第一〇話 夢幻の先

 母が倒されたのだろう、強大な妖気が消え失せていくのが感じられた。天井の大穴から、ぬらりひょんと珱姫、牛鬼、花開院当主秀元らが姿を現した。

「そ、総大将〜〜!!」

 鴉天狗が大急ぎで彼の元へ駆け寄ってきた。そして、羽衣狐が倒されたのがわかると、喧嘩っ早い京妖怪の一部と奴良組は一触即発の状態になった。しかし、大御所の鞍馬山の大天狗の一言で京妖怪は恨めしそうな顔でその場を立ち去っていった。

 だが、まだ一人、その場に留まる者が居た。戦いでぼろぼろになり、崩れかけた天井、破れた襖の中で、一人異様な雰囲気でその場に蹲っていた。滝のように流れる、ぬばたまのごとき黒髪に、陶器のようになめらかそうな白い肌がちらと見える。うつむいており、その顔がどのような表情に彩られているのかわからない。豪華絢爛な打ち掛けは、かなりの代物だと一目見てわかる。そんな彼女が何者なのか、ぬらりひょんにはわからなかった。

 ぬらりひょんは微動だにしないその女に近付いた。声をかけても顔も上げない女に不信感を抱くも、この妖怪の群れに怯えているのだろうか、と思った。

「……おい、あんた大丈夫かい?生き肝の犠牲にされそうになった姫さんか?珱姫、この娘さんは……」

 珱姫に声をかけ、確認しようと彼女が女に近付いたそのとき。

「……妖様!この人は違います……ッ!!」

 羽衣狐に劣るとも勝らない黄金色の尾が珱姫を捕えた。

「珱姫!?こいつは……!!」

 まだ羽衣狐が生きていたのか、いや、違う。妖気は目の前の女から漂っている。ふふ、と気味の悪い女の笑いが聞こえた。

「母は倒れ、京の妖たちも去った……」

 その女から発された声に、ぬらりひょんは既視感を覚える。だが、今はそれどころではない。

「てめぇ、何者だぁ?」

 シュルシュルと尾が縮み、珱姫はスーッと立ち上がった女の腕の中に収まる。そこでようやく、ぬらりひょんたちは女の顔を目にした。

「妾は『羽衣狐の娘』じゃよ、ぬらりひょん」

 切れ長の一重につり上がった狐の目。

 挑発したのは妾だ。彼には妾の記憶もない。彼の憎悪に染まった黄金色の瞳がこちらを忌々しげに睨んでいる。以前はこちらが恥ずかしくなるほど愛おしいと言わんばかりに、柔らかな表情で涼しげな目元が真っ直ぐに向けられていた。思わず昔の彼と比べてしまい、笑みがこぼれる。それが気に障ったらしく、更に睨みが増す。愛した男にこれほどの憎しみをぶつけられるとは……、色恋は恐ろしいものよと橘は心中で独りごちた。

 腕の中に居る彼の「想い人」は小刻みに震えているのが伝わってきた。橘に彼女の生き肝を食べる気は一切ない。

 母が再び居なくなった今、彼女に残されたのは鳥籠の中の生活。生きる意味を、目標を失ったのだ。ならばいっそのこと、愛した男の手にかかって死にたい。どれほど自己中心的な考えか、浅はかなことか、とわかっていても止められない。だから彼女(ようひめ)を手にかけようとした。

 せめてもの詫びに、腕の中の珱姫の耳元にそっとささやく。

「……あいすまぬな、珱姫。そなたは何も悪くないのじゃ、暫し我慢しておくれ」
「え……?」

 そうして、妖としての本性を橘は現した。母と同じで太く立派な二尾。一目で狐だとわかる三角の小さな耳。つり上がった目元は、真っ赤な瞳となっている。だが、彼女にぬらりひょんと対等な力はない。母のように戦うことは叶わない。これはただの威嚇にすぎないのだから。

「本性を現したか、この女狐がッ!!」

「さぁ、はよう小娘を取り返してみよ」

 にやりと薄笑いを浮かべて、橘はさらに挑発を重ねる。彼の殺気がこれほど恐ろしいのか、と思わず身震いした。ぬらりひょんは母を斬った妖刀を構えると、彼の姿が闇に溶けた。畏れを発動したのだ。もわっと、霧がかかったように、彼の姿だけが見えなくなった。橘はこれが、彼の本当の力なのだと目を見開くと、覚悟を決めるようにゆっくりとまぶたを下ろす。腕から人のぬくもりと重みが消えると同時に、ほとばしるような熱さを胸に感じた。

 ずぶり、と肉を切り裂く嫌な音が耳に響く。白い衣が赤黒いものにじわじわと犯されて、金糸で彩られた色鮮やかな絹も徐々に染められる。ぬらりひょんは呆気なく己が元に返ってきた珱姫と、攻撃を一切避けなかった女狐に呆然としていたのだが、みるみるその表情は驚愕に包まれていく。醜く憎悪に染まっていた黄金色の瞳が見開かれ、戸惑い揺れている。

「お前は……ッ!橘!?」

 橘は彼の記憶を操作した術が解けたことを悟った。何のために努力をしたのだろうと思うと、乾いた笑い声と血が共にもれる。わなわな震える手で刀が抜かれると、その切っ先からぽたりぽたりと鮮血が滴り畳に赤い染みをつくっていく。自分を支える力が抜け、橘はずるずると膝をつきその場に倒れた。ぬらりひょんの手から刀が滑りその場に音を立てて落ちる。

「ワシは、ワシはいったい何を!?……橘!!」

 狼狽えたものの、一目散にぬらりひょんは駆け寄ってきた。以前抱きかかえた時よりも、彼女の身体は細く頼りなくなっていた。その際手に、着物にべっとりと付着した血が出血量を物語っていた。息が荒く、不規則になっているのも目に見えてわかる。

「橘!しっかりしてくれ、目を開けてくれ!橘……すまぬ、すまぬ!お前を切るつもりなど……!!」

 必死に声をかける彼の様子に、橘は重たくなった瞼を開ける。見れば彼のまなこに涙が溜まっている。

「ぐ、う……ぬら、りひょん……っ」

 二度と口にすることがなかったはずの、愛しい彼の名を口にしたものの、喉に血が流れ込み咽せてしまった。人に見せられるものではないな、と場違いなことを橘は思い浮かべる。

「橘!!」

 血が付くことも厭わず、金の瞳の彼は彼女を抱きかかえた。橘は重くなる瞼を、閉じないようにと懸命に力を込める。そろそろと手を伸ばして彼の血に塗れた頬へ触れる。

「こんな、こんな妾でも、お主は……」

 ――妾のことを思うてくれるのか、と口にしようとしたが彼の手で遮られた。

「今は喋るんじゃねぇ、体に障るだろうが!!……これはどういうことだ!?いや、今はそれどころじゃない、ともかく傷を塞がねば……おい、雪女!鴉!手を貸せ!!」

 そこからの記憶はほぼない。ただ、常日頃緊張状態にあった四肢からようやく、力を抜くことができた。懐かしい香りとぬくもりに抱かれ、ふわふわと心地よかったことの覚えはあった。それに反比例するように、自ずと妖力が抜けていく感触が、死に近付いているのだと理解した。もう悔いはない、安らかな眠りが恋しくて恋しくて仕方なかったのだった。

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