ゆめうつつの桜
橘のお誘いから数日後。
ぬらりひょんとのお出掛けに行く日になった。橘は、現在お蓮に化粧をしてもらっており、唇に紅をさしている所である。
「……のう、お蓮や。この紅はいささか度が過ぎぬか?」
手鏡を片手に橘が指摘する。お蓮はというと珍しく反抗し、その程度で構いませんの一点張りでずっと聞き入れない。
「着物も少々派手ではないか?地味な方が目立たなくて良いのだが……」
いつも着る打ち掛けではなく、動きやすいようにと出掛けるための着物を用意するよう橘は前もって言っておいたのである。古くなった着物が新調されて新しいものに変わっていたは良い。それは良いのだが、如何せん目立たない着物は一才なく、着飾るための派手なものばかりだったのだ。これには橘も開いた口が塞がらなかった。
「橘様、何をおっしゃっていらっしゃるのですか?せっかく殿方とお出掛けになるのに、何故地味な格好をする必要がありましょうか?いいえ、ありません。さあ、この機を逃してはなりません!あなた様は何百年も独り身であられた。このお蓮、我が身をすり減らしてあなた様の幸を願ってきました。その念願が今!果たされようとしているのです!」
お蓮は橘につける髪飾りを手に、熱く燃えたぎっていた。一息に言い終えると、櫛で髪をすき始めた。橘は、彼女の好意を無にしてはならないと使命感のようなものを心にはらませた。長い漆黒の髪が、お蓮の手によって結われていく。
それを見ていると、昔まだ幼い頃、母に髪を結われていたことを思い出した。もう実の父の顔を覚えていないことも。義父は一度しか見たことがないため、覚えていなくて当たり前である。それらが何百年も前ということを考えると、我ながら長生きしてきたものだとどこか悲しくなった。
血の繋がった家族は既にこの世を去っている。いや……親戚、と呼べるか怪しいが一応は居ることを知っている。だが、最早自分は過去のものとなっているだろう。
世の中から消え失せた存在。
それが橘御前。
今ここにいるのはただの橘。
そう言い聞かせているうちに、髪結いが終わった。漆黒の髪にさしてある白銀の簪が日に照らされて反射し、まばゆい光を放っている。それは、ぬらりひょんから送られたものだった。
奴良組にやって来て1ヶ月以上が経った頃だったか。手渡しで渡されたものだった。白く光る簪を見て、闇に染まった己には似合わない、そう思ったのだ。しかし今、目の前で自分の髪を飾るそれに思わず感嘆した。黒い髪の中でまばゆく輝く簪が、ひときわ目立っていた。
ぬらりひょんが何を思って買ったのか知らないが、橘は彼の目に狂いがないことを示唆されたようで嬉しくも憎らしく思えた。
「仕上がりましたわ。ああ、なんとお美しいことか……!今日は格別です!」
お蓮が、立ち上がった橘を見てほう、と惚ける。絶世の美女と云われる主だが、化粧を施すことによって更に格別のものへと変化した。お蓮は自分がこの方に仕えることができて良かったと、心から思った。
「私が殿方でしたら、あなた様を人目に触れぬようにしてしまいます……。はあ、ぬらりひょん殿が羨ましくも、憎らしゅうございます」
「お蓮……、ありがとうな。そなたのような側近が居てくれて助かった」
そう言って微笑む橘。お蓮もそれにつられるように笑みをうかべた。
「支度が整いましたので、ぬらりひょん殿に伝達して参ります。橘様はこちらでお待ちくださいませ」
「あいわかった」
では、と告げてお蓮が襖を開けて出ていく。静かな空間に、小鳥のさえずりがほのかに聞こえてくる。風が吹いて木々を揺らし、枝葉が擦れる音がする。
昔と同じだが、今はのどかで風情のある趣である。と、思考に浸っているとぬらりひょんだろうものの足音が聞こえてきた。スッと襖が開いた。
「よう、橘。朧車の用意ができてるぜ。いけるかい?」
高らかに彼がたずねた。
「ああ、待たせてすまない」
そう言って後ろを振り返る橘。ぬらりひょんの目と己の目がかちあう。そのとき、お互いに言い様の無い何かが胸に芽生える。
「……」
「…………」
どちらも何も言えなくなり、目のやり場に困る。その沈黙を破ったのはぬらりひょんだった。
「……その、簪つけてくれたんだな。ワシの思った通り、似合っておるぞ」
恥ずかしいのか、目をそらしながら彼が言う。
「……そ、そうか」
他にも言いたいことがあるのに、何故か口にすることができないもどかしさを感じる二人。ちらちらと相手方を見やってはまた目をそらす。数分ほど経って、やっとぬらりひょんが手を差しのべ、朧車へと案内した。
そんな二人の様子を影から見やるものが居た。鴉天狗、雪麗、お蓮の3者である。
「総大将……うぅっ……。これでうちの組も安泰じゃ……」
鴉天狗は、着物の袖を目頭に当てて涙をぬぐっていた。一方、雪麗は総大将を昔から慕っていたために、嫉妬の念を抱いていた。だが、橘に心底惚れ込むぬらりひょんを見て、橘には敵わないとさとった。そのため、自身の感情が入り乱れているのだった。
「バカっ、ぬらりひょん!さっさと案内しなさいよ!ああ、でもあの人の唇は絶対奪ってやるんだからね!」
「雪麗……。我が主の邪魔はさせませんからね」
橘の幸せを第一に考えるお蓮は、仲の良い雪麗の言うことであれ、容赦を見せぬ構えである。
実はこの3人、出掛ける二人の秘密裏に選ばれた護衛である。何かがあってからでは遅いため、手が空いておりかつ迅速に対処できる者たちに任されたものである。
「朧車に乗りに行きましたよ。我らも早く追いましょう!」
お蓮がその場に引っ付いて動かない雪麗を引っ張り、嬉し泣きしている鴉天狗の翼を鷲掴みにする。
「〜〜っ、わかってるわよお蓮!ほら鴉天狗、行くよ!」
雪麗は、自分の左腕をつかんだお蓮の右手を振り払うと、一緒になって鴉天狗を引っ張り始めた。鴉天狗は未だに嗚咽を漏らしながら嬉し涙を流していた。彼が泣き終わるまで、延々とお蓮と雪麗の二人は彼を引きずっていたのだった。