予定調和にはまだ早い

 訂正しよう。私があのアナクサゴラス先生から逃げ切れるはずがなかった。先生を前にした私は緊張した面持ちで、かつ慌てふためきながら白紙の推薦状をおもむろに取り出す。その様子に先生はやれやれ、といったようにかぶりをふった。
「待ちなさい。そう結論は急がなくて結構です。すぐに決断を下す必要はありませんが、ひとまず落ち着いてお互いへの質疑応答の時間を設けるためにも、私の実験室に案内しましょう」
「実験室、ですか」
「ええ。本来は研究室とも言います」
 研究室もとい実験室とは、もしかしなくてもあのよく爆発すると学生の間で噂の地下室のことだろうか。助手のヒアンシー曰く、あまりあの部屋に入ったことのある人間はいないと聞いている。でも先生本人が入ってもいいというのなら、おそらく大丈夫なのだろう。私は雛鳥のように彼の行き先について行った。
「それにしても」
 不意に先生が口を開く。
「なんですか?」
「貴方からまったくと言っていいほどに音沙汰がなかったので、てっきりあれは破り捨てられたのかとばかり」
「えっ」
「冗談です。とは言え、ヒアシンシアにそれとなく貴方の様子は聞きましたが」
 私ってそんなことをするような人間に見えたのだろうか。どうやら随分と待たせてしまっていたらしい。失礼なことをしてしまったと心の中で反省した。
「随分と思い悩ませたようですね」
「い、いえそんな」
「建前は結構。しかし、それほど悩むなら私に直接相談すれば手っ取り早いものを」
 確かにそうなのかもしれないが、送られた本人を前にして頭を抱え悩むのもまた失礼な気がしてならない。私は彼の発言に対し、曖昧に頷いた。
「まあ、いいでしょう。着きましたよ」
 たどり着いたのは、根石の間にひっそりと佇む奥まった部屋の前だった。部屋の錠前の部分には、随分と厳重なロックのようなものがかかっている。どうやら錬金術の応用のようだ。一目見ただけで仕組みが理解できるほど容易ではない、高度で複雑な術式だった。もはや封印とも言えるほどに何重にもかけられた鍵を、先生はいとも簡単に解いてしまうと、どうぞ、と扉を開けて私に中へ入るよう促す。
「失礼します」
 中へ入ると、オレンジ色の照明に照らされた広い部屋が広がっていた。壁には本棚や薬棚、金庫が敷き詰められており、地面には錬金陣の図案と思わしきものが描かれた模造紙がいくつか散らばっている。奥には小さな温室らしきものもあり、少し、いやかなり散らかってはいるものの数多ある材料や素材はそれなりに丁重に管理されているように思えた。
「イクトゥス。狭いですが、どうぞこちらへ。足元には気をつけてください」
「ありがとうございます」
 床のものを踏まないように気をつけながら、先生に案内された部屋の奥の小さな木製の椅子に腰掛けた。好奇心の赴くままに部屋を見渡していると、いつのまにかポットとティーカップを用意していた先生が向かいの椅子に腰掛ける。
「すみません」
「遠慮は不要です。砂糖とミルクは?」
「じゃあ、一つずつお願いします」
 静まり返った実験室に、彼が紅茶をカップに注ぎ、ミルクと砂糖をスプーンで混ぜ入れる音だけが響く。
「どうぞ」
「……いただきます」
 実験室の端っこでアナクサゴラス先生とこうして向かい合ってお茶を飲むなんて。つい数日前の私では思いつきもしなかっただろうな。そんなどうでもいいことしか思いつかないくらいには、緊張とチグハグなシチュエーションへの混乱で私の頭はまともに回っていなかった。
「貴方が私に対して、少なからず苦手意識を抱いていることは重々承知しています」
「えっ」
 ちゃぽん、と今ちょうど口をつけようとしていた紅茶の水面が揺れた。
「違いましたか」
 間違ってはいない。突然な問いかけに、私はうまく受け答えができなかった。彼は目を伏せ紅茶を一口飲んでから、カップをソーサーに戻す。
「先ほどの授業の際にも思いましたが、どうやら貴方には弁論の力が少々不足しているようです。素直さは美点ですが、学者として生きるには少々苦労しますよ」
「しょ、精進します」
 私の馬鹿。それを認めてしまえば、もう先生のことが苦手ですと面と向かって言っているようなものではないか。いくら脳内で反省会をしたところで、後の祭りだった。それにしても、アナクサゴラス先生は私が先生自身を苦手としていると知った上で推薦状を送ったのだろうか。私は先生の鋭い観察眼に感心しながらも、疑問に思う。
「とって食うわけじゃありません。聞きたいことがあるなら聞きなさい」
「……私ってそんなにわかりやすいでしょうか」
「貴方の考えていることは手に取るようにわかります」
 敵わない。私はすべてを諦めた。
「なぜ、先生は私を推薦してくださったのでしょうか」
「お互いの意見を否定し合うためです」
 やっぱりアナイクス先生の研究室に入るのはやめておこうかな……。そう思ってしまうのには十分なくらい、単純明快で、かつ恐ろしい提案だった。
「貴方が過去に提出した学術論文をすべて読みました」
 私は怯える。すべてを……?
「貴方はどうやら錬金術、あるいは生命の本質に興味があるようですね。しかし知種学派は選ばず、山羊学派を選択した。なぜでしょうか。知種学派は生命の本質への追求を理念とし、山羊学派は自然への回帰の主張を理念としていたはずです」
「私の生命の本質への思想が、自然への回帰へ準ずるものだからです」
「魂の否定、ですね」
「はい。私は生命の本質を、魂ではなく、自然からの授かりものであると考えています」
「人の魂とは肉体から成り、本能にもとづきながら、やがて数多の『記憶』によって育まれる唯一のものである──でしたか?」
 それは私が論文に記したとある一説だった。
 人間もまた単なる生命のひとつであり、生命はみな平等にオンパロスを構成するひとつに過ぎない。人間の自我とは、他者や大地と触れることで育っていくものである。そこには意味も意図も価値もなにもない。ただそこにある真実、そして記憶として、残るのみである。命とはもとより取るに足らないものであり、生命は常に自然へ回帰しているのだとした。魂よりも先に、肉体という器が存在している。ゆえに魂も自我も、生命の第一原因にはなり得ない。
「はい。器がない限り、人は存在できません。でも先生の考えは、違いますよね……」
「ええ。魂がない限り、人は存在できません。確かに私たちは相反しています。なるほど。貴方が気にしているのはそこですね、イクトゥス」
 先生が納得したように頷いた。
「確かに貴方は私の意見を真っ向から否定している。ですがそれは貴方なりの思想と理論に基づいたものでしょう。私はそれを一度も否定したことはないはずです」
 確かに、否定されたことはない。
「でもさっき否定し合うって」
「私の話を遮らないでください」
「ひえっ、すみません」
 ううッ、こわい。
「人の話は最後まで聞きなさい。お互いの意見・主張・言説をすべて実現し合えばいいということです。ただしそれが先ほど言った通り、結果的に互いの言説を否定し合うことにはなりますが」
「なるほど……?」
「貴方の言説が証明されなければ私の言説が正しい可能性が見出せますし、反対に、私の言説が証明されなければ貴方の言説が正しい可能性が裏付けられます。どうです? 悪い考えではないと思いますが」
 アナクサゴラス先生は少し笑って、首を傾げた。

prev   ▽   next