第十一話 ながめせしまに
しとしと小雨が降る日、橘は宛がわれていた一室でこぢんまりとした庭を眺めていた。春になると香りの良い、白い花を咲かせる木がそこに一つ。今は花の咲く季節ではないが、青々とした葉が茂っており、雨水に打たれていた。一定間隔でぽとり、ぽとりとその葉から雫がこぼれ落ちるのを、橘は開け放たれた間から物憂げに見つめている。
気がつけば、橘は花開院本家にいたのである。話を聞くと、ぬらりひょんやお蓮たちが花開院に頼み、消滅しかけた橘を救ったそうだ。久々に再会した奴良組の面々と話し、そして別れも告げなかった己が側近としていたお蓮にも会えた。悪い夢でも見ていたのかと思うほど、そこには二度とないはずだった、橘が心から求めていた「日常」が目の前にあった。
花開院家の本家の離れにある建物、そこが彼女に割り振られたのだ。元々は羽衣狐側の妖なのだから至極当然であった。母屋と離れは渡り廊下で繋がっているが、それなりに距離はあった。そんな離れに、足繁く通う人物が居た。
「こんにちは、橘様」
まだ年若い娘の声が橘の耳に届いた。桜の模様をした桃色の着物がちらと視界に入る。それに眉をひそめて橘は、ほうと息をつき項垂れたのだった。
「よう妾の元へ来れるのう……珱姫や」
「ふふ、このやりとりも何回目になりましょうか」
橘の歓迎しない態度は今に始まったわけではない。側仕えであったお蓮ならともかく、わざと人質にした、それも人間の小娘に嫌がられるでもなく、恨みを持たれるわけでもなく、蔑まれもしない。寧ろ甲斐甲斐しく、この離れに足繁く通うのだ。最初は突き放した橘だが、この珱姫という人物は諦めが悪いのか何度も会おうとしてきた。元々人嫌いではなかった橘が珱姫の根性に折れてしまい、快く思わないながらも受け入れたのだった。
現在、橘の生き肝への執着や発作はなく、人間と同じように食事をとることで落ち着いている。そのため尊い生き肝の持ち主たる珱姫が側に居ても、とって喰おうとならないのだった。
元々生き肝に興味の無かった橘だが、大坂城での生き肝の摂取は一種の麻薬と同じであった。当時の彼女は心身ともに衰弱していたため、力のある生き肝は生命力維持のためにも事実必要であった。妖の本能が、生き肝を強く求めていたのだ。
半月ほど、珱姫はここへ通ってきた。何を話すというわけでもなく、とりとめのない世間話を少し交わすだけ。たまにお茶菓子を持ってくるだけだった。
様々な気持ちが入り乱れ、居たたまれなくなった橘よりも、珱姫が先に口を開いた。
「橘様、率直に伺います。妖様を、ぬらりひょん様をいかがお思いなのですか?」
その言葉に橘はピシリと固まった。後ろの齢十七、八だろう小娘から、何百年も生きる狐女へと強い視線が突き刺さる。
「私はあの方をお慕いしております。橘様、貴女はどうなのですか?貴女の術で妖様は橘様のことを全て忘れられてしまった。その後、彼は私へ求婚までいたしました」
求婚、その言葉に橘は数年前のことを思い出す。彼と晴れ着を仕立てに行こうとしたのではなかったか。自分は彼を裏切ったのだ。その事実が今、重く橘にのしかかる。いったい、今己はどの面下げて彼に会おうというのか。そう考えている彼女に、珱姫は言葉を続けた。
「聞いたところによれば、元々妖様は橘様と祝言を挙げるところまで進んでいたとか。そんなある日、貴女は突然身を眩ませました。それは、貴女が羽衣狐の娘だったから。違いますか?」
彼女の雰囲気が、只人ではなくなった。空気が震え、重苦しくなったのが珱姫にはわかった。それでも臆せず、彼女は妖狐へ向けた目をそらさなかった。
「何が言いたいのじゃ。小娘」
低い声が喉から出た。
「今、貴女を縛り付けるものはもう無いはずです。今、橘様は、ぬらりひょん様をお慕いしているのですか?」
「……っ」
目線を合わせてこちらを見る珱姫に、橘は息を詰まらせた。か弱い小娘と侮っていたか。
「私は、貴女様の身代わりに寵を受けたに過ぎませぬ。誰の目から見ても今の妖様は、橘様に心が向けられております。」
珱姫は苦い顔をしながらも、そのまま続ける。
「ですが、橘様はあの大坂城以来、妖様に会おうとはせず、避けてばかりではありませぬか。負い目を感じていらっしゃるならお止めください。あの方をお想いならば!」
その言葉に、心の臓を貫かれたようにも感じた。
ほろりと、雫が頬をつたい落ちた。緋色の瞳はゆらゆらと涙に揺れていた。一方の珱姫は、目の前で起きている事実に面食らってしまった。大妖怪の娘である橘が、涙を流すなど予想だにしていなかった。もしや、間違いを犯してしまったのか?
「あい、すまぬな……。妾は自分の身ばかり心配していたようじゃ。ぬらりひょんやその他大勢、考えていなかった。珱姫や、確かに妾はぬらりひょんの事を想うていた。彼のことを慕っていた。愛しておった」
橘の言葉に、珱姫はやはり、と瞳を暗くした。
「しかし、それはもう過去の事じゃ。今はもう……彼のことを慕えぬのじゃ」
続く言葉に珱姫は目を丸くした。
「え、それはどういう……?」
ほろほろと、流れ出た涙は止まることを知らなかった。橘の心を表すかのごとく、いつのまにか雨も勢いを増していた。
「人の子にはわからぬだろう、妾は長い間を生きすぎた」
橘の脳裏によみがえる過去の記憶。たった一人の肉親となった、弟を思いやり、亡き母の代わりに可愛がった。弟もたった一人の姉を、偉大な母と同じように、いや、それ以上に橘を愛した。母の二の舞にならぬよう、姉を籠に閉じ込めた。
閉じ込めた上で、身に危険が及ばぬように様々な術を施した。それが、彼女を縛り付ける枷となった。だから逃げた。せめて、この心だけでも自由になりたくて。けれども、それは無駄足となった。逃げても追われ、捕まり、再び籠の中の鳥と化し、足掻き続けて、いざ死なんとすれば助けられ、この有り様だ。これ以上生きて何の意味があろうか。
体の良い人形になるには、彼女は世の中を知りすぎていた。そして、弟よりも、かつての仲間よりも、大切にしたいと思う人が居た。心から愛してしまった。もう、元の鞘に納まることはできない。
そして愛した人の側に居ることも、許されない。子を成すことができぬ身で、彼の妻にどうしてなれようか。そして、もし弟のかけた呪いにより、彼の身に危害が加わったら。それを考えるだけでも恐ろしい。ならばいっそ。そう思っていたのに。
ギリッと唇を噛み締める。
「生きるのが辛いのだ。もう、誰にも縛られとうない……!」
その瞬間、彼女から妖力が迸った。珱姫は咄嗟に両腕で顔を庇った。橘は本来の妖の姿に変化していた。しかし禍々しさは感じず、寧ろ弱々しかった。触れればすぐに消えてしまいそうなほど、儚さを帯びている。二尾も力なく、彼女を守るように身を覆っている。
珱姫は、今の橘にどう声をかければ良いのかわからなかった。触れてはいけない物に、禁忌に触れてしまったような感覚に苛まれた。
すると、そこへドタドタと足音が駆け寄ってきた。
「なにがあったんや!?」
花開院当主秀元と、その兄是光が障子を開け放った。
「珱姫様に、橘御前、その姿は一体……」
是光は憔悴した妖狐に目を見開く。ほんの一瞬だが、離れで妖気が暴発したことを感じ取り、弟と急ぎ駆けつけたが。橘の周りが荒れているだけで、珱姫には傷一つ無い。秀元はふむ、と頷くと珱姫を是光に預ける。
「兄さん、珱姫ちゃん任せた。ボクは橘ちゃんとお話したい」
「わかった。珱姫様、こちらへ……」
「……はい」