ぬけがら
橘は悶々としたまま、ぬらりひょんと共に呉服屋へと赴いた。気に入った物を選び、採寸を終えると、二人はそのまま町で買い物を続けていた。
橘の内心は嵐のように荒れていたが、表面には出さず平静を装っていた。だが今日ばかりは、何気ないことでもしみじみと心を動かされていた。どうということのない見世棚が連なる通り。たまたま生えている道端の草花。ゆったりと風に流される雲が映える、澄み切った青空。そして、隣を歩くぬらりひょんの様々な表情。全てのことがいとおしい。離れたくない。そんなことを考えていた橘は、ふと歩みを止めてしまった。
数歩歩いたところで、隣を歩いていた彼女が居ないことに気付き、ぬらりひょんは振り返る。すると、少し先で涙を流す彼女が居た。
「どうした橘……!?何を泣いている?」
「……ぬら、り……う、うう……!」
泣きながら橘はその場に崩れ落ちる。通行人が何事かと目をやりながら通り過ぎる往来。ぬらりひょんは注目を集め始めた彼女を抱きかかえ、近くにあった川の側まで駆けた。
ぬらりひょんは、午前中の彼女の動向にときどき不自然な箇所があったことを思い出していた。たまに思い詰めたような表情を見せていたのだ。だが、すぐにそれは己に向けての微笑みに変わる。思い違いかと思っていた所にこれだ。きっと何か抱えているのだろう。
しばらくの間、橘は子供のように泣きじゃくった。ようやく落ち着いた頃には、日は傾き始めていた。彼女は彼の腕に抱きかかえられたまま、ぽつりと尋ねた。
「……お主、竹取物語のかぐや姫は知っておるじゃろ?」
突然御伽草子の人物の話を振られ、彼は間抜けな顔を晒した。
「は?」
しかし、彼女にとっては真剣な話らしく、その瞳は真っ直ぐぬらりひょんに向けられていた。
「えっと……あれだよな?竹から生まれて、翁と嫗に育てられて、いろんな人から求婚されるも断り続けて、終いには月の都の者だとか言って満月の夜に帰るやつ…・・だっけ?」
「その通りじゃ。そこでお主に質問するが、主はそのかぐや姫をどう思う?」
「うーん、どう思う、ねぇ……」
ぬらりひょんは顎に手を当てて考える。
「いきなり聞かれてもなぁ。それにあんまり覚えてないから、答えようがねえな」
「そうか……。なら、答えが出たら、妾に教えてたも」
「え?あぁ、わかったらすぐに教え……」
傾き始めた日の色に染まる川の流れを彼女は憂いた顔で眺めていた。ぬらりひょんはそのことに気付き、言葉を途中でとぎらせた。その表情が言いようのないほど美しく、それでいてとても切なく悲しいものだったのだ。
そのまま夕陽が沈むまで、二人はせせらぎを眺めていた。
屋敷に帰ると、何事もなかったかのように、二人はいつもと変わらない様だった。ただ、橘が夜中まで起きていたことを除いては。
彼女は筆と硯を用意し、この前書きかけのまま放置していた文を書いていたのだ。ぬらりひょんと、お蓮に向けて。お礼と謝罪の言葉が述べられたそれらには、己のことを探さないでほしいと最後に書いた。
「これでよかろう。…………そろそろ刻限、か」
障子を開けると、外はすっかり闇に包まれていた。月は前よりも欠けており、三日月よりも細かった。
「新月ではないのか……。ふふ、妾を送り出す『翁』など居らぬからな」
彼女は一番のお気に入りの物に着替え終えると、あらかじめまとめておいた少ない荷物を手に障子を開けた。少し後ろを振り返る素振りを見せたが、そのまま静かに戸を閉めた。
「今はとて……か」
彼女は二度と振り返ることはなかった。
向かう途中、何度も足を止めた。今ならまだ戻れる、そう思ったのだ。
だが、ぬらりひょんや、よくしてくれた幹部の者たちに余計な迷惑をかけるのが目に見えて分かった。自分を欲するのは魑魅魍魎の主と呼ばれる羽衣狐。いくら強いぬらりひょんと言えど、今の彼女は昔とは訳が違う。義弟が従えていた屈強な京妖怪を従えていると言うからには、ただ守られていたあの頃とは別の者と思っていい。ぬらりひょんたちが自分のために傷つくのが怖かった。嫌だった。それならいっそのこと、自分が昔のように静かに暮らすのが一番なのだ。籠の中の鳥のように……。もうただの橘ではいられない。心などいらない。ただ籠の外から愛でられる、羽を折られた鳥になるしかない。
約束の場所につくと、既に朧車とともに鬼童丸が立って待っていた。
「お待ちしておりました、橘の君。すぐにでも京へ向かう準備はできております。どうぞ、こちらへ」
「ああ、ご苦労じゃの、鬼童丸」
「羽衣狐様もさぞお喜びになるでしょう。では、また後程」
朧車が宙に浮かんだと思うと、すぐに月が近くなった。朧車のによって近くなった月は今にも消えそうなほどに細く、彼女の失われつつある心のようだった。