ゆめうつつの桜
その頃。朧車の中で、ぬらりひょんと橘は目的地の話をしていた。
「この季節は桜が綺麗じゃからのう。近場に、桜がたくさん見られる綺麗な場所があるんじゃよ。楽しみにしておれ、橘」
ぬらりひょんが笑みを浮かべて橘の方を向く。平安時代からの癖なのだろう、橘は扇で顔を隠しながらぬらりひょんに目を向けてうなずく。
「そうか……ふふ。妾の知るものより、どれほど美しいか見物じゃのう」
「ハッ、そんなことを言っていられるのも今だけじゃよ。目にものを見せてくれるわ」
妖艶に、だが上からものを言うように橘がぬらりひょんへと言う。ぬらりひょんは自信があるようで、物怖じせずに鼻で笑った。
一刻もしない内に、ぬらりひょんの言う場所についた。ぬらりひょんが先に朧車から下りて、橘の手をとりゆっくり下ろす。
「さてと、少し歩くぞ」
彼の言葉にうなずくと、ぬらりひょんと
が橘の手を離さずに歩き出した。橘は片手を引っ張られてよろけそうになったが、なんとかこらえて彼のあとに続いた。
彼に続いて歩いていると、だんだんと薄桃色のもやが前方に見えてきた。だが、すぐにそれが違うと気づいた。
「……!」
それはもやなどではなく、満開になった桜の花だった。周りの景色が、全て桜の色に染められていたのだ。
地面も元の土や草の色がわからないほど、桜の花びらによって埋め尽くされていた。見渡す限り桜なのである。柔らかであたたかな風が吹く度に、舞い散る桜と地面に落ちた桜の花びらが舞い上がり幻想的な風景を生み出す。
あまりのことに、目を見開きながら橘は声を上げることができずにいた。ここまで桜に包まれた景色があっただろうか?いや、なかった。
「どうじゃ?橘。お主の見知ったものより凄かろう?」
ぬらりひょんが自慢気に尋ねてくる。橘はただこくりと、わずかに頭を動かしうなずくだけだった。それしかできないほど、見惚れていたのである。この夢か現かわからない桜の世界に。
「これは、夢…………ではないのだな」
ひらひらと舞い散る花びらを手に、橘は呟く。手にした薄い桃色の花びらは、ほの冷たい触れ心地だった。
「ぬらりひょん……。お主には驚かせられてばかりよ」
静かに、橘が思いを述べる。
「そう言ってもらえて光栄じゃ」
彼はそれにふわりと微笑んだ。
「ぬらりひょん、ありがとう……。妾のようなものを、かようなばしょに連れてきてくれて」
橘が嬉しげに笑う。今までに見せたことのない、心からの想いがこもった笑いだった。
ぬらりひょんは、それを見てここにつれてきて良かったと、安堵したと同時に彼女へ恋情が更につのった。恋することに歯止めをかける見えざる何かしらを、己の手で絶ちきってやりたい。その思いが胸に強く刻まれた。
そう思っていると、ぬらりひょんは背中にほんのりとした暖かみを感じた。
何かと思って後ろを見やると、橘が己に寄り添っていたのだった。うつ向いているために表情が見えないが、恥ずかしがっているのだろえと察しがついた。
橘の方はというと、本当にこんな事をしていいのか?これで良いのだろうか?と、奴良組の屋敷に置いてきた側近に、疑問を覚えていた。側近のお蓮が、昨晩のうちに言ってきたのだ。それを要約すると、『橘の心には、ぬらりひょんへの何かしらの思いがある。彼に何かしら愛情表現をすれば、彼からもそれへのお返しがくる。それをどう思うか、その思いの中に答えがあるはずだ』と。
はたして、それが正しいものかどうか。橘にはわからない。だが、何もしないままここで終わるのはよくない。そう思って彼にそっと背後から寄り添ってみたのは良いが……。彼からどんな反応されるか、橘にとっては末恐ろしいものがあった。
―ああ、私はどうなるのだろうか?
―嫌われてしまうのは嫌だ
「……橘」
声が頭上からかかってきた。ハッとして上を向くと、やわらかに包み込まれていた。ぬらりひょんが抱き締めてきたのだ。驚きで目を見開かせるも、何故かすぐに安心して目を閉じた。そして彼に身を任せ、その大きなからだに寄りかかった。
「橘、ワシとずっと共に居よう。お主と離れたくないんじゃ」
ぬらりひょんが、心の内を明かす。
その言葉に、橘はとあることに気づいた。
『ああ、妾はこの者と離れたくないのか。ずっと、ぬらりひょんと妾の二人でいたいのじゃ……』
好い人や夫婦になりたいなどとはまだ思っていない。ただ、ぬらりひょんと共にありたい。それをひしと身に感じていた。
「……も、妾も共にありたい」
か細い声だが、ぬらりひょんにははっきりと聞こえていた。
「ただ、ぬらりひょんと一緒に居たい」
「それで良い……橘、ワシの側にずっと居てくれ。約束じゃ」
そう言うと、ぬらりひょんは橘に口づけた。橘は嫌がる素振りなどしないで、ただ彼の動作に身を任せていた。
桜の世界で、惹かれ合った二人が誓いを交わす。
このとき、運命の歯車は既に回り始めていた。今は静かに動いているそれが、音を立ててその存在を明らかにするまで、まだ時間はある。だが、密かに二人へ魔の手を伸ばし始めている。彼女に絡み付いている消えかかった呪縛もまた、じりじりとその力を再生していたのであった。
同時刻
奴良組の屋敷では、護衛についたはずの3人が言い争っていた。
「鴉天狗のせいで、我が主たちを見失ったではありませんか!橘様の御身に何かあったらどうしてくれるんですか!?」
お蓮が畏れを発動しかけているのか、彼女の肌が青緑色に変色しかけている。本来は蛇に近い姿のため、緑が色濃くなっているのだ。おまけに、髪もいつもより波打って湿り気が増しており、口もどんどん裂けているように見える。
雪麗も畏れを発動し始めた。彼女の周りにはいつも冷たい空気がまとわりついているが、普段より更に激しく最早冷気と呼べるほど温度が下がっていた。身の回りに置いてあるものが、パキパキと音をたてて凍りついている。
「あんたがいつまでもめそめそ泣いてるから、こうなったんじゃないのさ!あーもう、それでもお目付け役なの!? 」
責められているのは鴉天狗で、二人の女に囲まれているのである。旗から見たら正妻と愛人との痴話喧嘩に見えなくもないこの光景。だが実際は主たちの護衛に着いていけなかったという失態についてのもの。
「……そ、それは、だな。えーと、その……」
「問答無用です!鴉天狗、覚悟!」
「まままま、待てぇーー!」
言い訳を探す鴉天狗だが、お蓮に一太刀浴びせられたのだった。最後に雪麗に氷漬けの刑にされて、総大将と橘が帰ってくるときまでカチコチに凍っていたそうだ。