等価交換のその先で

 先生はなぜ教師の道を選んだのだろうか。私は大地獣を彷彿とさせる華やかなマントを翻しながら教壇に立つアナクサゴラス先生の姿を眺めつつ、鞄の中に仕舞われた推薦状の存在を思い返した。私はいまだそれに自分の名を記せないでいる。
「薬、金、血、肉体、賢者の石、生命はたまた──魂」
 講義室の黒い大きな石板に、アナクサゴラス先生は白いチョークを軽快に走らせた。
「これらは錬金術の代表的な概念であり、人々の根源的な願いです。夢物語ともされる一方で、学者の派閥や信仰によっては禁忌、あるいは神への冒涜とも捉えられかねない最上位の理論です。いかなる学者であろうと、むやみやたらに扱えるものでは決してありません」
 今まさに私が受けているのは、錬金術の専門分野にあたる「高度錬金素材特殊研究」という授業である。この授業はその名の通りやや高レベルであり、錬金術における基礎的な領域をある程度修了している者だけが受講を許可されていた。そのため、受講生はかなり限られており、私を含め大体は錬金術分野で一度は見たことのある顔ぶれが揃っている。学派は偏っており、やはり印象としては知種学派だったり礼拝学派だったりが多いだろうか。ちなみに、私は山羊学派である。
「錬金術の原則は、等価交換です。たとえどれほど高度な概念を取り扱った錬金術であろうと、その原則は揺らぎません。材料の価値は高すぎても、低すぎてもいけません。材料の真価を見極めることが重要です。しつこいようですが、錬金術において材料に一切の妥協は許されません」
 先生の授業は、いつどんなときも毅然としている。錬金術を取り扱う先生は何人かいるが、その中でもアナクサゴラス先生はいい意味でも、残念ながら悪い意味でも突出していると私は感じていた。これはあくまでも褒め言葉である。なぜなら先生はまさに人によっては禁忌、そしてあるいは神への冒涜ともされる魂への渇望をなにひとつ隠さない奇才かつ変人の代表格だった。
 ──なんて、そんな失礼なことを考えていた矢先。
「イクトゥス」
 不意に、先生の赤い瞳孔がこちらを捉えた。私は肩をこわばらせる。心の声が聞こえていたのだろうか。いやそんな、まさか。
「はい」
「仮に禁忌とも捉えられる概念が、すべて錬金術でつくり上げることが可能であるとするなら、貴方はなにをつくりますか?」
 生徒の視線が、いくつか私を捉える。先生の前で嘘やでまかせは通用しない。神悟の樹庭の生徒にとって、それは周知の事実であった。
「私は──生命をつくるために、肉体をつくります」
「ほう、貴方は肉体と生命を同一視しているのですか」
「と言うよりは、あくまで錬金術および人工的な範疇で再現可能になるのは肉体だけである、と私は考えます」
「なるほど。では、何を等価交換に?」
「──対象となる生命の遺体です」
 先生の瞳がこちらをじっと覗き込む。慌てて、私は言い訳がましく補足した。
「も、もちろん、仮の話ですが」
「イクトゥス。貴方はそれが本当に等価交換の原則に従っていると?」
 ああ、やっぱりアナクサゴラス先生からは逃げられない、のかも。
「はい」
「生命に宿っていたはずの魂はどう再現するのでしょうか。そもそも、肉体の機能は果たして元に戻りますか。そしてそれを修復するためにかかるエネルギーは? それらは換算しなくてもよいのでしょうか」
 始まった。きっと私以外の生徒もみな、心の声を揃えたことだろう。人によってはここでコテンパンにされたり、議論が白熱しすぎて昏光の庭に運ばれる生徒もいる。どちらにせよ、明るい未来はない。いくらなんでもこんなことでヒアンシーのお世話にはなりたくなかった。ならばここで何を言っても、結果は同じか。
 私は裁きを待つ罪人のような心地で、自分の考えを打ち明けた。
「……魂の存在を、私は否定しています」
 教室の空気が、また少し揺らいだ。先生の視線は変わらず私から離されることはない。十分に理解しているつもりだった。この言葉をかのアナクサゴラスの前で口にすることが、どれほど身の程知らずなのか。そんなことわかってる。だからこそ、私は知種学派には属していないし、どうして私の存在が彼の目に止まったのかも、いくら考えようとわからないのだ。私はつい、先生の視線から目を逸らす。
「ふむ、面白い」
 わずかに先生の口角が上がった……気がした。遠くで鐘が鳴る音がする。授業の終了の合図だった。先生は姿勢を正し、前に向き直る。どうやら私はぎりぎり助かったらしい。
「是非ともこのまま議論を深めていきたいところでしたが、残念ながら時間のようです。では皆さん、等価交換にふさわしい材料を見極める審美眼を養うことを日々心がけてください。万物はすべて研究対象です。以上、これにて本日の授業を終了します。質問のある方は? ──いないようですね。よろしい。また次の講義でお会いしましょう」
 私は息をつく。アナクサゴラス先生の講義は確かに有益だ。しかし、それでも私は彼が恐れ多いし、単純に少し怖いし、自分が彼の主張と相反する思想を持っている自覚はあるため、あまり積極的に近寄りたくないというのが本音だった。そして何より、私には彼の元で錬金術を学ぶための覚悟がまだ定まっていない。そんなネガティブな思考に苛まれているうちに、気づけば教室はほとんど空っぽになる。
「イクトゥス」
 先生が私を呼び止めた。
「話があります」

prev   ▽   next