訪れたもの

四国から江戸に帰ってきて暫く過ぎた頃。橘は久しぶりの奴良組の屋敷でのんびりとした時間を過ごしていた。ぬらりくらりとしているぬらりひょんは、相変わらずあちこちで小さないたずらをしているようである。鴉天狗が彼を探すために大声を上げているのが、橘の元まで聞こえてきた。



ある日の夕刻、虫の音だけが響く静かな縁側で、茶を飲んでいる橘のもとに、一羽の鴉が舞い降りてきた。脚になにやら白い紙を結ばれており、それを取れと言わんばかりに鴉は脚を見せつける。

「やれやれ、どやつからじゃ?」

そう言って橘はゆるやかにその手紙を取り外す。鴉は、はずされたのを見るとすぐに空へと飛び立った。それを橘は目だけで見送る。

外で見るにはもう暗いため、彼女は自室に戻り火を灯した。カサカサと音をたてて手紙は広げられる。そして、その手紙を広げて彼女は絶句した。到底信じることなどできない、いや、したくなかった。

「……っ!何故……妾のことが……。ふふ、ふはっ……ははは!とうとう見つけ出したか……」

はははと嘲るかのように笑いながら、懐かしくも、思い出したくない名を口にしながら、力無く彼女はその場に膝をつき、横に倒れる。ぶ厚い着物が衝撃を和らげたものの、橘はその冷たい畳の上から動くことができなかった。

「橘様!?どうなされたのですか……!」

物音に気付いたお蓮が、何事かと襖を開けて小走りでやってきたが、橘は口を開かなかった。いや。開けなかったのが正解だろう。

「…………いずれにしても、彼の者と一緒にいては知れ渡るのは必定か……」

側にいたお蓮はぽつりと何かを呟く主を、ただ見つめることしかできなかった。



その後、夕飯の時刻となっても橘は自室から出歩くことはなかった。彼女の妖力で襖を開けることはかなわず、お蓮や雪麗、その他の妖がいくら呼んでも出てこなかった。そのことに苛立つ一人の男がいた。

「橘に何があったんじゃ?もう一度全部言ってみぃ」

一升瓶を全て飲み干し、頬をあかあかとさせたぬらりひょんが、杯を手にお蓮に問いただす。夕食を食べ始めてから暫くは大人しくしていたものの、酒が効いたのだろう、隣や周辺の妖に絡み出したのである。

「わたくしにも何がなんだか……。ですから先程から申した通りです!」

先程から悪酔いしたぬらりひょんに絡まれているお蓮は、とうとう床にへたりこんでしまった。そして、のし掛かかり、上から見下ろす鬼の形相のぬらりひょんに力で敵わず、どうともできずにいた。そんな時、食べ終わった者たちの膳を運んでいた雪麗が台所から戻ってきた。

「ぬらりひょんったら、何しているのよ!」

その現場に驚きながらも、雪麗は小さな氷の刃をいくつか作り出し、悪酔いしたぬらりひょんへと飛ばす。突然のことに、酔っ払ったぬらりひょんは対応できず、その場に横に倒れた。

「ありがとう、雪麗……」

冷や汗を流しながら、お蓮は雪麗に礼を述べる。

「いいって、いいって。それより、これをどうするか……」

二人はその場に伸びてしまった自分たちの主を面倒そうに見た。小妖怪たちはそれをつんつんと突っついたりするが、本人は何も反応しなかった。とはいえ、総大将たる男をいつまでも放っておくことなどできず、力のある妖を呼び自室まで運ばせたのだった。



同時刻、橘は橘で、一人先程の手紙をじっと眺めていた。動揺からか妖力を抑えることができず、獣の耳や尾が現れている姿のままだった。その表情は何かを思案しているのか、目を閉じたままで、唇を固く引き結んでいた。暫くすると、彼女はゆっくりとまぶたを開く。その瞳は雲がかったように濁っており、光を感じられなかった。そして突如として、筆や硯など書くものを用意し、一枚の和紙を用意すると、文鎮をその上にのせた。それから暫く、彼女が墨を磨る音だけが静かに響いていた。



その日の夜遅く、橘は夜着に上着を重ね、音を立てぬようにしながら閨から抜け出た。下弦の月が照らす夜に、虫の声が微かに響いている。それでも、草や土を踏む足音がよく聞こえるほど静かだった。



彼女は小走りである場所に向かった。そこは、雑草が多い繁った人気の無い場所。月が出ているが為に夜にしては明るく、よくものが見えた。そのおかげで、待ち合わせていた人物が、一目で目に入った。

「…………待たせたか」

そこにいたのは、背の高い黒髪の男。

「あの頃と、お変わり無いのですな。橘殿……」

その声を聞き、彼女はうつ向いてしまった。だが、すぐに顔を上げた。

「ああ、お主は…………少し老けたかのう。……鬼童丸よ」

橘の声は少し震えており、弱々しかった。何をするでもなく視線を交差させた二人の間を、風がざわざわと吹き抜けた。その風は、橘の薄い生地の夜着を、軽やかに翻らせていた。

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