外の世へ

母―羽衣狐の死から十年以上がたった。晴明はあれ以来、人間たちを下に見て扱うようになった。表面上は今までと変わらない陰陽師として過ごしているが、裏では妖の主―鵺―として百鬼夜行を操っている。

そして、姉の橘は都から離れた山奥で、ひっそりと晴明の手下の妖たちと暮らしていた。人間界とは離れた山奥のため、自由気ままにのんびりとした時間を過ごしている。鬼童丸や茨木童子などがたまにやって来ては橘と会話を交わしていた。鬼童丸には、時折武器を使った戦いの指導をしてもらい、出入りや何者かに襲われたときの対処方にした。茨木童子や狂骨もまれに混ざっていたりしたので、並み以上の実力にはなっていただろう。

そんなある日、橘は久々に外に出たくなった。いつもは自分の住む屋敷の周りしか出歩かないが、とても心地好い日が射していた為に出掛けたい気分に駆られたのである。

「誰ぞおらぬか?」

橘は、小袿姿で自室を出て、縁側へと足を運び配下のものを呼んだ。だが、いつもなら返事する者が今日は反応しなかった。

「何じゃ、誰も居らぬのかえ?」

「橘御前殿!お呼びでございましょうか」

タタタタと、駆け足で現れたのはこの屋敷に長い間仕えている狸の妖であった。

「外の世を見てみとうなったからのう。久々に出歩こうと思ったのじゃ。そのことを伝えようとな」

橘は扇で口元を隠してほほほと笑いながら手下に告げた。狸の妖はそれを聞くとビックリして顔を赤と青の交互に染めた。

「……な!御前殿、それはなりませぬぞ!我らが主の命をお忘れか?」

主の命とは、橘御前を外に出さずに屋敷内で生活させることである。屋敷の周りには広大な結界を張ってある。屋敷は妖力のあるもの、つまりは妖しか認知できないようになっている。母の死因が、人間たちに見つかってしまったためであることを考慮し、晴明が自分たちの住まう屋敷のために編み出したものである。橘は戦うことを得意とする妖ではないため、何か事が起こっては後の祭りであり、母の死の二の舞である。そのために、晴明が結界を張ったこの屋敷から出ないように命じていたのである。

「ほほ、晴明の言うことなぞきかぬよ。あやつは少し過保護すぎる」

「しかし!主はあなた様の身を案じておられるのですぞ。その上、外には人間どもが群がっております、どうか御考えを……」

橘は必死の表情の手下を見て、ふむと考え始めた。どうにもこの手下は通してくれそうにない。鬼童丸も同じことを言うだろうし、茨木に至ってはついてきそうである。他の妖も、きっと何がなんでも屋敷に留め置こうとするだろう。と、ここで、一人で出歩かなければ良いのではないかという考えに行き着いた。

「ならば、一人で出歩かなければ良いのか?」

「……橘御前、どうしても行かれたいのですか?」

「何年もここに籠っておるのじゃ、お主とてずっと出歩けないのは辛かろう?」

どうじゃ?と、子供に言い聞かせるかのように優しく問いかける彼女に、配下の妖はとうとう根負けした。肩を落として大きくため息をつくと、暫く自室で待つように告げて他の妖達がいる部屋へと急ぎ足で戻った。

あれから暫くの後、狸の妖は人の形をした別の妖を連れてきた。その間に橘は、むしの垂れ衣を着けた市女笠を用意し、外に出れるようにしていた。

「橘御前殿、こちらはこの屋敷の妖の中でも群を抜いて人形に瓜二つのものでございます。この者ならば、外の世でも見目を気にせず歩けましょう」

「濡女の蓮と申します。此度は、橘御前殿の付添人としてのお役目を仰せつかりました」

濡女のお蓮はそう言って頭を下げた。水で湿ったような彼女の髪が、するすると地に落ちた。

「面を上げよ、お蓮。そなたが付き添うてくれるのか。して、妖力はどの程度かえ?」

橘は扇をゆったりあおぎながらたずねた。顔を上げた濡女は、とても薄い青緑色のような肌をしていた。そして、彼女の瞳はとても濃い青をしており、髪の色は紫がかった黒であった。

「人を亡き者にすることは容易いこと。妖ならば、並大抵のものならば致命傷を負わすことはできましょう」

凛とした声でお蓮は答えた。その様子に、橘はほくそ笑んだ。

「良かろう、そなたを妾の護衛とする。そこまでの力があるならば如何様なものとて妾を捕らえることはできぬ」

そう言って、手にした扇を閉じて、スッと立ち上がると橘はお蓮に近づいた。閉じた扇でお蓮の顎を上に向けさせ、まじまじと顔を見つめた。

「なかなかの顔立ちじゃ。これなら、妾の側を歩いたとて何も問題はない。さて、用意が整うておるなら早速外に向かうぞ。此度は少し遠出をするつもりでな」

「御意」

二人は屋敷を出て、獣道に沿って結界の外へと出た。そして暫く森の中を歩き、雑草が生い茂ったところを歩く。橘が前を歩き、お蓮が後についていく形であった。

「お蓮は、この屋敷から出たことはあるじゃろう?」

ふと、橘がお蓮に聞いた。

「はい、ここに来るまえまで、浜辺や海辺で人を襲っておりましたので。……あのときは、人に対する怨みの念しか持っておりませんでした」

お蓮は声を低くして答えた。それに、橘は歩む足を止めて振り返った。

「……そなたは、人が嫌いか?」

市女笠から垂れ下がる薄い布越しに見えるお蓮は、表情を強張らせた。

「…………私は嫌いです。ですが、前ほど怨みはございません。橘御前殿も……人は嫌いですよね?」

低くも高くもない声色でお蓮はたずねてきた女に聞き返した。

「……妾は母を殺された」

橘は目線をしたに向けて答えた。だが、口から紡がれる言葉は、やけにはっきりと聞こえた。

「殺した人どもに、この世の全ての苦しみを味わせてやりたかった。だが、それはすべて晴明が妾の代わりにやってくれた」

憎しみの念が混じった声は、とても低いものであった。そして彼女は、一度言葉をとぎらせると目を閉じた。

「……だからもう、全てとはいえないが、人に憎しみを持ってはおらぬ。元々、妾は人ごときに興味はない。妾が生きて行く上で必要なら手をとり、邪魔なら消すまでのこと」

そう言って、橘は進行方向に体を向かせ道の先へと足を進めた。お蓮は、その様子を目を見開いて見つめていた。

お蓮は、今まで妖というものは、人を襲い、喰らうものが普通だと思っていたのだ。現に彼女は今まで人を襲いながら生きてきた。

それなのに、この目の前の狐の妖は、必要なら手をとるなどと言っているのである。

―なんて、奇天烈な方なのだろう。

その場に立ち尽くしたお蓮の髪が、そよそよと静かな木立の中の風にゆらゆらと揺れた。太陽の光が届かないここでは、彼女の髪はとても黒く見えた。

橘はゆっくりと数尺先を歩いていた。はっと、お蓮が現実に戻ると、早歩きで前を行く市女笠を被った彼女を追いかけていった。


これが、橘とお蓮の出会いであった。

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