ぬけがら
その様子を物陰から見ていた者が一人居た。その青緑色の肌は血の気がないのか、白さが増していた。そう、橘に昔から仕えていた濡れ女のお蓮である。
「あ、ああ……橘様。橘さまぁぁぁ!」
魂が抜けたかのように呆然と立ち尽くしていたが、正気となった途端、その場にむせび泣きながら崩れ落ちた。その頃には、彼女の敬愛する主は空の彼方であった。
彼女は、橘の様子がおかしいことに気付いていた。だが、それを口に出すことはなかった。やたらに突っ込んで、墓穴を掘るのがいやだったのだ。そして、主からどうか見逃してほしいと書かれた直筆の文を見つけてしまっては、どうすることもできなかった。
翌朝、奴良家の総大将は愛する者の居なくなった、もぬけの殻の部屋を見た。その様子を雪女と鴉天狗がそばで見守っていた。そしてその部屋には、橘がぬらりひょんに宛てた文を持ち、叩頭した姿のお蓮が居た。
『初めに、妾が勝手な振る舞いをしたことを許せなどとは言わぬ。だが、どうか見逃してほしい。
そなたに全てを語ることは、やはりできぬ。妾がどこへ行ったのかは、教えることができない。これは妾からの願いじゃ、何があっても探してくれるな。そなたに迷惑を、……もっと言えば、妾のせいで命を落とすことになるのは避けたい。
そして、もう一つ。そなたと過ごした奴良組でのひとときは、とても幸せだった。この何百年という長い妖の時間で、一番楽しいものであった。それだけは本当じゃ。
そして、ぬらりひょん。そなたとの約束を破ることになってしまった此度のことは、妾の本意ではないことは忘れないでほしい。真に申し訳がない。
最後に。かぐや姫の話は、このことがあったから聞いたのじゃ。勝手に消える女に対して、そなたがどう思うか聞きたかったのだ。かぐや姫が残した和歌、そなたならわかろう。妾は、ほんに……ああ、最後にそなたに会いたかったことよ。名残惜しいが、さようならば』
最後の方は急いで書いたのか、それとも手が震えたのか。彼女は達筆な文字を書くのだが、所々線が不自然に曲がっていた。
文を読んだぬらりひょんは、暫くその場に立ち尽くしていた。彼の悲愴な顔を見れば、誰も声をかけることはかなわなかった。
その日、奴良組はいつになく静かだった。小妖怪たちが騒ごうとしても、周りが通夜のような雰囲気では、悪戯も何もすることはできなかった。
その日の夕方、緊急総会が開かれることとなった。元々近日に行う予定があったため、遠方が来ていたのもあり、夜には殆どそろっていた。上座に座るぬらりひょんの顔は朝とは違い、その目の奥底で激しい炎が燃えさかえているようだった。
「総員全力で、橘を探し出せ!何年かかってでも、彼女を見つけるんだ!」
同刻、大阪城。豪華絢爛な装飾が施された間に、二人の女が居た。
「おお、おお!なんと久しいことか、妾の愛しき橘よ!さあさあ、面を上げよ」
煙管を置き、上座に座っていた女は叩頭する者の元へと駆け寄り、顔を上げさせた。
叩頭していた女は、感情のこもっていない返答をした。
「お久しゅうございます、母上」
だが、母は気にもしていない様子であった。
「さぁ、今から生き肝を喰らう所じゃ。そなたも見てゆけ。面白いぞ?」
そう言って、母――羽衣狐こと、淀殿は無感情の橘を隣の間へと誘った。
「……母上の仰せのままに」
橘は一言述べると、再び叩頭した。
彼女は服従するしか、この場で生き残ることができないと知った。この大阪城の主は、目の前の女――淀殿であるが故に。彼女に逆らえば――たとえ妖怪であろうと――容赦なく裁きを下す。
この城に彼女の味方となる者は居ない。
橘は、鋼より堅く分厚い衣で己の心を覆い、この孤独な城で生き抜くことにした。天の羽衣を纏ったかぐや姫のように物思いをなくす他、この大阪城で暮らすことはままならない。そうでもしないと、すぐに消えてしまう気がしたのだ。この現世から。
彼女は特別な力を持つ人間の娘たちが、『側室』と称されて城に呼ばれては羽衣狐の喰らう生き肝と化す瞬間を、生気の無い漆黒の瞳で眺めるのだった。そんな日々が、延々と続くのだった。何日、何ヶ月、何年も。