浅はかなままではいられなかった
「暗黒の潮の影響で、また一つ都市国家が滅んだらしい」
友愛の館に隣接する薄暗い作業室にて、イクトゥスは生徒たちが交わすとある会話を耳にした。
「またか……今度はどこがやられたんだ?」
「ミリオスだそうだよ」
暗黒の潮──それはオンパロス全域で不規則的に確認されている大規模な災害の名だった。暗黒の潮は紛争紀頃から突如発生したと言われており、その規模は日を追うごとに悪化している。また、暗黒の潮に襲われた都市国家のほとんどで、生き残った者はごく僅かだと聞いた。暗黒の潮の侵蝕の影響を受けた者はたちまち凶暴化し、理性を失った怪物へと成り下がる。一部のタイタンもこれにより人類に敵意を向けるようになったと言われていた。
陽の光が入ることのない仄暗い作業室を、ジョーリアの活火がぼんやりと照らす。私は友愛の館の古い書物を参考に、採取されたばかりの鉱物の鑑定を行いながら自分の故郷──アカトゥスとそこに住む弟の存在を思い浮かべた。
アカトゥスとは、紛争紀に設立した大地のタイタン・ジョーリアを信仰する都市国家である。そして私もまたアカトゥス人の一人として例に漏れず、ジョーリアを信仰していた。
弟とは定期的に手紙を送り合っている。直近の手紙では、私の身を案じる言葉に加えて、私が今年のジョーリア神秘祭に参加するのかどうかとの文言が記されていた。彼は山の民のアントラクスと二人、元気に暮らしているとのこと。とは言え、平和な日々が永遠に続く保障はどこにもない。
「実は俺、オクヘイマに移住しようかと考えている」
「なんだって?」
「もうずっと長い間、いつ故郷が襲われるか不安で、おちおち研究もできないんだよ」
「そうだったのか……ま、でもその方がいいだろうな」
「君は?」
「俺は……どうしても故郷を見捨てることはできない」
「……そうか」
──アカトゥスは、無事だろうか。
積まれた鉱石の山から一つ、荒削りな琥珀色の石がコロンと音を立てて転げ落ちた。気付けば私のルーペを持つ手は下がっており、琥珀の石が着地した先には、ほとんど記録が進んでいないノートが開かれている。いけない、集中しないと。
そこへ、一つの足音が私の近くで留まった。
「やあ、イクトゥス。久しぶりだな」
「……パルメニデ先生!?」
私は思わず大きな声で彼を振り返る。静かに作業室に留まっていた人たちが、こちらをやや咎めるように見やった。私は慌てて口元をおさえる。パルメニデ先生はそんな私を見て苦笑した。彼、パルメニデ先生は修辞学を専門とするアカトゥス出身の教師であり、私をここ──神悟の樹庭に推薦してくれた恩師でもあった。私の家族であるアントラクスとも面識がある。しかし、パルメニデ先生は樹庭の卒業生とは言っても、神悟の樹庭直属の学者ではなかったと記憶しているが、一体どうしてここに。
「まさかパルメニデ先生と樹庭で会うことになるとは思ってもみませんでした」
「少し君を驚かせたかったんだ。今日は同じ修辞学の友人と食事の約束があってね。近くに寄ったし、せっかくだから君の様子を見れないかと探して回っていた。ちなみに、君は今なにをしているんだい?」
「とっても驚きました。そうだったんですね。会えて嬉しいです。今は先月採取されたばかりの鉱石鑑定の依頼を片付けていました。時々、山羊学派の学者に向けてこういった仕事の依頼がくるんです」
ほうほう、と彼は興味深そうに記録をしばし覗き込むなり、渋い顔を浮かべて肩をすくめた。
「私は生憎と地質学の知識に乏しい。君が学者として立派に育ったことだけは、この目でよく分かったよ」
それは暗に、これ以上話を深める気はないということを告げていた。当然だ。私が学びたい分野はパルメニデ先生の専門外だったし、何よりアカトゥスで学びの場が事足りたのなら、私はわざわざ神悟の樹庭に足を踏み入れることもなかっただろうから。
作業室は話すには少々目立つため、私たちは場所を変えることにした。大地獣に会いたい──というパルメニデ先生の要望のもと、私は彼を山羊学派が管理する小さな庭園へと案内した。オクヘイマにある「生命の花園」や「大地獣工房」にはやや劣るが、この庭園では研究の対象にもなり得る様々な生物が丁重に管理されている。模擬太陽が一面に生い茂る青い草木を照らすこの庭園は、私のお気に入りの場所の一つだった。また余談だが、ジョーリアを信仰する人はほとんどみな、大地獣と山の民を敬愛している。
「そういえば、二人が君のことを案じていた」
パルメニデ先生がいう二人とは十中八九、私の弟とアントラクスのことだろう。心当たりはあった。ここ最近研究があまりに忙しかったため、なかなか手紙の返事が送れていなかったのだ。私は赤土を頬張る大地獣を眺めながら、彼に尋ねる。
「二人は元気ですか?」
「ああ。まだ少し気は早いが、近々ジョーリア神秘祭があるからな。二人だけじゃなく、アカトゥスは日々活気に溢れているよ」
「それはよかった……近いうちにまた手紙を送るって、もし二人に会ったときは伝えておいてくれませんか?」
「もちろんさ」
私はほっと息をついた。もう長い間アカトゥスには帰っていないが、二人が無事にやっているのならば何よりだった。ご機嫌な顔でうぉん、と鳴いた大地獣と目が合う。私はその子に笑い返しながら、心の中でアカトゥスの平穏を祈った──ジョーリアのご加護があらんことを。
「その、一つ聞いていいだろうか?」
弁論を得意とするパルメニデ先生には珍しく、随分と口ごもった様子で彼は私に尋ねた。私はそれを不思議に思いながらも頷く。
「風の噂で聞いたんだが……君がアナクサゴラスの弟子になったというのは、本当か?」
私は目を丸くした。さすがは修辞学のパルメニデ先生。耳が早い。
「本当です。よく知ってますね」
「真実だったか……」
真実だと、何かまずいことでもあるのだろうか。私は項垂れる彼の様子に疑問を感じる。
「君が知種学派に興味があっただなんて知らなかった」
私は少し悩んで、それを否定した。
「私は今も昔もずっと山羊学派ですよ。偶然にも研究テーマが一致したので、今は知種学派のアナクサゴラス先生にお世話になっているだけです。それと確かに先生は知種学派ですが、山羊学派の分野においても知識は豊富なので、何も心配ありません」
私の話を聞いたパルメニデ先生はなんとも言えない顔で唸り、それから意を決した様子で口を開いた。
「その、私も一人の学者として、アナクサゴラス殿のことは大変尊敬している。彼の知識量と研究成果は確かに偉大なものだ。間違いない。ただ君、アナクサゴラス殿のもう一つの呼び名を知っているか?」
「はい。華やかな服の大地獣、ですよね」
彼は文字通り、頭を抱えた。
「違う。違うんだよ、イクトゥス。彼は──ヒュポクリテスと呼ばれている。この意味がわかるかい」
「大演者……?」
「そうだ。彼は黄金裔でありながら、火を追う旅に反対している。しかも、神の存在を否定しながら!」
パルメニデ先生は必死に訴える。
「黄金裔、アナクサゴラスは神への冒涜──禁忌を犯すことすらも躊躇わない。イクトゥス、君は……ここに禁忌を学ぶために訪れたわけじゃないだろう?」
私は何も言えなかった。私は禁忌を犯すために神悟の樹庭に学びにきたわけではない。それは事実だ。でも錬金術の学びを深めていった先が、仮に結果として禁忌に触れるものだった場合は、どうしたらよいのだろう。その先を知りたくて学びたくて仕方がないのに、それが世間にとってダメなものだったとき、私はそのとき本当にその好奇心を手放せるのだろうか。いつかの言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。
──イクトゥス、お前は好奇心に身を滅ぼさないようにしなさい。
「悪いことは言わない。アナクサゴラス殿のもとで学ぶのは程々にしておいた方がいい。特に、君は」
彼の言うことはおそらく正しかった。顔を曇らせるばかりの私に、パルメニデ先生は焦りを隠さない。
「君には普通の幸せを手に入れて欲しいんだ。きっと二人も同じ気持ちだろう。みな、君を信じている」
「それはよくわかっているつもりです」
「イクトゥス。君が、君の父上のように道を踏み外さないことを祈るばかりだ」
私はその言葉を、ただ呆然と聞いた。
「すまない。研究の邪魔をしてしまった。私はそろそろ行くことにする。ありがとう……君の顔を見れてよかった」
その言葉に私自身なんと返したのかは、あまりよく覚えていない。ただ、パルメニデ先生が去ってからもしばらくの間、私はその場を動かず庭園の草原に座り込んでぼうっと景色を眺めたのだった。