母の死
―蘆谷道満の屋敷
「あの狐女、早々に妖の姿を見せればよいものを……未だに人の形で居るとは」
ひげを蓄えた小さな老爺―道満は配下の者を呼び寄せ、捕らえた女をどうするか話し合っていた。
「はい、その上に安倍晴明の情報を手にすることができません。拷問にかけたいところですが、あの容姿故……。いかがいたしますか」
配下は若い男だった。心優しいところがあるのか、拷問には反対しているようだ。
「おぬし、美しく若い女の姿だからできぬと申すか!?相手は妖じゃ、命を取られかねんぞ、このうつけが!」
道満は配下を叱りつけると、何枚かの札を手渡した。
「その札を奴の周りに貼るのじゃ。妖力を持つ妖にとっては拷問のようなものよ。直に手を出すわけではない、おぬしでもできよう、のう?」
「……御意」
若い男は、渋々とその札を貼り付けに倉へと向かった。
倉の中では、綺麗な娘の姿をした妖が倒れ込んでいた。一刻ほど前に来たときは座っていたが、体力が無くなったのだろう。
道満の配下は、それを見て札を張り付けるのをやめようかと思ったのか、その場から動けなくなった。この若い娘を逃がしてやりたい……そんな気持ちになった。
「……あの」
彼の口から思わず言葉が出た。それに、妖がピクッと反応した。妖が地面から起き上がると、綺麗な艶のある黒い髪が重力に逆らうことなく、さらさらと滝のようにこぼれ落ちた。髪の間からはこの世のものとは思えぬ美しい顔が見えた。
配下の男は、それに見惚れてまた固まってしまった。
「なんじゃ、道満ではないのか。下走りが何のようじゃ?妾を滅するために来たか」
鈴が転がるような高い声だが、強い意思の感じる言葉であった。ただのか弱い女ではないことを物語っていた。
「あなたは、妖……なんですか?」
男は怖々とたずねた。女は、何でもないかのようにそうだと言う。
「何故、人の形をしているのですか……?」
それには、相手も驚いたようだ。
「何故……とは、困ったことを聞く。ふむ……強いて言えば、妾が生きるため…じゃ。これでどうかのう……」
女はくすくすと笑った。ああ、人も妖も生きているのか。男がそう思ったとき。
この女の妖以外の妖気を感じた。殺気も混じっている。
「ほう、茨木童子か。奴なら鬼童丸を仕向けてくると思ったが」
すると、女の妖の前に、顔の半分を卒塔婆で隠した男が現れた。男は黒い狩衣をまとっていた。
道満の配下は身動き一つできなかった。
「手間かけさせんなよな、橘よォ。鬼童丸なら外で見張ってるぜ、俺が短気だからってな」
そう言って、茨木童子は刀で鎖を断ち切った。
「すまぬのう、茨木よ。ああ、そこの男は殺してくれるな。奴は道満に命じられた憐れな下走りじゃ」
茨木童子は、配下の男に刀を向けようとしたが、橘に言われて刀をしまった。その後、橘を横抱きにし、倉から出ようとした。
「そうじゃ、そこの男よ。ぬしとの会話、実に面白かったぞ。また会えたら茶を用意しよう」
すると、一瞬にして彼らは消え去った。配下の男はただただ、立ち尽くすしかなかった。己が見惚れた妖の女は逃げ切った。それでいいじゃないか。
―ああ、道満様にはお叱りを受けるだろう。
だが何故か配下の男の心は、晴れ渡る今の空と同じように澄みきっていた。
「橘の君、御無事でありましたか!」
道満の屋敷から離れた場所で、鬼童丸と落ち合った。彼ら二人で探していたようだ。
「心配をかけて申し訳なかった。奴等が妾のことを妖だと気づいたことが、わかっておればのう」
橘は、申し訳なさそうに眉をハの字にして言った。鬼童丸ははあ、とため息をついて、朧車を呼び寄せた。茨木童子がどこからか羽織を取りだし、橘の肩に羽織らせた。
「寒かっただろう、羽織っとけ」
橘は、思わぬことに驚いたが、すぐにありがとうと答えた。茨木童子は照れたのかそっぽを向いた。
「橘の君の屋敷に戻りますぞ。あなた様の侍女たちが心配しておりました」
鬼童丸が思い出したというように、早口で告げた。
「そうじゃな、彼らにも心配をかけた。だが、……もう京には住めぬな。またあそこに居れば、道満らに何かされるのは明白じゃ」
「左様ですな。晴明様、羽衣狐様にもそのように申し付けましょう」
朧車が着いたため、彼らはそれに乗り込んだ。そして、橘の君の屋敷へと向かっていった。