差し込む影
目を開けると、ここがいつもの部屋でないと気づいた。身を起こし、自身がまとっていた打ち掛けがないことに気づく。寝るときに身に付ける襦袢になっていたのだ。枕元には水差しと茶碗があった。喉が乾いていたので、自分でそれをいれ、喉を潤すことを先にした。
「……今は夜か」
障子を開けると、強い日の光ではなく柔らかな月の光が差し込んできた。すると、すーっと戸の開く音がした。
「お目覚めでしたか、橘様」
入ってきたのはお蓮だった。
「妾は暫く寝てしまったようじゃのう。やはり、慣れぬ船に乗っておるからだろうか?」
お蓮がすぐに用意した上着を羽織り、彼女に茶を入れてもらう。
「おそらくそうでしょう。私めも疲れてまして、雪麗に休めと言われました……。明日の朝には着くそうですから、今のうちにと」
「そうか、予想よりちと早いのう」
「私は橘様のお付きとして、駐屯地では護衛をすることになっております。最初は動かず、本陣の中にて様子を伺うことぐらいしかできないそうです、……まさか、橘様も戦闘に加わるなんて言いませんよね?」
布団を整えながらお蓮が尋ねる。それに橘はピクリと反応した。
「何じゃ、戦ってはいけないのか?久しぶりに畏れを発動させて、戦場を駆け回ってみたかったというに」
機嫌が悪くなったのか、橘は眉をひそめる。お蓮は布団を整える手を止めて橘の方へ足を運ぶ。
「何てことを!!そのようなこと、あなた様のすることではありません!第一に、女子が戦などと……」
「妾が昔、剣を手にしていたのを忘れたのか?なんなら、鉄扇でもよいぞ。……確かに、常日頃から武の鍛練したものには劣ろうが、妾ほどの妖気を持つものはそういない。そこらの中低級なぞどうにでもなる」
彼女は戦闘に向くとは言えない妖である。むしろ、呪いを使って貶めたり人に化けて人を惑わしたりなど、後衛で援助したり補助をする方が得意である。だが、ある程度力のある妖怪故に、畏れを発動させれば下級のものは戦わずして退いていく。
「ですが、剣を手にしたのはいつが最後でしょうか?鬼童丸殿に教えていただいてたのも、五百年以上前のことです」
「…………鬼童丸か、懐かしいのう。……じゃが、会いとうないし、京には帰りたくないのう……」
「…………」
橘は、そう言うと開いた障子から外を眺め始めた。
「母上は、いつまで呪縛に縛られるのであろうか……?風の噂にきいた話では、七度転生し、また失敗したと……」
そう言う彼女の顔は、悲しみに満ちていた。
「羽衣狐様は……、まだ転生し続けるのでしょうか」
「おそらく、そうなるじゃろう。"あやつ"の術にぬかりはない。妾たちも、いつまでここに居ることができるかのう……」
二人は黙りこんでしまった。京妖怪たちが、未だに探し続けているとの話をちらと聞いたのだ。何を、とは言わずともわかるだろう。大切な主の親類、それも病んだように外に出さず、屋内で愛でていた人物だ。居なくなった、では済まない。
「あそこは窮屈で仕方がない。外に出てはならぬ、他の者と話してはならぬ。ならば、妾は何をしていればよいのだ?書物は限られたものしか読めぬ、手下と少しでも話せばそやつは罰せられる。妾と口を交わせるのは、もはやお主のみと言っても過言ではない。あやつがくれば、にこにこと笑いご機嫌をとる。もう、そんな生活など……」
最後の方は、悲鳴をあげるかのような甲高く、か細い声だった。
「橘様……」
「妾は、あやつが甦るまでいつまででも待つなどと申した。当時、妾は晴明が愛しくて、愛しくて仕方がなかった。母上を殺されてしまったために、晴明しか妾には居なかったのだ。じゃが、あの生活をずっと強いられるなぞ、妾は我慢などできなかった。そこまで自分の身を犠牲にしてまで、今の母上のように晴明が帰るのをを待ちわびるなどできないのじゃよ。……お蓮は、あそこに居たかったかえ?」
その問いに、お蓮はすぐ答えることができなかった。橘の本音を聞かされたのは初めてだったのだ。彼女は、今までこのことを話したがらなかった。暫くの間、お蓮はどう答えるか迷いに迷った。
「正直に申し上げて、私は今の生活がとても楽しゅうございます。昔は、ただただ主にお仕えして、人間たちが屋敷にやってくれば追い払い、そしてその肉や肝を喰らう。それは、今考えれば妖としての一つの生き方でありましょうが、今の生活の方が心が安らかですし、この方が私は好きです」
ようやく、柔らかに微笑んで彼女は答えた。
「…………そうか。ここの暮らしは良いか……」
その日はそれっきり、二人は会話をすることはなかった。それでも、二人の顔に暗い影はなかった。
そして、次の日の朝。宝船は四国の地、その中でも北東に位置する讃岐についたのであった。