黄昏時の告白
「……橘よ。暫しの間と言わずに、ここでずっと過ごさないか?」
ぬらりひょんは、腕に抱いていた橘をそっと屋根に下ろすと、後ろから抱き締めながら彼女の耳元でささやいた。
「……何を言って、……っ!」
橘はいきなりのことに彼から離れようともがくが、彼女が身にまとう何枚も重ねた重い着物が邪魔をする。その上、後ろから更にきつく抱き締められ、最早逃れようとする行為は、自分の首を絞めているのと同じことだった。
「やはり、お主のように美しい女が居れば、この組はとても華やかで活気も増そう。じゃが、それより最も重要なことがある」
そう言ってぬらりひょんは一間おく。
「あんたを、ワシのただ一人の女にしたい」
彼が告げたその言葉に、橘はあまりの驚きで言葉を失う。そして、うつむいて動かなくなった。
太陽の光が、そんな彼女の影を更に濃くする。垂れ桜の枝葉がさわさわと風に揺られ音を出す。
暫しの沈黙の後、橘がようやく口を開いた。
「ぬらりひょん……。妾は、その言葉に返すことはかなわぬ」
ぬらりひょんは、動かなくなった彼女への抱擁を少し緩めた。
「どうしてだ?他にあんたの好い人がいるって言うのかい」
彼の頭が、橘の左肩にもたれ掛かる。日が沈む直前、いっそう輝きが増した光が二人を包んだ。
「……ない。だが、そのような男女の関係になど…………」
震えた声で彼女は言葉を返す。
橘はふと、今までのことを思い返していた。ぬらりひょんと出会い、奴良組へと加わり、珍しいものを見る視線を浴びながらも、日々を過ごしてきた。
ぬらりひょんの注意を引き付けていることは初めから知っていた。そのうち、その目付きが熱を孕んだものに変わっていったことに気づいた。いずれ他の女に切り替わると、そう思っていたが……。
周囲からも夫婦だの好い人だの噂されていることは知っていた。それでも気のせいだと思い込みたかった。
「お主と出会ったのは一ヶ月ほど前だったか」
ふと口から思ったことがもれた。
「一ヶ月……。もうそんなに経つのか」
ぬらりひょんは、そんな彼女に同意するようにつぶやいた。
出会ったのは近江の片田舎。出入りという名で橘御前を探しながら、捻目山の近くに暫し滞在した。想定外のことで彼女と接触し、彼女を連れ出すことができた。それから戻ってきて総会を開いたり、名もない雑魚妖怪たちとの小さな抗争を繰り広げたり、なんだかんだと忙しく、二人がゆっくり話すことはあまりなかった。それでも、ぬらりひょんは暇があれば、彼女の同行を陰から見守っていた。そして、橘への恋情を日に日に募らせていった。最初に出会ったときは、ただの美しい女だと思った。だが、いつからか己のモノにしたい。そんな考えが脳裏をちらつくようになっていた。
ぬらりひょんがそんな考え事をしていると、橘が前と同じことを口にする。
「妾は言うたであろう。見えない鎖に縛られていると、その枷に捕らわれている身だと」
橘は言い終えると、ぼんやりと闇に染まりゆく空を見上げた。
屋根の上にいるせいか、二人は風が吹きすさぶのを強くその身に感じとった。銀と黒の髪が風にさらわれて、日が沈んだばかりの闇のなかでなびく。霞んでいた三日月が姿を露にし、薄明りで地を照らす。
「……なら、橘。このワシがお主の枷を砕いて外そう」
彼の言葉にハッと我に帰り、橘は緩んだ彼の腕の中から抜け出し、ぬらりひょんと向かい合って立った。
「……何を馬鹿なことを!?あれを外すことなど、何人たりともかなわぬ!」
「どうしてそう言える?」
存外冷静に、低い声色で返したぬらりひょんに、橘は一瞬畏れた。ぞくぞくとした震えを感じ取った途端。
彼の姿が見えなくなった。
―今から半月ほど前―
『よう、橘』
『ぬらりひょんか。ふふ、また鴉天狗に追われてるのかえ?先ほど、彼の者が鬼の形相で探してたぞ』
『ハハッ。ワシの畏れはぬらりくらりと消えることじゃからな。見ようとしても見えぬ。そこにいるのに見えない。それが、ぬらりひょんという妖怪であるワシの力じゃ』
『ほう、そなたの畏れ、いつか見てみたいものよ。今消えられても困るからのう……』
ぬらりひょんの畏れ。それは、姿形が見えなくなるというもの。橘は、彼が一瞬にして消えたのは畏れを発動したからだ、とすぐに気づいた。
―しまった!
だが、彼女がそう思ったとき既に遅く、目の前がゆらっと歪んだ、と思ったら彼の顔が目と鼻の先にあった。
―ああ、目の前に移動してきたのか。
そして、橘は自分の唇に何かが触れていることに気づいた。
至近距離に感じるぬらりひょんの気配、後頭部と背中に回されてる彼の腕、そして何よりも目の前に彼の整った顔があることで、彼に口吸いされていることをようやく理解した。
触れるだけの簡単なものだ。
それ故に、すぐにぬらりひょんの顔は離れたが、彼の腕は離れなかった。
「……橘。ワシはお主のことで胸が締め付けられてばかりじゃ。それなのに、お主はいつもワシのことなど露知らず、飄々とたたずんでいる。じゃから、せめてその瞳に映り込みたい。心にとどめてほしい」
「ぬらりひょん……」
「惚れた女が振り向くまで、ワシは諦めぬ。覚悟しておくんじゃな、橘」
恋などに今まで縁の無かった橘は、呆気にとられながらも、彼からの募る想いをどこにやれば良いのか、と悩まされるのであった。目の前で自信満々に笑みを浮かべる男に尋ねても、意味のないことは明白である。誰に相談しようにも、ここの連中では、噂に尾びれがついて飛び火するのも容易に想像つく。お蓮に関しては、彼女もまた恋に縁の無い者である。結論として、己の心に尋ねるしかないのだと、橘は自身に言い聞かせることにした。
その後、ぬらりひょんからの愛の言葉を聞かされたり、態度を見せ付けられることになるのだった。