姉と弟
「姉上!外の世に出てはいけないと、あれほど申したではありませんか!?何故外出なさるのですか!!」
「まあまあ晴明、たまには良いではないか。のう、お蓮や」
「橘御前……」
………半刻前………
橘は、あれから暇がある度に濡女のお蓮と外の世へ出掛けていた。濡女は最初こそ堅苦しく重々しい態度であったが、次第に橘の自由な性格に軟化させられ、お蓮の性格が徐々に表面に出てくるようになった。今では自由にあちこちにふらふらと出歩く彼女を止めるのに必死である。
そして、今日も外に出歩いていた。この日は午前中は晴れていたが、先ほどから雲が多くなってきた。
「最近は疫病にかかる人間が多いのう……。前より廃れてきたか?」
「作用でございますね……。御前、あまり天候が芳しくありませんし、今日は早めに戻りましょう」
「そうじゃな……、これ以上の長居は無用か」
この時期は、病に倒れる人間が多かった。下級の民は道の端で倒れたり、高位の貴族などが通りかかると「お恵みを」などと叫び求めていたりした。
その頃、晴明は高位の貴族に呼び出され、厄祓いを頼まれることが多かった。疫病に侵され、苦しむ貴族たちに呪いを捧げていたのである。ということは、彼も出歩く回数が格段に増え、京の都のあちこちへと現れるわけで。
「おや、晴明ではないか」
「……!姉上、何故こちらに………!?」
お蓮に諭され、屋敷に戻ろうとしていたときだった。歩いていた道の少し先にある屋敷から、晴明が出てきたのである。後ろには鬼童丸の姿も見えた。
「橘御前!何故あなた様が……」
鬼童丸は、橘がこのように外に出るとは夢にも思わなかったのであろう。表情がいつものきりっとしたものから、驚きで口が塞がらなくなっていた。
晴明は、驚いていたもののすぐに思考を巡らせた。人間界に下りてきた純粋な妖である姉を、すぐに自分達の屋敷に帰らせなくてはいけないと。
「鬼童丸、急ぎ姉上を屋敷にお連れせよ!朧車を用意しろ!」
「御意」
「晴明、そのようにせんでも妾は…」
「いいえ、姉上よ。何度も申したではありませんか、人間界は危険だと……。ともかく、今すぐに屋敷にお戻りください!」
こうなった晴明を止めることはできないことを、橘はよくわかっていたので、渋々ながらも彼の言に従った。濡女も彼女とともに朧車に乗り、屋敷に戻っていった。
「橘御前……」
「そう心配するな、お蓮。晴明は妾のことを案じているからあのように怒った。お前を責めたのではない」
「しかし……」
「罰せられるのは妾一人じゃ。手下たちをそのような目にはあわせぬよ」
「…………」
お蓮は自分の身がどうなるか心配であったのだ。今まで、安倍晴明―鵺―に逆らってきたものがどうなったか、という話をたまに耳にしていた。チリ一つ残さず消されたというのがよく有るものであった。
義姉である橘御前のことを己の妻子よりも溺愛するという彼のことだ。姉に危害を加えるということはまず考えられない。彼の「義姉が第一」という偏った考えのもとから、手下たちを滅するということが一番考えられたのである。
「さて、怒鳴られることは間違いないのう……」
お蓮は、危機感の無いこの隣に座る女性にひそかにため息を漏らしたのであった。
そして、冒頭に戻るわけである。
「姉上……」
晴明は、義姉の反省した態度が見られないことを嘆いた。幾度言ってもこの人には流されてしまうのである。100歳以上の年齢差があるためか、他の理由があるのか、どちらにせよ義姉に弱い晴明である。良いように言いくるめられてしまうのであった。
「そなたとて、長年同じ場所に居れば飽きてくるじゃろう。10日に一度で良い。よかろう?」
母に似た顔でくすくす笑う橘に晴明はとうとう負けた。
「その代わり、護衛を必ず一人以上はつけてくだされ。一人で出歩くことは絶対になりませんぞ」
晴明は、諦めたようにうつむく。橘は彼の様子を優しげに見ていた。
「ふふ、相変わらずそなたは心配性よのう」
「姉上を心配すればこそ……。そして、濡女のお蓮よ」
「……はっ、はい。」
晴明はふと、脇にいた濡女に話しかけた。急に晴明に声をかけられ、驚いた声を上げながら、お蓮は頭を垂れた。
「姉上の橘の護衛、任せたぞ。姉上はそなたのことを気に入られたようだからな」
「そのお役目、確かに承りました」
お蓮は、そう言うと深々と一礼した。晴明が下がるように手で指示を出すと、彼女は晴明の部屋を去っていった。そして、部屋には姉弟のみとなった。
晴明は、姉との開いた距離を、手を伸ばせば届くほどに縮めた。
「……姉上、もし何か姉上の身にあれば……、私は例えこの世の者を皆殺しにしても気が収まりませぬ。どうか、私を置いていかないでくだされ」
晴明は泣きそうな顔で彼女に懇願をした。急な態度の変わりように、橘は思わず困惑した。
「晴明……。妾は……」
「私には必ず死が訪れる。そのときまで私のもとから居なくならないでくだされ。勿論、反魂の術が成功した暁にも…」
晴明は、ただ子供のようにすがり付く。それをあやすように橘は彼の背を撫でた。
「……晴明よ、妾が何処かへいくなど、いつ申した?妾は居なくならぬ、安心せよ、晴明」
駄々をこねる子供をなだめるような声色で橘は続けた。
「そなたが反魂の術を使うと言ったときは驚いたが……。母上や晴明と、また再び暮らせる日が来ることを妾は待っておるぞ。それが何十年、何百年先だったとしてもな」
橘はそう言って、晴明の体を起こした。彼の目は、覚悟を決めた目をしていた。
「姉上、……いいえ。…………橘よ、私が完全なる妖となるまで、待っていてください。この世が闇に染まる日を……!」
それから何十年の年月が過ぎた。
安倍晴明―鵺と呼ばれた男―は亡くなった。
人としての血が濃かったゆえか、当時の平均寿命より長く生きた程度であった。
また、彼の義姉の橘御前も側近となった濡女と共に行方をくらませた。京妖怪たちが血眼になって探し回ったが、とうとう彼女らの行方はわからなかった。
そして、晴明の死から40年後。
彼らの「宿願」が動き出すのであった。
― 平安時代編 完 ―