天使は見た
「ついにクトゥたんが、弟子に?」
とある講義終わりのことだった。
「ええ、つい先日から。イクトゥスと貴方はすでに友人であると認識しています。簡単にで構いませんので、事務作業について説明をしてあげてください。ただ、彼女には主に私の実験と研究を手伝ってもらうつもりでいます」
「もちろんです。任せてください」
ヒアンシーは頷いた。なんとイクトゥスは無事、アナイクスの弟子入りを果たしたらしい。こうしてアナイクスの口から直接報告を受け、ヒアンシーはそれを嬉しく思いつつ、以前の彼女の様子を思い出してどこか心配にも思った。
「どうりで最近、あまり顔を合わせないと思いました」
「ひとまず彼女には錬金術の実践の基礎を叩き込んでいます。演習が終わるまでのしばらくの間は、私の研究室にこもっていることが多いでしょうね」
ヒアンシーは可哀想に、と首を横に振った。ヒアンシーはアナイクスの助手になってまだそう長くはないが、それでも就任当初から今日までに、中々な無茶振りを要求された記憶が何度かある。きっと彼女も今頃、とてつもない多忙に追われているのだろう。ヒアンシーとしては、あわよくば彼女もアナイクスの弟子になってくれたらいいと思っていたが、決して大変な思いをしてほしいわけではなかった。
「絶対にアナイクス先生のような無茶はさせないようにお願いしますよ。徹夜とか、食事抜き、床で寝るなんてもってのほかですからね!」
「さすがの私も、それを他人に強制することはありませんよ」
本当にそうならいいのだが。アナイクスは決して優しい教師に分類される人ではない。そもそも知種学派は分野が特殊であるため、アナイクスのもとで授業を受ける学生は多くとも、弟子入りとなると、ヒアンシーの知る限りそう多くはなかった。
「それにしても、少し意外です」
ヒアンシーは呟いた。
「ふむ。それは、彼女が私を選んだことが?」
その言い方はなんだか語弊を生むのではないか……とヒアンシーは思わなくもなかったが、いつもより穏やかなアナイクスの機嫌を損ねたくはなかったため、大人しく口を閉じた。
「アナイクス先生のもとで学ぶことを、クトゥたんは随分と躊躇っていたようなので」
「そのようですね」
「確かに、クトゥたんは錬金術が大好きです。でも彼女は大地のタイタン——ジョーリアを信仰していたと記憶していますし、最終的に山羊学派から離れることはないのではと感じていました」
ヒアンシーの発言に、アナイクスが興味を示す。
「ほう? イクトゥスがジョーリアを信仰しているとは初耳でした。……しかしそれにしては、タイタンあるいは黄金裔に対する盲目的な信仰があまり感じられませんね」
「彼女は昔からそうなんです」
ふむ、とアナイクスが思案する。
「とは言え、彼女が私に対して変なためらいや遠慮のようなものを見せることが多いのもまた事実です。礼儀正しいのは良いことですが、やや過剰だ。あれではイクトゥスの気が休まらないでしょうに」
「アナイクス先生は自分がその……彼女に嫌われている、とは考えないのですか?」
あまりに他人事すぎるその物言いに、ヒアンシーはため息をつく。アナイクスがじとりとした目でヒアンシーに視線を寄越した。
「ヒアシンシア。それは助言のつもりですか? 彼女に苦手意識を持たれていることは理解しているつもりです。それと、私のことはアナクサゴラスと呼びなさい」
「先生がクトゥたんの弱みを握って脅したり、いじめたりしたわけではないですよね?」
「人聞きが悪いですね。誓って、していません。貴方は私をなんだと思っているのですか」
アナイクスはきっぱりと否定する。
「私のもとに弟子入りすることも、彼女自身が決断したことです」
アナイクスはヒアンシーに、イクトゥスとアナイクス本人の名が記されたいつかの推薦状を手渡した。
「彼女もまた、真実を追い求める学者のひとりということですよ」
「クトゥたんが優秀であることは、私ももちろん知っていますが……」
ヒアンシーにとってイクトゥスは、良き友人であり、錬金術を得意とする普通の女の子だった。樹庭で錬金術を専門とする教師はアナイクス以外にも存在する。彼女がそれを知らなかったとは思えない。ゆえに、ヒアンシーの勘が告げる。なんとなく、そんな単純な理由じゃない気がする——と。
「そこまで様子が気になるというのなら、これ以上は本人に聞いた方が早いでしょう──ああ、噂をすればですね」
三度のノックの後、いつもより疲れた顔をしたイクトゥスが講義室の扉を開けた。
「失礼します」
彼女はヒアンシーの姿を目に入れた瞬間、少し驚いたように瞳を丸くさせ、ふわりと微笑む。しかしヒアンシーの存在に気を取られてはいるものの、用件自体はアナイクスにあるらしかった。
「あの、頼まれていた錬金陣が描き終わったので、確認お願いできますか?」
「いいでしょう。ではヒアンシー、あとはよろしくお願いします」
「わかりました」
「ヒアンシー、またね」
「はい! また落ち着いたらお話聞かせてくださいね」
イクトゥスはそれに笑って頷いてからひらひらと手を振って、アナイクスのあとを慌てて追いかけて行った。やっぱり、少し心配だ。双方にそれなりの付き合いがある人間として、ヒアンシーはなるべく彼女と先生がいい関係を築ければいいと願った。