好奇心にささぐ

 昨晩はあまりよく眠れなかった。私は重たい瞼をこすりながら、眠気に引きずられるように樹庭の地下へと降りていった。実験室にたどり着いた私は、複雑な錬金術が施された扉の前に立ち、いつかの先生に手渡された合鍵を取り出す。いつものように鍵をさし込んだ。ふと、パルメニデ先生の言葉が脳裏をよぎる。
 ──アナクサゴラス殿のもとで学ぶのは程々にしておいた方がいい。
「痛……っ!」
 突如、手元に鋭い痛みが走った。針を刺すようなその痛みに、私は反射で手を離す。どうやら解錠に失敗したらしい。本来、この扉を開けるにはいくつかの手順をふむ必要があったが、私がそれをなかなか実行しなかったために術式に弾かれてしまったのだろう。これ、開けるのに失敗するとこうなるんだ。私はじんじんと熱を持つ指先を握りしめながら、光り輝く小さな水色の錬金陣が浮かぶ鍵穴を眺めた。しばらくそうしていると、実験室の扉がゆっくりと開き、先生が奥から姿を現す。
「何をしているのですか」
「すみません、ちょっと寝ぼけてて……」
 それを聞くなり、先生は呆れた目で私の赤くなった指先に目をやる。
「ひとまず中へ」
 さしっぱなしの鍵を抜いてから、彼はそう言って再び部屋へと戻る。お礼を述べた後、私も同様に橙色の照明が灯る室内へと足を踏み入れた。案の定、実験室は得体の知れない学術書やら錬金素材やらで派手に散らかっている。今になって思えば、私が初めて実験室を訪れたときは、あれで先生なりに片付けていたのだろう。
「私が言えたことではありませんが、生活に支障をきたさない程度の睡眠はとるべきです」
 そう言って彼は実験室の鍵をおもむろに差し出した。私は軽く頭を下げてそれを両手で受け取る。
「ごもっともですけど、本当にそれだけは先生に言われたくないですね」
 失礼は承知の上で、それでも私の口はお礼を述べるより先に口答えをした。今週、受講していたアナクサゴラス先生の授業はすべて休講だったし、私は先生の姿を実験室以外で目撃していないのだが……その期間、この人がまともな生活を送っていたとは到底思えない。
「手当てをします。そこに座りなさい」
「えっ、そこまでの傷じゃないので大丈夫ですよ!」
 先生はそこら辺にあった一つの箱椅子を指差した。私は慌ててその申し出を断る。
「私が練った錬金術の強度は私が一番よくわかっています。痛むのでしょう。大人しく言うことを聞きなさい」
 私は申し訳なく思いながらも、先生の言う通りに従った。棚の上から救急箱を取り出した彼は、椅子に座る私の前にしゃがみ込む。
「患部を」
「すみません……」
「謝罪は不要です。ただし、今後このような些細な過ちは繰り返さないように」
 はい、と私は静かに反省する。多忙なアナクサゴラス先生の時間を奪うのは、私とて本意ではなかった。
 よく見ると軽いやけどのようになっていた私の指先を、先生はそっと手に取る。それからおもむろに軟膏を取り出し、私の指に薄く塗り広げていった。カモミールの香りが鼻先に届く。言葉の強さとは裏腹に、その手つきはただただ優しかった。
 なんだかひどくうろめたい気持ちになりながら、私はぼうっと先生の黒い手袋の嵌められていない右手を観察する。白く骨ばった指先に嵌められた金属の指輪。その手の甲には赤い紋章が刻まれており、中央には得体の知れない赤い石が埋め込まれている。
 アナクサゴラスという人物は、自らの肉体さえも錬金術の素材とみなしている節があった。賢者の石とまではいかなくとも、それに類する何かであると私は予想している。外部の錬金陣との互換性も有しているかもしれない。なんて勝手な想像を膨らませつつ、その答えを聞く勇気は私にはまだなかった。……私は先生について深く知ってしまうことを恐れているのだろうか。
「何か、悩みごとでも?」
 先生が問いかけた。私は口ごもる。先生に関する悩みごとであれば、確かにあった。
「アナクサゴラス先生のことで悩んでいます」
「ほう……聞いてあげましょう」
 我ながら直球な自覚はあったが、先生はそれを特に気にする様子もなく話の続きを促した。患部には被覆材があてがわれる。
「もし、自分が追い求めていた真実の先に、禁忌があったとしたら、先生はどうしますか?」
 ガーゼを巻く手が、わずかに止まった。
「その問いが私にどう関係しているのかは聞かないでおいてあげましょう。答えは明白です──たとえそれが禁忌であろうと、神への冒涜であろうと、私はいついかなる時も真実を追求します」
 先生は顔を上げると、私の目をまっすぐ見据える。その言葉に迷いはなかった。
「先生ならきっとそう答えるだろうと思っていました」
「であれば、先ほどの問いには一体何の意味が?」
「もう一つ、質問してもいいでしょうか」
「どうぞ」
 無意識のうちに手に力が入った。右の指が痛む。慌てて掌を開いてから、少し迷って、私は長らく胸の奥に留めていた疑問を口にした。
「先生にとって、真実より大切なものはありますか?」
 彼は目を伏せて、しばし沈黙した。
「……つまり貴方は、私が真実のためにどこまで犠牲にできる人間なのか、聞きたいのでしょう?」
 そうなるのだろうか。私は曖昧に頷いた。
 錬金術は扱いが難しい、と以前ヒアンシーが言っていた。私も同意見だ。錬金術の難しさは単なる技術的な問題にとどまらない。錬金術における最大の難関は、術者自身の心にある。等価交換の原則に倫理や善悪は存在しない。どんなものを差し出そうと価値が等しければ術式は成立する。何を差し出すのか、何を差し出してはならないのか。術者の精神が問われるその瞬間にこそ、錬金術の難しさが顕著に現れるのではないか。
 ──アナクサゴラスという人物は、真実のために何を犠牲にする人なのだろう?
「学生の質問は大胆であればあるほど好ましい。イクトゥス、やはり貴方には錬金術師としての才があるようですね」
「……私は今、からかわれていますか?」
「そう聞こえましたか?」
 彼は薄く微笑み、悪びれることなく言った。
「感心したのですよ。貴方は錬金術の本質をよく理解している」
「セレサスの学術論文一つ、まともに読み切れないのに?」
「おや、気にしていたのですね」
 白々しい先生の物言いに私は腹を立てた。話が逸れるが、近頃私はアナクサゴラス先生のすすめで「霊魂物理学」の授業を受講し始めた──はいいものの、学術書の要約レポートを何度もやり直すハメになり、いまだ補講地獄から抜け出せないでいた。先ほどの発言は、以前先生から言われた言葉をそっくりそのまま真似たものである。
「さて、こんなものでしょうか」
 そう言って、先生はガーゼを結び終えた。
「十分です。ありがとうございます」
 彼は立ち上がる。私の手を包んでいた指先が静かに離れた。カモミールの香りが、ほのかに残っている。
「……では、聞かれたからには答えてさしあげましょう」
 先生は救急箱を片付けながら告げた。その言葉に、私は顔を上げる。
「結論から述べます。真実より大切なものは、ありません」
 胸の奥に、冷たいざわめきが広がった。
「授業でも幾度となく教えたはずです。万物はすべて研究対象である、と。したがって、その対象は魂であろうと神であろうと、例外ではありません。真理はすでに私の手の中にあります。偽りに満ちているこの世界でただ一人、私だけが真実なのですよ」
 それは、一見すれば暴論とも言えた。
「先生は、何を根拠に、それが真理たり得ると信じていられるのですか?」
「いい質問です、イクトゥス。私はこの世のすべてを疑っています。人類、生命、歴史、常識、信仰……神の魂ですらも。ゆえに、私は真実を信じているのです」
「すべてを、疑う……」
 それは口で言うほど容易なことではないように思えた。現に、私はジョーリアを疑うことなどできない。
「いかがでしょう。貴方の疑問は、少しは解消されましたか?」
 彼は首を傾げた。
 少なくとも先生がヒュポクリテスと呼ばれる所以については理解できた。聞けば聞くほど、彼が一般常識から逸脱していることは火を見るより明らかだ。普通の人間は神に対して疑問を抱いたり、神を研究対象と捉えることはないだろう。かと言って、彼に良心や共感力が特別欠如しているとも思えなかった。私は丁寧にガーゼの巻かれた指に視線を落とす。
 ──本当にそれらが欠落している人間は、もっとずっとおぞましくて、空虚で……。
 そういった者とアナクサゴラス先生では、一体何が違うのだろうか。私は思った。ああ、もし先生が完全な狂人であったなら、どれほど楽だっただろうか。私はただ、彼を恐れさえすればよかった。しかし、知れば知るほど、それを否定してしまう自分がいる。
 アナクサゴラスという人物は、今や私にとって、時に冷淡な学者であり、時に博識な師であり、時に神を冒涜する異端者であり──そして、一人の人間だった。先生の本質は最初から何一つ変わっていない。変わったのは先生ではなく、先生を見つめる私のほうなのかもしれなかった。
「いいえ。ですが、恥ずかしながら……悩みの根本は先生にではなく私自身にあったのだと、今ようやくわかりました」
「そう考えるに至った経緯を聞きましょう」
 私は頬をかく。
「結局のところ、私の本質はどこまでも身勝手な好奇心に由来しているのかもしれません」
「今更でしょう。恥じることはありません。研究に疑念はつきものです。疑い、問い、批評する。その繰り返しこそが、思想を変革する鍵となるのですから」
 先生は私を見てわずかに口元を緩めた。
「そして、貴方のその好奇心が、私に対してのみ例外であるはずもない」
 胸の内を見透かされたような気がして、私は思わず視線を逸らす。
「……烏滸がましいことに、あまり否定できません」
「つまり、貴方は今── 私という人間を判断するための材料を探している」
 先生は考えるようにしばし沈黙した後、自身の黒い眼帯に触れた。
「この身はとうに過ちを犯しました」
「それは……どういう意味ですか?」
 先生は答えるより先に、左目を覆う厚い眼帯の端に指をかける。
「悩める弟子に師として一つ、課題を授けましょう」
 やがて、その指先はゆっくりと眼帯を取り外した。隠されていた秘密──否、真実が露わになる。私は息を呑んだ。目の前に晒されたそれから、目を離せない。
「イクトゥス」
 彼のひどく穏やかな声が私の名を口にした。
「私の弟子である貴方なら、これがどういった過去と意味を持つのか……きっと理解できるはずです。思う存分、私を研究してください」
 先生の眼帯の下──かつて左目が存在していたであろうその場所には、空虚な小宇宙が広がっていた。

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