第九話 松虫草

 ぐらり、と冷たい土の上に倒れる彼を、悲しみを封じ込めた冷たい眼差しで見つめた。これでいい、こうしなければならない。そう言い聞かせた。止まらない涙も、わなわなと震える赤い唇も、張り裂けそうな胸の痛みも、今にも崩れ落ちそうな足も、全部有りもしないことなのだ。全ては幻。今までの彼の言動も、蕩けそうな甘い口付けも、安心できたぬくもりも、夢の中の出来事。

「ぬらりひょん……」

 本当に最後。彼の名を呼ぶのも、彼を思い出すのも。今までもそうだった。そうしなければならなかった。彼らの命が危険に曝されるぐらいなら、全てを無に帰するのみ。そうする事ができたから。

「おい、橘。いつまでぼさっと突っ立っているつもりだ」

 背後の闇から茨木童子がぬっと現れた。

「ああ、この男を見るのもこれが最後だと思うと、口惜しくてな」

 声が震えないよう、いつもより低く言う。

「なんだァ?お気に入りだったのか。つくづく運が無いな、そいつも。橘に目を付けられるなんて、お気の毒なこった」

 けらけらと笑う彼に、橘は安堵した。彼の中で、橘は見目の良い男性の生き肝を喰らうことがお気に入りなのだ、と思われている。彼女が茨木童子に対し幻術を使ってそう見えるように振る舞っているのだが、存外上手くいっている。

「気が済んだんなら早く帰るぞ。そろそろ空が白けてくる頃だ。オレらの時間は終わりだぜ」
「そうじゃな、では行くとするか」

 橘は最後に、倒れ伏したままの彼を一瞥すると、するりと闇に紛れた。その瞳は黒い闇に染まり、光を閉ざしていた。もう、彼女に失う物は無い。全て捨てたのだから。あとはただ、己の身が果てるのを待つのみ。



 己が何をしていたのか、誰を捜し求めていたのか。思い出すも何も、その部分だけぽかりと抜け落ちている。誰かに忘れさせられた、そう言われるのが正しいと思うほど。だが、誰もそのことを口にしなかった。
 
 だから、それが普通なのだと思うことにした。抜け落ちた何かを探し求めるように京の街を彷徨う。そして、見つけた人間の女。京都一の絶世の美女といわれる娘。思わず、月に見とれるその姿に己が妖ということも忘れて声をかけた。

 噂にされる娘はまだ花開く前の蕾だった。まだ咲き誇る時で無い。だが、己の手で摘み取り、美しく咲かせたいと思い、夫婦になろうとまで言った。だが――。

「なんだ、これは……」

 牛鬼に止められても、己の足は迷わず大坂城へ向かった。心から欲しいと思った女が、己の懐からするりと抜け落ちるのは許せなかった。二度とさせない――前にもあったのか?いや、今はそれよりも。

「待ってろよ、珱姫……!!」



 秀頼の為に集められる側室候補、とは名ばかりで。実際は母の為に集められる生き肝。何故かこのときは母に所用ができ、戻るまでの間に橘が姫たちの相手をすることになった。

 既に室内には周りに恥じないよう、豪華絢爛な絹を纏った二人の姫が居た。まだ幼い、あどけなさの残る少女、さも自分が選ばれて当然と言ったように堂々と背を伸ばして座っている娘が居た。橘が現れると姿勢を正し、叩頭した。

「面を上げよ」

 凛とした、よく通る声が響く。二人はそろそろと顔を上げた。

「我が母、淀の君は所用があるため暫く来られぬ故、娘たるこの橘が参った。まだ約束の刻限では無い、その時までゆるり長旅の疲れを癒やされるように」

 その一言に、二人の姫君が礼を言うと、橘は上座に座した。

「さて、先にそなたたちの名を聞かせて貰おう。まだあと二人来る予定じゃからの。さて、では妾から見て右の者からにしようか」
「はい、私は宮子と申します」

 宮子と名乗った女は、また叩頭する。さらさらと流れる髪は艶があり、とても手入れされているのが一目見てわかる。

「すると、そなたがあの髪長姫か」
「そのように呼ばれることもございます」

 再び顔をあげる宮古姫。微笑を浮かべる彼女は、日本一美しい髪を持つ“絶世の美女”と言われている。

「成る程、秀頼に相応しい美姫である。将来が楽しみじゃ……。さて、そちらの可愛らしい姫は何という?」

 指名された少女はハっとし、宮古姫と同じく叩頭した。

「わ、私は苔と申します!」
「ほう、苔姫か。あの真珠伝説は本当だったのじゃな」

 橘の言う真珠伝説とは、苔姫の涙が真珠に変化するというものだ。噂で聞いてはいたが、実際に姫がいたのだ。

「そのように緊張するでない。母上が来るまで楽にしておれ」

 そう言ってから暫くして、青ざめた顔で入室する者が居た。足取りも重く、座ってからもがたがたとその身は震えていた。

「もう一人来たか、そなた、名を何という?」

 橘は確認のため問うた。

「あ、さ、貞と、申します」

 どもりながらも、彼女は名乗った。事前に聞いた話では、彼女は未来が見えるそうだ。自分がどうなるのか、憐れなこの姫たちの中で唯一、貞姫だけがわかっているのだろう。

「貞姫、か。そんなに震えることは無い。緊張しているのは他の二人も同じこと。気楽にせよ」

 橘はできるだけ柔らかく微笑む。あまりこちらを恐れられては、他の姫たちに悪い影響が出かねない。

「あ、ありがとう、ございます……」

 残るはあと一人。まだか、と橘が思ったとき。

「待たせたのう」

 すっと障子を開けて、淀殿が現れた。細い一重をすうっと細めて集められた姫たちを見る。彼女が姿を見せたとき、空気がずしりと重くなったようだった。ゆるりと余裕を持たせて、淀殿は上座に腰を下ろす。橘はそろりと立ち上がり、その後ろに隠れるように控えた。

「おお、三人揃っておったか。妾が、秀頼が母の淀と申す。宜しく頼むぞ」

 そして、先に集められた姫たちだけで、自己紹介が始まった。宮古姫が話し始めたときだった。どさっと後ろから音がした。見ると、濃い桃色に染められた桜模様の打ち掛けを纏った娘が倒れていた。

「待っておったぞ、珱姫」

 淀殿は口に笑みを浮かべて言う。

「ああ、あれが珱姫……?」

 宮古姫が面白そうに口にする。京都一の美女、といわれる彼女に興味があったのだろう、じろじろと見つめている。暫くして興味を失ったのか、淀殿へ顔を向ける。

「京で一番の美貌と噂の……噂通り美しいのう。近う近う」
「は、はい……」

 不安げに瞳を揺らしながらも、珱姫は貞姫の隣へ座った。そして、宮古姫の自己紹介の続きが始まった。淀殿が宮古姫自慢の髪を触らせて貰っていると、突然二人の距離が縮まった。

「……!?」

 ズ、ゴキュ、と耳障りな異音が耳にまとわりつく。何が起こっているのか、姫たちには全くわからなかった。気付くと、口から血を垂れ流し、白目を剥いた宮古姫だったものが仰向けに倒れていた。ヒッと声にならない悲鳴を誰かがあげる。

「ん……ん、やはり不思議な力を持つ者の肝は違う」

 ゴクン、と何かを飲み干した淀殿が妖しく笑う。人の形をした異形の者だと、姫たちはようやく理解する。

 貞姫が何事かを叫ぶと、人であろう侍が「何事だ!!」と襖を開けて飛び出してきた。だが、それもしょうけらにより首を絶たれて骸と化した。貞姫もあっけなく淀殿に捕まると、宮古姫と同じく直ぐにその場に倒れていった。

 橘は何の感情も浮かべること無く、ただ黙ってその光景を見つめていた。もう半分だ、すぐに終わる。誰も憐れな姫君たちの味方などしないし、居ないのだから。その骸は妖にとって貴重な贄だ。骨の髄、髪の一本、爪の先までその身は一欠片残さず喰われる。

 珱姫が母の手にかけられた、その時だった。何者かがその邪魔をした。橘は目をまん丸に見開いて何者かを確認しようとした。

「そんな、そんなはずは……!?」

 ビリビリと着物が破れて、彼の背にある刺青が姿を現す。金と黒のたなびく髪、ギラギラと金に輝く瞳。

「ワシは奴良組総大将ぬらりひょん。こいつはワシの女じゃ、わりいが連れて帰るぜ」



 橘は、想定外の事実にただ目を見開くばかりであった。彼を己から突き放したのは、他でもない自分自身。だというのに、彼は人間の小娘に――それも神通力を持つ珱姫――に惚れ込み、大坂城に乗り込んできたという。たかが人のために、彼の命が危険にさらされることを彼女は許せなかった。

 だからといって、ここで橘が前に出ては橘本人が怪しまれる。今まで逆らうことの無かった橘だ。何処の馬の骨ともしれぬヤクザ者の妖を突然庇い立てすれば、彼に更なる危険が及びかねない。

 つまり、今の橘にできることは何も無い。彼が無傷で居られるはずがない。だが、せめて彼の命だけでも、救われることをただただ願った。
 
 それからすぐのことだ。奴良組の面々が現れ、京妖怪と抗争を始めた。橘は幻術を使い、淀殿から少し離れた部屋の隅に身を潜めた。母の転生した数だけ増える尾は、八本。七度も転生を繰り返したのだ。そこまでして、息子を蘇らせようという彼女の愛は重い。

 ぬらりひょんはただ、そんな彼女の尾に踊らされている。どんなに攻撃を受けても、どこまでも真っ直ぐ立ち向かう彼に、橘は心を痛めた。彼が傷つくことを黙って見ていることしかできない己が憎い。

 母の安否は残酷かもしれないが、気にしていなかった。どうせ彼女は再び別の人間として蘇るのだ。「淀殿」が亡くなるだけで「羽衣狐」自体は死なない。

 珱姫を人質にしたまま、羽衣狐はぬらりひょんを八尾で弄ぶ。ボロボロになっていく彼を、珱姫が助けようと手を伸ばす。しかし、羽衣狐の手中に居る彼女にそれは叶わない。

 珱姫がぬらりひょんを慕っていることは間違い無い。この少しのやりとりで、お互いが想い合っているのが見て取れた。

 橘の出る幕はもうないと、そう言われているかのようだ。そして、そうなるように仕組んだのも自分自身。目の奥が熱くなっても、涙を流すことは絶対にしなかった。それでも、誰にも見られることのない、心の奥で噎び泣くことは許されるだろう。

 ――本当に、どうして妾は生きているのだろうか。

 ――何のために生きているのだろうか。

 何度問いかけても答えは出ない。弟のために生きるのか。やりたいこともやらせてもらえず、ただぼんやりと毎日を過ごすあの日々。ただ、母が生き肝を喰らう姿を見ている日々。生き肝を喰らいたくなるあの衝動。それに逆らうことができず、人間を喰い漁る日々。

――何のため?

 好いた人と添い遂げることもできず、その子も成すこともできず、追跡から逃げ惑う日々。そして、その呪縛を解くこともできない。ようやく逃れられると安堵すれば、どこから足が付いたのか、迎えに来る始末。飼い殺しという言葉がお似合いだ。

 もう、生きる理由がなかった。逃げだそうと足掻くことにも疲れ果てた。

「戻りやあああぁぁぁッ!!何年かけて集めたと思うとる―――!!」

 羽衣狐が、鬼気迫る表情で叫びながら天井を突き破っていった。瓦礫からポタポタと赤い雫が伝い落ちている。

 ――母はまた死ぬのだ、と橘はぼんやりとした心地の中思った。くつくつ、と笑いが零れる。ああ、母はまた死ぬのだ!そう、死だ。妾はまだ生きているが、死ねば終わる。この苦行から逃れられるのではないか、簡単なことだ。だが自殺できるほど妾に力はない。ならば、彼に殺されれば済む話だ。

 そう考えている橘の顔は、醜く歪んでいた。彼女の心はとっくの昔に壊れていた。そしてその破壊を進めたのは、他でもないぬらりひょんだった。彼が無事に見知らぬ土地で生きていることが最後の救いだった。だが目の前に現れて、他の女に惚れている姿を見せられて無事に済むほど、橘の状況は芳しくなかった。死して終わらせること、それが最後にできることだと、橘は信じて疑わなかった。

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