第六話

いつものようにふわりと抱きしめる。腕の中のぬくもりは以前より細くなっていた。ぬらりひょんの拘束から逃れようと小さな抵抗をする橘。それすらも愛おしくて、腕に力を込める。お気に入りの香を焚きつけていないのか、先程の生き肝狩りで薄れたのか、いつも彼女から漂う花の香りはしない。その代わりに生々しい血の臭いがする。あれからどんな日々を過ごしてきたのか、それだけでわかる。彼女は心から望んでぬらりひょんの元から居なくなった訳ではない。何か事情があったに違いない。

「やっと、この手の中に……。もう離さない、離すものか……橘!」

橘は彼の言葉に、頑なだった心を動かされた。堰を切ったように涙があふれ出て、彼の胸元を濡らした。嗚咽をあげる橘を見やり、ぬらりひょんは何事も言わずに、更にきつく抱きしめる。

「どんなに会いたかったことか、ぬらりひょん。妾も、妾も離れとうない……!」

ようやく思いを告げる橘は、躊躇いがちに彼の腰に震える手を回す。それに気付いたぬらりひょんは、拘束を緩めて彼女の顎に手をかけて目線を合わせる。

気付けば人の姿に戻っていた橘。ただ泣いて己に縋る一人の美しい女がそこに居た。潤んだ瞳に、ほんのり色づいた頬、紅に彩られた唇。男を惑わすそれらが全て揃っている。お互い吸い寄せられるかのように顔を近づけると、どちらからともなく口を重ね合わせた。

今、目の前に心から会いたいと願った人がいる。そう思うだけで荒んだ心が満たされていく。今までの何もかもがどうでも良くなる。触れあうぬくもりが、これは嘘でも夢でもないのだと、全て現実なのだと教えてくれる。どうかこのままで居て欲しい、彼に己が身を全て委ねられたら……どんなにか幸せだろう。

何度も何度も、向きを変えて唇が合わせられる。息苦しいと思えども、何もかも忘れてしまえるこの時が、橘に安らぎを与えてくれる。息継ぎの合間にもれる声はどちらも艶っぽく、色気が溢れていた。もっと、と強請るように橘が腕を彼の首の後ろへ回すと、それに答えるようにぬらりひょんは彼女の後頭部と腰に回した手に力を込める。二人ともが口付けに酔い、顔が蕩けて朱に染まっていた。たまに薄らと目を開けたときにお互いの目がかち合うと、言いしれぬ恥ずかしさが込み上げてくる。しかしその恥ずかしさすらも、更に二人を口付けに酔わせるだけだった。

二人の息が絶え絶えになった頃、長い口吸いがようやく終わった。なよなよとした橘の肢体は彼に支えられており、立っているのがやっとだった。彼女の顔をその逞しい胸に預けると、彼の香に包まれた。ぬらりひょんは何も言わず、優しく微笑み、彼女を抱きしめている。彼の何もかもが、橘を安心させ、癒やしてくれた。

片時も側を離れたくない。そう思わせたのは、この男が初めてだった。皆上辺だけで近寄り、媚びるだけだった。そして、弟は過剰なまでに我が身を案じ、近付こうとする者全てを徹底的に排除した。いつしか誰も近づけないように、軟禁まがいのこともされた。そんな弟が、人の寿命を迎え、この世を去ったとき。弟が死んだことを嘆くあまりに、軟禁された橘の存在が忘れられたそのとき、お蓮と着の身着のまま京から逃げるように離れた。

それからというもの、人として怪しまれないように生きてきた。女二人だけの旅路は辛いものがあった。それでも、死ぬことだけはなかった。何十、何百年と過ぎたのか、何のために生きるのか、わからなくなってきた頃。どれほどの月日が流れたのか忘れていた頃でもあった。そんなときにぬらりひょんに出会った。上辺の噂――橘御前を探していた彼。女二人暮らしに飽きてきたこともあり、ただの興味本位で彼についていった。つまらなければ出て行けば良い、そう思っていたのに。彼に惹かれている自分が居た。いつしか心を許し、自分の身についても話していた。子が成せない体とも告げた。そんな自分の呪詛を解いてやると言われたとき、この男になら身を委ねられると思った。

だというのに、やはり呪詛を解くことは叶わなかった。呪いの鎖は、しっかりと弟の従者に握られている。迎えの手紙が来たとき、崖から突き落とされたようだった。ぬらりひょんに出会わなければ、一度はそう思った。けれど、この男を憎むことは出来なかった。どうせ子をなすことの出来ない女は、正室になることは叶わない。身を引いて、また前と同じ籠の中の鳥になろうと思った。

何百年ぶりに会った母は、どこか別人のようで薄気味悪かった。けれど、前と同じように愛してくれた。あのときと変わらない、愛をくれた。でもそれだけでは足りなかった。答えは簡単だ。ぬらりひょんが居ないこと。また、別人のように変わってしまった母が、生き肝を喰らうようになっていた。弟のために狂ったようにそれを喰らう母に、橘は嫌気がさしていた。それでも、家族を思う気持ちが根底にあるため、我慢して過ごしていた。

だが、今なら言える。もう大坂城には戻りたくない。ぬらりひょんと共にありたい、と。心がそう願うも、現実はどうだ?彼が妾のために母や鬼童丸、茨木童子、その他大勢の妖に立ち向かうのは容易に想像できる。その結果、彼が帰らぬ人となったらどうする?母たちは古より生きる大妖怪。この若い妖怪が勝てるだろうか。

ぬらりひょんを信じていないのではない、ただ、彼の身に何かあれば、妾が正気でいられる自信がないのだ。彼には生きていて欲しい、彼が死んでしまう可能性がほんのわずかにでもあるならば……、この身を引こう。彼のためにも、自分のためにも。
もう、することは一つしかない。妾に唯一残された選択肢。

「『君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか』、この返しの和歌をお主は知っているか?」

声が震えないよう、橘は取り繕った笑みを浮かべる。

「……和歌、ねえ。すまねえが、わからんのう。橘、何を考えている?」

ぬらりひょんは、竹取物語の和歌を出したときの彼女を思い出し、探りを入れる。

「さあのう……。ぬらりひょん、返しの和歌はこれじゃ」

のらりくらりと彼の問いをかわす。綺麗に笑えているだろうか、いや、綺麗に笑うのだ。これが最後なのだから。

「『かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 今宵定めよ』」

眉を下げ、涙を流しながらも、気丈に笑う橘の姿を最後に見た。頭の中に靄がかかるような心地だった。橘、何をしたんじゃ、と問う間もなく意識は闇に沈んだ。


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