水槽を食べる小魚

「本日は基礎錬金薬の実習を行ってもらいます。この錬金薬はこれから先、より高度な錬金を行う際にも材料として多用するので、質の安定したものが作れるように努めてください」
 以上が、アナクサゴラス先生が今朝の私に言い渡した課題だった。したがって私は今、先生お手製の白衣を身に纏いながら実験室でひとり、黙々と変な色の薬草をすり潰している。彼は授業のため席を外していた。
 こういった単純作業は、繰り返しているうちについ頭が退屈して余計なことを考えてしまう──私が先生のもとで錬金術を学ぶことを決心して、はや数ヶ月。瞬く間に過ぎていった怒涛の日々を、私は思い返していた。
 言うまでもないが、想像に違わず先生は驚くほどに博識だった。錬金術を上手く扱うためには、結局のところ幅広い分野に精通していなければならない。彼は霊魂物理学はもちろんのこと、生物学、修辞学、哲学、化学、時にはオンパロスでは禁忌とされる天文学までにも及ぶ、膨大な知識を蓄えていた。それでいて柔軟な思考力も兼ね備えているのだから恐ろしい。頭の回転も早く、おまけに集中力も常軌を逸していた。しかしながら、時にその才能が悪い方向へ傾くこともある。
 あれは、まだ弟子になっておよそ一週間──ようやく実験室のロックを解錠するのにも慣れてきた頃のことだった。
「失礼しま……って、せ、先生!?」
 部屋の床のど真ん中で、アナクサゴラス先生が倒れていたのである。慌てて駆け寄ってみると、彼の近くには何枚にも重なった錬金陣の図案が散らばっていた。私はハッとする。
「ま、まさか実験に失敗して……」
 と、とりあえず、誰かに報告を……そうだ、ヒアンシー。ヒアンシーを呼ばなければ!
「アナクサゴラス先生、死なないでください!」
 そう言って、先生の肩を激しく揺すったときだった。
「人を勝手に殺さないでください」
「うわぁ!」
 突然、先生が生き返ったのである。……まぁ、最初から別に死んではいなかったのだが。彼は何事もなかったかのように無言で起き上がるなり、凝り固まった身体をほぐすかのごとく、首をゆっくりと回した。先生の目の下には深い隈が刻まれている。そこでふと、ヒアンシーが先生に対してよくこぼしていた小言が脳裏をよぎった。
「先生はよく実験に夢中になると、食べたり眠ったりすることを忘れてしまうのですが、何度注意しても直してくれないので本当に大変なんです」
 その意味が、今になってわかる。途端に少し気恥ずかしくなった私は、そそくさと立ち上がって、話を逸らすように今日すべきことを尋ねたのだった。結果的にあれはただの三徹目だったらしいが、第一発見者の心臓に悪いため、できる限りベッドで寝てほしいものである。今では私もすっかり慣れて、ひとつも驚かなくなってしまったけれど。
 このように昼夜問わず寝食を忘れ、日々研究のことばかりを考えて実験と爆発を繰り返す。それがこれまで私が見てきた、先生のおおよそのルーティンだった。
 ──そう、爆発である。
「イクトゥス。貴方には特別にこれを差し上げます」
「ありがとうございます。これは……?」
「私が作った白衣とゴーグルです。錬金術を行うときは必ずつけるように。今日はひとまず、見学も兼ねて私の研究の補助をしていただきます」
 先日、私はアナクサゴラス先生から二つの装備品を手渡された。一つは白衣。今も使用している防水および防護服の役割も兼ねた、大変便利で丈夫なシロモノだ。もう一つはゴーグル。爆発が起こった時に目を防護するためのもので、めったなことでは変形しない希少なオリハルコンが使用されている。しかしながら、先生本人がこれらを付けているところは見たことがなかった。
「錬金陣の発動は特に爆発が起きやすいので注意してください。怪我などがあれば必ず申告するように」
 爆発、するのか……。私は慄いた。どうやらあの噂は本当だったらしい。
 ──ボンッ!
「ふむ、調合におそらく問題はない……やはり原因は錬金陣か。イクトゥス、紙とペンを取ってください」
 ──ボンッ!
「いいですね。答えが見えてきました」
 ──ボンッ!
「ははっ、真理を理解しました!」
 何度も爆発を引き起こしたことで、先生の髪の毛はところどころ焦げてボサボサになっている。あの綺麗な顔にもいくつか擦り傷があった。まさに満身創痍。しかしボロボロになりながらも何ひとつそれを気にすることなく、フラスコ片手に高笑いする先生の姿はまるで悪魔かなにかのようだ。爆発後の煙たい空気に咳き込みながら、やっぱり研究室選びを間違ったかもしれない──と感じたのは記憶に新しい。私はこの先、本当にここでやっていけるのだろうか。

「そのまま塵になるまですり潰すつもりですか?」
 耳元のすぐ近くで、先生の低い声が響いた。私は驚いて声の方向を勢いよく見上げる。こちらを静かに見下ろしていた彼の視線が、私のそれと至近距離でかち合った。
「時間は有限ですよ。すべてを念入りにやればいいというものでもありません」
「はい……すみません」
「ではすみやかに次の工程に──ん?」
 不意に、先生が机の上の木製試験管スタンドに顔を近付けた。右下で結われた彼のミントグリーンの髪が、はらりと肩から滑り落ちる。先生はスタンドから半透明の桃色の液体の入った丸底試験管を丁寧に取り出し、じっと観察した。それは先ほど私が一つ前の工程でつくり上げた基礎錬金薬のもとだった。
「えっと、なにか間違っていましたか?」
 おそるおそる、私は先生に尋ねる。すると先生は首を横に振ってから、少し口角を上げた。
「いいえ、その逆です。上出来にもほどがある」
 初めて褒められた、かもしれない。私は思わず緩みそうになった口元を、きゅっと引き結んだ。
「以前にも基礎錬金薬を製作した経験が?」
「似たようなものなら、何度か」
「そうなると貴方がすでに中級レベルの錬金術を個人で行っていると推測できますが……あるいは私が無知であるだけで、山羊学派はそれほどまでに錬金術に力を入れているのでしょうか?」
「あくまで私の趣味の範囲内です」
「趣味、ですか。それが謙遜なのか事実なのかは測りかねますが、どちらにせよ素晴らしい。貴方は存外、座学より実習の方が向いているようですね」
 褒められたのかと思いきや、暗に私の座学の成績があまり芳しくないことを指摘された気がする。確かに先生と過ごすようになってから、毎日のように知識不足を痛感していたが……いや、先生が単に規格外なだけだと思いたい。
 ふっと、先生が笑った。
「今貴方が考えていることを当ててあげましょうか」
 私は困って、何も言わずに頷いた。
「自分には錬金術の才能がある──と思ったでしょう」
「そんなこと……」
「いきすぎた謙遜はただの自己否定ですよ」
 私はムッとした。図星だったからだ。
「なら、先生は私に才能があるっていうんですか?」
 口に出してから、すぐにそんなことを先生に聞いた自分が情けなくなった。馬鹿みたい。ないと言われたからと言って、錬金術を学ぶことをやめるわけでも、やめられるわけでもないのに。途端に先生の顔を正面から見れなくなって、反射的に目を逸らしたときだった。
「思っているに決まっているでしょう」
 何を今更、とでも言うように先生はあっけなくそう告げた。まさかすんなり肯定されるとは思わず、私は驚いて先生の顔を凝視する。
「何ですかその表情は。単なる事実です。わかりませんか? 最終的には貴方が私を選んだとは言え、最初は私が貴方を選んだのですよ? 忘れたとは言わせません」
「それはもちろん覚えていますけど……」
 彼は呆れたようにため息をついてから、腕を組んだ。
「いい加減、貴方のその自信のなさは一体どこからくるものなのでしょうか」
「だって私、特別成績が良いわけでもないです」
「決して、悪いわけでもないと思いますが。まあ……座学に関しては肯定はしませんが、特に否定もしないでおきましょう。特に貴方は、私が受け持っている「霊魂物理学」を大変苦手としているようですからね。その点については、ついでに私が補講をしてさしあげますのでご心配なく」
 さっそく、次の修行メニューが決まってしまった。でも不思議と、今まで感じていたような不安やしんどさは押し寄せてこない。……ちょっと待ってよ、私。さすがにちょろすぎない?
「貴方のその溢れ出る好奇心は美点であり、まさしく才能ですよ。むしろ、少々危ういほどです」
 遠い記憶。幼い頃、家族に言われた言葉が蘇る。
 ──イクトゥス、お前は好奇心に身を滅ぼさないようにしなさい。
「しかしながら、貴方のその好奇心を私は評価し、期待を寄せています。たとえイクトゥス本人であろうと、文句は言わせません」
「ありがとうございます。嬉しいです。でも……私、先生の期待に応えられるか、ずっとわからないんです」
「その点に関しては、何も不安がることはありません。貴方が私のもとで学びをやめたいと願わない限り、私は責任を持って貴方に教えを授けます」
 なぜこの人が教師という仕事に就いているのか──その理由が、よくわかった気がした。

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