第七話

「『君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか』」
「『かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 今宵定めよ』」

心地よい声が繰り返される。誰の声だったのか思い出せない。ただ、いつまでも側に居て、その鈴の転がしたような、気持ちの良い声を聞いていたい。恋い焦がれるような気持ちだ。夢かうつつか、と呟いたのかも定かではない。だが、唇はそう動いていた。

暗闇の中に打ち掛けを着た、美しい女の姿が垣間見えた。水面を間に挟んだかのように、ゆらゆらと動く影しか見えない。どうしてか胸がきつく締め付けられる。一瞬見えたその女はこちらを見つめていて、その表情は悲しそうだった。彼女の名を呼ぼうとして気付いた、名がわからないのだ。彼女はただただ、こちらを見ているだけだった。

ふと気付くと、辺りの様子が変わる。そこには白い花が咲いた木々が生えていた。女はその枝を一つ手折ると、こちらへ渡してきた。受け取ると、さわやかな香りが白い花から漂った。

「『五月待つ ―――の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする』」

先程と同じ女の声がする。この打ち掛けの女の声だとそれでわかる。

「お主の名は……!」

思い出そうとすると、靄がかかって邪魔をする。水面が激しく揺れ始め、女が遠ざかっていく。待ってくれ!と口を開いたとき、いきなり水が口の中に入ってきた。いつの間に水中に居たのだろうか、息が苦しい。さっきまで何ともなかったのに。辺りに目をやると、白い花は突然なくなっていた。苦しさに目を閉じると、意識も失われた。



白い光に目を覚ますと、見慣れた木目の天井。いつの間に自分は部屋に戻ったのだろうか。確か、珱姫の様子が気になって公家の屋敷に行ってきた所まで思いだしたのを皮切りに、靄がかかったようにうつろな記憶となった。

「総大将、お気づきになられましたか!?」

「ん……その声は鴉か?」

「はい、お体は平気ですか?驚きましたぞ、ふらふらと帰ってきたかと思うと突然お倒れになって!酒の臭いはしませぬし、どこか具合が悪いのかと……」

ぬらりひょんは、昨夜の記憶がないと話す。そうですか、と鴉はそこで話を止める。

「すまねえが、気分悪いから今日一日寝ることにする。皆にもそう伝えておけ、今日は自由に過ごせとな」

鴉天狗が訝しげにしながらもわかりました、と部屋を立ち去るのを見送ると、ぬらりひょんは先程の夢を思い出そうとする。しかし、何故か靄がかかったようにおぼろげである。何か、誰か……そう、女らしき影が白い花がついた枝を渡してきた。その影は何かを己に向けて言っていた。あの五七調は……おそらく歌であろうが、歌の心がない己にはわからぬ。

そういえば、以前にいくつか歌を教えてくれた妖が居た。彼女は……、誰だ?その姿形どころか名前すらも思い出せない。その事実に目を見張った。冷やりとした汗が背中をつたう。いったいどういうことか?何か大事なことを忘れている、間違いない。そうとわかると居ても立ってもいられず、右手で頭を抱えて唸った。しかし何かが変わるわけではない。

「酒でも飲み過ぎたか……?いや、酒臭くないしなぁ」

布団に寝転がり、ぼんやりと天井の木目を見つめる。いつも通り見慣れた茶色の天井だ。だが何かが物足りない。そこへ聞き慣れた足音が近付いてくる。スーッと音を立てて障子が開かれ、音の主が赤い瞳でこちらを睨めつけてきた。

「ぬらりひょん、いつまで寝ているつもり?朝餉が冷めてしまうわよ。それとも氷漬けにされたものがお望みかしら?」

「雪女か……、すまねぇが食べる気にならねぇんだ」

そう言ってぬらりひょんは彼女に背を向けた。その様子に雪麗は、はぁと冷えたため息をつく。

「何が『食べる気にならない』よ。夜中に出歩いて、どうせまた、人間の小娘でも見に行っていたのでしょうが。濡れ女……お蓮の気持ちも考えなさいよ。――様のこと、探すんじゃなかったの?」

ぬらりひょんは、気怠げにあくびをしながら説教を聞き流していたが、最後の言葉に目を見開いた。

「雪麗、今なんと言った?」

「え?だから、――様を探してと」

「誰を探すって!?」

ガバッと起き上がり、突然真面目な顔で見てくるぬらりひょんに雪麗は怪訝な目を向ける。

「な、なによ、耳まで悪くなったの?――様よ」

何度たずねても、その部分だけ聞き取れない。そのことにぬらりひょんは気付いた。これは……。

「夢と一緒じゃ……。名前が……姿形も思い出せぬ」

その事実に、今度こそ頭を抱える。――が大事なことだとわかっても、そのものがわからない。まるで見つけ出すことを拒むかのように、ぬらりひょんを避ける。その彼の様子を見て、雪麗は言葉を失う。

「あんた、何を言っているの……。あれほど探し続けたくせに、どの口がそんなことを言うの!?――様を、あんたの、ぬらりひょんの妻にするんじゃなかったの!?」

思わず声を荒げた雪麗に、ぬらりひょんはハッとした。

「そうじゃ……確かにワシは」

――ワシは……?その先の言葉が全く出てこない彼に、雪麗は顔面蒼白になった。

「ちょっと、あんた本当に……」

「雪麗?総大将はどうなさったんですか」

幸か不幸か、その場に現れたのは濡れ女、お蓮であった。


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