第十二話 魅入られた陰陽師
秀元は周囲の乱れた家具を一通り式神に片付けるよう命じると、#橘にそっと近寄り、腰掛けた。俯いたまま静かに涙を流し続ける彼女の顔をのぞき見て、場違いながら美しいと見とれてしまった。しかしすぐに頭を切り換え、優しく話しかけた。
「橘ちゃん、君がこんなに感情を見せるなんて、どないしたん?」
橘は彼の声にようやく顔を上げた。その際秀元と思わず目が合い、一瞬狼狽えたが、涙は止まることを知らない。
「……っ、どうして泣いているのか、ボクにも話せない?」
秀元は硝子のように綺麗な瞳に、また気をとられた。花開院当主であろうものが、女狐に惑わされるとは。自分も修業が足りひんな、と呆れながらも話しかけるのを辞めなかった。
「うっう……ひ、秀元といったか?」
「そやで、秀元や。橘ちゃん、少し落ち着こか」
それから暫く、橘の涙が止まったあと、彼女はぽつりぽつり、珱姫とのやりとりを掻い摘まんで話した。秀元はというと、ぬらちゃんも別嬪さん二人に囲まれて罪やなあ、両手に花やないか、などと何処か人ごとのように思っていた。
「それで感情を爆発させたんか……」
秀元の何気ない一言に、橘は顔を伏せる。気が遠くなるほどの年月を過ごした自分自身が、子供が癇癪を引き起こしたように振る舞っていたのだ
「情けないことよ……。何百年も生きたこの妾が、ほんの数年生きただけの人の子に諭されるとは」
――成る程、見ればみるほどこの妖狐は人をも妖をも惑わせる、良くも悪くも。
秀元は、ボクもこの女狐に落ちたな、と薄ら感じ始めていた。だが、彼女の次の言葉に度肝を抜かれた。
「秀元よ、母や京妖怪が散々迷惑をかけたお主に頼むのは忍びないが……、どうか、妾を封じてはくれまいか。滅するでも構わぬ。妾を亡き者にしてほしい」
橘は静かに瞳を閉じ、頭を下げる。ああ、もう悔いは無い。一時の幸を賜ったのだ。これ以上何を望めようか。きっとすぐ、快く封印してくれよう。そう思ったのに。
「橘ちゃん、何言っとるん?自分の言うたことわかっとる?」
返事は冷たく、無機質な物だった。
思わず顔を上げると、顎をつかまれ無理矢理見上げさせられる。何を考えているのか、表情の読み取れない男だったが、今は怒りに包まれていることが易々わかる。橘は、どうして彼が怒っているのか、全くわからなかった。自分は存在する価値がないと、このときは信じて疑わなかったのだ。
「あのなあ、橘ちゃん。ボク、陰陽師だけど、何でもかんでも無闇矢鱈妖を祓ったりしないんよ。それに、君は自殺したいんか?あんなに、ぬらちゃんや珱姫ちゃん、他の奴良組の面々が心配しとったのに、命助けたこのボクに滅しろと?冗談もほどほどにしいや」
「だからこそ……、彼らに合わせる顔がないのじゃ!妾はあの日、ぬらりひょんに殺されるはずだったというのに、もうこの世から、この世とおさらばしようと……」
彼女の瞳に、再び涙が浮かんできた。堪えきれずにまた頬をそれがつたう。目の前で弱々しく泣く女に、この瞬間、秀元は完全に心を奪われた。怒り心頭ながら、たったいま彼女が愛おしい存在になったのだ。彼女に歩み寄ると、そのまま震える唇に己の同じ物を宛がった。彼女の紅が付こうとも構わず、強く押し当てる。想像したよりもやわらかく、彼女が好んでいる香がふわりと漂ってくる。冷たいと思っていたが、人と同じようにぬくもりがあった。生きているのだ、橘も。
人の身で有りながら、狐のように細く切れ長の眼。それが驚くほど橘の眼前に迫った。彼の行動に驚いたのももちろんだが、口付けされたのに嫌だと振りほどかなかった自分に驚いたのだ。動揺しているから?
それに、これが初めてではない。それでも、こんなに心動かされるほどのものはなかった。
――何が起こっている?
ほんのわずかな間だというのに、一刻ほどにも思えた。すんなりと離れた彼の唇に、深紅の紅が付いている。本当に秀元が口吸いしたのだと目にして、橘は羞恥からか頬を赤く染める。
「すまんなあ、橘ちゃん。あまりにも愛おしくて、つい」
はにかむ彼に、橘の開いた口がふさがらなかった。
「お主は……な、なぜこのような……!?」
秀元の突然の行動に彼女は混乱するばかりであった。自分は殺して欲しい。そう告げたのに、この有様は何なのか?ぬらりひょんとて、ここまで求愛行動で押してこなかった。それに、相手は陰陽師で、母を倒した相手。一体全体何が起こっている?考えれば考えるほど、意味のわからないことばかりだ。
顔を赤くし、わなわなと震える彼女の初々しいその反応に、秀元は内心ほくそ笑んだ。これは脈有りか、と。妖と口吸いするなど、先程までの自分は思ってもいなかったというのに。たった今感じた柔らかいぬくもりの感覚に、思わず舌舐めずりした。
「そうやな……単刀直入に言う、橘ちゃんに惚れてもうたわ」
にこりと良い笑みを浮かべる秀元。一方の橘は素っ頓狂な答えに、呆然と目の前の現実を見つめていた。
「だから〜、ボク橘ちゃん滅することもできないし、封印もしてあげられない」
秀元は暢気な声色を出したと思えば、突然真顔になる。真剣な表情に、橘は唇を噛み締め、俯いた。
「妾に生き地獄をこのまま味わえと、そう申すのだな」
蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな声だった。そんな彼女を、秀元はそっと抱きしめた。焚きしめられた香が強く香る。
「橘ちゃん、この世界が嫌い?」
――きらい……いや、妾は。
「憎い。妾はこの世が憎い」
「何で憎い?」
「元々妾がそう(・・)なることを望んだ。だが、それ(・・)は行き過ぎた、度を超えた枷と化した」
声が震える。そう、当時は弟と居ることを望んだ。それがあるべき姿なのだと思っていた。だが、次第に息苦しくなって、外に出たくなって、それから……。弟は、母を亡くしてからとうもの、何か失うことを異常なほどに恐れていた。だから、ほんの少し、些細なことに付けて橘を監視するようになった。屋敷にいても、誰かに見張られていることが常。気を病んでもおかしくなかった。誰か、心の支えが欲しかった。
彼は人と妖の世、双方で自分の立場を確立し、妻を娶り子も産まれ、育てた。橘はただ独り、誰も訪れることの無い屋敷の奥で、虚しく時を過ごすだけだった。母が生きていた頃、貴族の娘のふりをして、人の子と恋文や和歌を交わし、面白おかしく過ごしていた。あの頃が懐かしくて仕方が無い。だが、弟は頑なに許さなかった。いつの頃だったか、人の血に抗えなかった弟が亡くなったと聞いたとき、彼女はなりふり構わず側仕えのお蓮を連れて京の都を去った。
東へ流れに流れ、橘はようやく自分の道を行けると、将来に希望を抱いていた。流れた先で出会った人間の男と良い仲になったりもした。だが、決まってその相手となった男は暫くして息を引き取る。何度目かで、彼女は弟に呪いをかけられていると気付いた。だが、妖怪を相手にすれば、自分の噂が流れ足が付く。それ故に、彼女は頑として人の世に溶け込むようにした。そして、一度も身籠もることなく、数百年をお蓮と過ごした。お蓮も主の状況に、自分の生涯を考える暇など無かった。
そうして、徒然なるまま日々を過ごしてきたある日、ぬらりひょんに出会った。もうどうにでもなれと思い、彼に付いていった。そこで、ようやく刺激のある日々を過ごすことができた。ここに居ることができるのなら、あるいは……呪いも解けるかもしれない。きっと彼なら。幼稚な、浅はかな考えだったとしても、橘は希望を捨てられなかった。愛してしまったのだ。そうして、彼の妻になろうとしたそのときに、弟の使者がやって来てしまった。そして今に至る。
誰にも話したことない自分の生涯を、秀元に初めて語った。つらつらと語るその口は止まるところを知らない。
「妾は、何をしてもあの弟から逃れられぬ。じゃから、もう楽にさせておくれ……」
絞り出された悲鳴に、秀元は腕の力を込めた。消えないでほしい。彼女に酷なことだとわかっていても。
「なら、ボクに任せて欲しい。橘ちゃんの身を。ボクに託して、な?」
つとめて優しく、諭すように言う。簡単に頷いてくれないことは織り込み済みだ。
「もう何も信じられぬ妾に、信ぜよと申すか」
衣を強く掴む彼女の両手は小刻みに揺れている。
「ああ、君にかけられている呪い、ボクが解いたる。もし解けなかったら、……そのときは君の言うとおり封じよう。だから橘ちゃん、最後の機会をボクにちょうだい?」
抱きしめた彼女の耳元でささやく。その目は真剣だ。秀元は、解けるか否かは今の時点で不明だ。しかし、以前の生き肝狩りの状態を見た限り、彼女を取り巻く呪いは凶悪なものだとわかる。それでも、彼女を離したくなかった。魔性の魅力を持つ妖狐に心を奪われてしまった。花開院家当主ということも忘れて、今はただの女を振り向かせたい一人の男である。
「ならば、その言葉を信じよう。約束じゃぞ、もし解けなかったら、必ず妾を封印せよ。よいな」
橘はこれが最後、今度こそ最後だ。苦い思いを全て飲み込み、目を閉じた。最後なのだ。
「もちろん、約束する。だから、橘ちゃん、ボクのお嫁さんになってね」
橘はもちろん、の一言に一瞬安心したが、聞き捨てならない言葉を耳にした。バッと身を起こし、秀元の顔をのぞき込む。
「まて、お嫁さん、じゃと?」
「そう、ボクまだ独り身だし〜、橘ちゃんほどの別嬪さんなら貰うても誰も文句言わないでしょ」
ぴしっと右の人差し指を立てて言う秀元に、橘は薄ら笑いを浮かべる。
「そのような戯れ言を……。妾は妖、人の子でない。しかもお主ら陰陽師が追いかけてきた羽衣狐の直系の娘ぞ。花開院当主のお主がそのようなことを申せば、何を言われるかわからぬはずがない!」
「ん、だって橘ちゃんが羽衣狐の子だって知っているの、ぬらちゃんと、ボク、後は是光兄さんだけやし。誰にも言わなきゃわからんやろ。今の君、妖気漂わせなきゃ人間の娘にしか見えへんよ」
それは、橘の妖力が少ないことを意味する。事実、彼女は死にかけて妖力が多大に減った。元々生き肝の力によって増大されたものであり、彼女本来のものでないから問題はないが。
「しかし、容姿がいつまでも変わらない人が居るものか!」
「ボクのお嫁さんになったからって、誰彼構わず姿見せるわけじゃないし、それこそボクの術だって言って、若返りの薬が〜とでも言うとけばええよ。ね、安心でしょ」
何を言っても良いようにされて、言いくるめられている。けらけらと笑う目の前の男には、どう言っても無駄なのかもしれない。橘は思わず頭を抱えた。
「……橘ちゃん。もしかして、ぬらちゃんに未練がある?」
秀元はふと、彼女が心から想っていた相手を思い出す。ぬらりひょんのあの慌てた様子は、今までに見たことが無い。おそらく、本当にお互いを大事に想い合っていたのだろう。
「ある、と言えばあるのじゃろう。だが、もう彼を妾の枷に縛り付けとうない。妾は黙ってあやつを置き去りにした。結婚しようとしたその直前に裏切ったのだ。更に言えば一時とは言え、彼はあの小娘に惚れていた。血に汚れた妾よりも、清廉潔白な娘の方がお似合いというものよ」
最後の方を吐き捨てるように彼女は述べた。言質はとった、あとは手放さなければ良い。
「そう、なら遠慮無く橘ちゃんいただくわ。嫌って言っても、離さへんから覚悟してや」
「貰うことが前提なのか……。もう良い、好きにせよ」
橘は呆れて物も言えなかった。だが、不思議と嫌な気持ちではなく、心のわだかまりが、つっかえた物が取れてすっきりしていた。どこか晴れ晴れともしていた。これが“最後”だからなのかもしれない。飄々として、掴み所が無い男だが、抜け目のない人物だ。
「ふふ、これからよろしく頼むで、可愛い橘ちゃん」
これで良かったのかもしれない。額に、瞼に、頬に彼の唇が落とされる。最後に良い夢を見せてくれてもよかろう、と彼に身を委ねた。