」

 "君は幸せに生きてくれ"

 しじまヶ浜で聞こえた言葉は、たった一言、愛する人をただ思う言葉だ。

 真実を伝えれば、彼女は絶望するだろう。
 嘘を伝えれば、長い時の中、彼女は愛する人を何も知らずに待つことになるだろう。

 だが、その時の中で新たな希望が見つかるかも知れない。
 ただ、自分の大切な人が生きて欲しいというのは、純粋な人の願いだ。

「命を失ってもなお、伝えられたその言葉を私は尊重したい」

 私だけが、あの言葉を聞けたのだから。

(それに――……)

「…エルシス。お願いがあるの。ロミアさんに話すのは……私にまかせてほしい」
「ユリ……」

 真摯に言うユリの意思は固いものだと、エルシスは気づいた。
 その提案はキナイ・ユキの言葉を聞いたからというだけでなく。彼女のことだから、きっと――(…僕のことも思ってだ)

 本当は、今にも責任に押し潰されそうで逃げ出したい自分を……きっと彼女は見抜いているのだ。

「ごめん……。ごめん、ユリ……」
「?どうしてエルシスが謝るの?お願いしているのは私なのに」

 ユリは不思議そうに微笑む。その優しさに、その笑顔に、いつだって助けられて来た。


「――キナイから伝言……?キナイはなんて言ってたの、ユリさん」

 ロミアは不思議そうに、エルシスから隣のユリに視線を映した。
 ――近くで見守るマルティナとベロニカも、黙って話の行く末を見届ける。

 彼女がロミアのことは自分にまかせて欲しいと申し出た時は多少驚いたが、しじまヶ浜での声のことも聞き、全員が納得して了承した。
 エルシスだけは、自分の役目をまるでユリに押し付けるようで悩んだが、結局彼女に託した。
 何より、自分は最後まで答えが出せなかったのだから。

「"どうか、君は幸せに生きてくれ"――それがキナイさんの言葉です」

 ユリはありのままを伝えた。この言葉だけはそのまま伝えなくちゃいけないと思ったのだ。

「……ごめんなさい。どういう意味か私にはわからないわ。どうして、キナイは……」
「キナイさんは……――」

 そこで、ユリの言葉が不自然に途切れる。

「ユリさん……?」

 泣き出しそうなその横顔からエルシスは気づく。
 彼女だって嘘をつくのは心苦しいのだ。
 分かりきったことじゃないか。それなのに僕は――エルシスはぎゅっと拳を握り「っ…」口を開こうと、

「キナイさんは迎えに来ます」

 エルシスが何か言う前に、ユリは打って変わって笑顔でロミアに伝えた。

「ただ、漁に出なけなければならなくって、すぐには来れないんです」
「……よかった……!」

 ロミアは一拍置いて、すぐに笑顔を浮かべる。
 そして、手に持つベールを頭に被った。

「似合うかしら?」

 無邪気なロミアの問いに、罪悪感に襲われ、思わず目をそらすマルティナ。
「ええ……とっても似合うわ、ロミア」
 逆にベロニカは、ロミアの姿から目をそらさずに答えた。

 彼女に嘘を伝える――それは自分の意見でもあったから。

 ユリと同じ考え方かはわからないが、彼女にキナイの「死」を伝えるのは、ショックが大きすぎるとベロニカは考えた。
 それなら嘘や曖昧に誤魔化して、長すぎる時の中で、恋心が風化すればいいと思ったのだ。
 人の感情は一定ではない。
 人魚も同様かはわからないが、愛する人がいない世界で生きていくつらさは、きっと人間も人魚も変わらない。

 キナイ・ユキが「幸せに生きて欲しい」と願ったように、ベロニカもロミアには生きてほしいと願う。

 生きて、新しい幸せを見つけて欲しいと――。
 例え、それが自分のエゴだとしても。

(どこかで見てるかしら、キナイ・ユキ……。あなたのベールを被って、ロミアはとっても幸せそうよ)

「それにしても、キナイったら。自分でベールを渡しにこないなんて、恥ずかしがりやにもほどがあるわ」

 そう腕を組み、口を尖らせるロミア。
 だが、すぐに表情を和らげて彼女たちに話す。

「マジメでお人よし、いつでも人のことばかり。…………でも、そんなキナイだから。私、好きになったのよ」

 種族の関係を越えて。きっと出逢ったのが"ロミア"と"キナイ"という二人だったからこそ、惹かれ合い――恋をした。

「きっと、遠い海で最後の漁をしてるのね。村のみんなに頼まれて、なかなか船を出せずにいるのね……」

 そう遠くを見ながら呟くロミアは、どこか切なく見えた。
 その宝石のような瞳が、今度はユリを見つめる。

「ねえ、ユリさんは恋をしたことがある?」
「……わかりません。私が知ってる恋は、小説の中の話なんです」

 でも、好きな人が、大切は人がこの世界からいなくなってしまう悲しみは分かると思うから。
 そして、生きて欲しいと願う気持ちも――。
 だからこそ、ユリはロミアに嘘をついた。
 恨まれても構わないと思った。

「ユリさんはきっと素敵な恋をするわ」
「え?」
「だって、こんなに優しいあなただもの。…キナイの言葉、伝えてくれてありがとう」

 そう微笑む彼女が、そんなことを思うはずないのに――。

「もし、好きな人が出来たら教えてくださいね。私は、ここにいるから」
「っ、ロミアさん……」
「エルシスさん、皆さんもありがとう!私は世界一幸せな人魚ね。約束どおり、海底王国にお連れします」

 ユリが何かに気づいて言う前に、ロミアは明るく皆を見渡しながら言った。
 ユリはロミアから『マーメイドハーブ』を受け取る。

「海にそびえる光の柱でそれを使えば、人魚たちがあなたの船を泡で包み、たちどころに未知なる世界へ導きましょう」

 続いてロミアは「エルシスさん、地図を見せてもらえるかしら」そうエルシスに言い、彼は慌てて地図を取り出した。

「ソルッチャ運河を抜け、内海の中心にそびえる光の柱でハーブを使ってください。不思議な形の岩場がその目印になりますわ」

 ロミアが指を動かせば、ナギムナー村に印を付けたように、ポゥ…とその場所に印が浮かび上がる。

「あの、ロミアさん……」

 ユリは口を開いたは良いが、なんて言っていいのか、自分が何を言いたいのか分からなかった。
 
「ユリさん。私のことは心配しないで。人魚は500年の時を生きます。いつまでだって、私はキナイを待ってるわ」

 愛する人を待つ時間は幸せなの――そのロミアの笑顔に、嘘はない。
 
「海底王国に着いたら、私は幸せだと女王さまによろしくお伝えください」
「ありがとう、ロミアさん……。女王さまに、必ず伝えます」

 最後にユリはロミアに「行ってきます」と告げると、ロミアは微笑み「行ってらっしゃい」彼女たちに手を振った。


 ――霧に包まれるなか、シルビア号は白の入り江を後にする。


「……ロミアさんは、もしかしたら嘘だと気づいていたのかも知れない……」

 見えなくなった入り江に向かって、懺悔するようにユリは言葉を吐き出した。
 嘘すら上手くつけない自分に、ちゃんとキナイ・ユキの言葉を彼女に伝えられただろうか。

「ロミアが本当に気づいていたかはわからないけど……。ユリがしたことは間違いではないわ。彼女が真実を知れば、もっと悪いことが起こる」

 マルティナは慰めるようにユリの肩にそっと触れる。

「生きるには心の支えが必要……。たとえそれがどんな形であっても」
「それが、キナイ・ユキの最後の望みでもあったのじゃ」

 ロウは賛同するように深く頷いた。

「僕も……僕が言うべきじゃないけど、これで良かったと思う」

 エルシスも……ユリに寄り添うように言った。

「僕なら、きっとたどり着けなかった結末だ。――ありがとう、ユリ」
「そんな……私は……」

 エルシスの言葉を素直に受け止めきれず、ユリは首を横に振る。

 本当にこの選択で良かったのかは、誰にも答えられない。
 だが、責任を一身に背負い、懸命に思いを伝えようとしたユリの姿勢は、絶対に間違いではないと全員言えた。
 
「……ロミアはずっと待ち続けるのかな。キナイ・ユキと同じように、ひとりぼっちでも……」
「もし、ロミアが嘘だと気づいても、きっと彼女なら待ち続けることを選んだと思うわ」

 何故ならその時間は、愛する人に想いを馳せることができるから――。

 ベロニカの誰に向けたものでもない問いにシルビアが答え、その彼の言葉を聞いてセーニャも口を開く。

「それも、愛の形の一つなのでしょうね。ロミアさまの幸せは、ロミアさま以外に決めることができませんから……」

 自分たちに出来ることは、ただ彼女の幸せを祈ることだ。

「……結局のところ、ロミアは真実を知りたかったかも知れないし、伝えていたら知りたくなかったと思うかも知れない。オレたちにそれを知るすべはないんだ」

 カミュは自分の考えを言ったあと、落ち込むユリを見ながら続ける。

「正解のない答えを、二人のためを思ってお前は出したんだろ?それを後悔するのは、あいつらにも失礼だと思うぜ」

 一聴した感じでは厳しく聞こえるも、彼女のことを思っての言葉だと、全員が分かった。
「……うん」
 それは、ユリ自身も。

 ユリはずっと考えていた。

 キナイ・ユキはさ迷える魂となって、あの場にいるのだろうか。
 だとしたら、バンデルフォン王国跡で見た少女のようにうっすらとでも見えるのではないのかと。
 そこから導き出された答えは、あれはキナイ・ユキの思念のようなものではないか。

「500年、生きる人魚ならきっとまた巡り逢える――」

 惹かれ合う二人なら、きっと。

「どういう意味だ……?」

 抽象的に言うユリに、カミュは怪訝に顔をしかめる。

「カミュ……魂はね。流れ、巡るんだよ――」

 命の大樹の元で、その時まで。何故かユリは、確信をもってそう言えた。

 ――どこか不思議な雰囲気を持つ彼女だったが、目の前にまっすぐ自分を見る目は、それ以上に何かを感じさせた。

 普通とは違う価値観の違いを見せつけられたような……。

(お前は、一体誰なんだ……?)

 それこそ、彼女は人魚でしたと言われれば納得できるのだが。

「でも……。やれることはまだ終わってない」

 カミュが思案から意識をユリに移すと、何やら意気込んでいる。

「やれることって……?」

 ベロニカがユリに聞いた。

「ナギムナー村に行って、キナイさんにどうなったかちゃんと伝えなくちゃ」

 約束のベールは渡したが、ロミアには真実を伝えなかった……と。(それに、キナイ・ユキの言葉も伝えたい。ちゃんと彼も、ロミアのことを愛していたって)

「だったら僕も付き合うよ。元々僕がやらなきゃいけないことだったし」

 エルシスの言葉に、ユリは「ありがとう」と笑顔を浮かべる。

 そこにいるのはいつもの彼女だ。

 今のはなんだったんだ。オレの幻か?とカミュはますます怪訝にユリを見る。

「二人とも、念のためデルカダールの追手には気を付けるのじゃぞ」
「ソルティアナ海岸で落ち合いましょう」
「ユリさま、エルシスさま。キナイさまをよろしくお願いします」
「キナイの誤解が解けるといいわね」

 二人はルーラでナギムナー村まで行って、皆とはソルティアナ海岸で合流するということになった。
 これからロミアの示した光の柱を目指し、内海に戻るので、船との合流地点には最適な場所だろう。

「ルーラ!」

 ユリが呪文を唱え、たちまち二人の姿は風のように消えた。

「さーて、アタシたちも気を取り直してソルティアナ海岸に向かわなきゃ。二人を待たせないように全力疾走よ、アリスちゃん!」
「話はずっと聞かせてもらいやした……。すでに進路はソルッチャ運河に、船は向かっておりやす……!」
「ちょっとアリスちゃん!マスクがぐちょぐちょよ!」
「皆さんの思い合う心にうるっと……」
「うるっとっていう量じゃないわね。操縦はアタシが代わるから、変えてらっしゃい」
「へ、へい!すいやせんっ」

 慌ただしい二人のやりとりに、空気が和らぐ。

 結局のところ、いつまでも重い空気はこのド派手な船に似合わないのだ。
 だが、それでいい。自分たちには立ち止まっている暇などないのだから――カミュは空を見上げて思う。

 風を受ける鮮やかな赤い帆は、彼らをその先へ連れて行ってくれるだろう。


- 91 -
*前次#