消えた妖狐
ときは戦国乱世の時代―16世紀前期―
足利将軍家の御家騒動となった応仁の乱以降、幕府の威光が届かなくなった地域では、各地で乱が起こっていた。
そのような荒れた時代、負けたものたちの怨念を吸って生きる妖たちは瞬く間に増えていった。また、そのような荒くれたちを味方につけ、勢力を高める一人の妖がいた。
その名はぬらりひょん。
奴良組を作り上げたまだ若い妖怪である。だが、圧倒的な力を持ち、名だたる妖怪を負かし、その上で味方に引き入れた。
また、彼の自由で飄々とした性格は老若男女問わず魅了した。そんなぬらりひょんの後ろに、沢山の妖怪たちがついていったのであった。
「なあ、鴉天狗よ」
長い白と黒の髪を真後ろになびかせた、若く背の高い男―ぬらりひょんはたずねた。すると、さっと大きな黒い鳥―鴉天狗―が側に現れた。
「お呼びですか、総大将」
「京妖怪の噂だかお伽噺だか言われてる、橘御前っての知ってるか?」
屋敷の縁側で、ぬらりひょんはキセルをふかしながら続けた。
「橘御前……ですか?確か何百年も前に存在したと言われた、とても見目麗しい妖狐だったと聞き及んでおりますが」
突然の話に、鴉天狗は戸惑った。橘御前など、そのような今は遠い昔のことを知っているのは古からの妖以外居ないのだ。
「んで、今はどうなっているんだ?」
鴉天狗は、うーむと暫し唸った後で答えた。
「……私にはわかりませんな。ですが、そもそもその橘御前とやらが存在していあかどうか怪しいですな」
「そうか……。魑魅魍魎の主となるワシが、その女を手にしたかったんじゃがのう……」
残念じゃのう……と呟くぬらりひょんに、鴉天狗は頭を悩ませた。古くからの妖怪と言えば……今の奴良組に誰が居ただろうか?確かその橘御前とやらは平安時代の書物に書かれていたか?
「そうじゃ、牛鬼に聞いてみるか」
総大将は思い付いたように言った。
「へ?あの新参者の牛鬼ですか?」
鴉天狗は思わず間抜けな声をだしてしまった。
「奴はよく書物を読んでおるからのう。その女のことも知っておろう。鴉よ、暫し奴のもとへ行ってくるぞ」
「ちょ、お待ちください!総大将、総大将〜〜!」
鴉の悲痛な叫びもむなしく、ぬらりひょんはそのまま姿をくらませた。
「ん、鴉天狗じゃない、縁側で何伸びてるの。こんなとこで寝転がるなんて邪魔よ」
そこへ、雪女の雪麗がやって来た。髪は波打ったように癖のあるもので、濃紺のような色をしており、目はつり目で紅色をしていた。白い着物には下の方に黒い蝶の柄が多数あしらわれていた。
「うう、雪女か。総大将がまた勝手に出歩いて……はぁ」
「あら、ぬらりひょん様が?ああ、そんなところも良いじゃないの……。はあ、ステキ……」
雪女はぬらりひょんの名を耳にすると、たちまち白い頬を薄紅色に染めた。
「雪女……」
鴉天狗の悩みは、この日誰にもわかってもらうことはできなかったのだった。
ぬらりひょんは、捩目山まで単身やって来た。捩目山に近いところで今回は出入りがあったため、付近の宿屋に泊まっていたのである。
ぬらりひょんの畏れを使い、誰にも知られずに牛鬼の屋敷へ入り込む。中には、右目を長い前髪で隠した青年が書物を前に正座していた。
「よう、牛鬼。相変わらずお前は書物を読むのが好きじゃのう」
同じくらい若い男がトン、と足音を立ててぬらりと現れた。
「……いつでも、ぬらりくらりと何処にでも現れますな、総大将ぬらりひょん様よ」
閉じていた目を開け、後方を見やる。そこには部屋の柱に寄り掛かっているぬらりひょんが居た。
「ははっ、言うのう牛鬼。物知りなお前にたずねたいことがあってな。わかる範囲でいい、答えてくれ」
「わかりました、なんなりと……」
そう言うと、牛鬼はぬらりひょんの方へと体を向けた。
「橘御前とやらの話、知らねぇかい?」
「……橘御前、ですか。この世のものとは思えない絶世の美貌を持っており、平安時代に存在した妖孤ということは聞き及んでおります」
牛鬼は暫しの沈黙のあと、鴉天狗と同じような事を答えた。
「そうじゃ、その妖のことをもっと詳しく教えてほしいのじゃ!」
ぬらりひょんはそれ以上のことを知りたいのだ。彼は、実際にこの目で見てみたいという気持ちが強かったのである。
「わかりました、暫しお待ちを……」
そう言うと、牛鬼は書物を探しに部屋を出た。ぬらりひょんは暫く胡座をかいて待っていた。すると、牛鬼は一つの巻物を持ってきた。
「この書物には、平安時代の妖についてのことが書かれております」
そう言って、牛鬼はすっと巻物を開いた。
「確かこの辺りに……、ありました。橘御前は、平安京に都が遷都された以後に現れたとあります」
牛鬼の言に、ぬらりひょんは感嘆の息をはいた。
「随分前からおるのじゃな……」
「そのようです。……そして、彼女は人間界で暫く暮らしていたそうです。その頃は橘の君と呼ばれていたと書いてありますな。ですが、何らかの事情で妖の世界に戻ったそうです。それ以後、御前という名が定着した模様。そして、京の都の山奥にある屋敷に暮らし、大多数の妖に守られていたようですな」
「ふむ、そうすると守りが固そうじゃな……」
「ですが、源平の争乱前に、行方をくらませたとあります。おそらく、京の都には居ないでしょうな……」
ぬらりひょんは、ううむと腕組みして考えた。
「して、総大将よ。何ゆえこのような古き妖について調べるのですか?」
牛鬼は純粋な気持ちでたずねた。ぬらりひょんは真剣な眼差しでこちらを見る牛鬼を見て、はははと笑った。
「はははっ!牛鬼よ、絶世の美貌を持つ妖じゃぞ?この目で見てみたいと思うのが当たり前じゃないかのう?」
牛鬼は、たずねた己が間違っていたと心なしか思った。
「そういうことであらせられるか。しかし、今居るかどうかも定かでないこれを探すなど……」
「だからこそじゃ!わしは必ず見つけてみせるぞ。ワシが手に入れられないものなぞ、この世にないことを証明して見せる!」
そう言って、笑い続けるぬらりひょんをみて、牛鬼はこの人と杯を交わして良かったと思った。この妖ならば、きっとこの妖孤を見つけられるのではないかとあう希望が彼にはあったのである。
―近江の国、とある廃屋敷にて―
二人の女の影が障子の向こうから見えた。
「橘様、夕食をお持ちしました」
地味な、それでいて風情のある柄の着物を着た女が膳を運んできた。
「おお、もうそのような時刻か。日が暮れるのは早いのう」
そう言った女は、屋敷にそぐわない豪華な着物をまとっていた。
「またそのようなことを……。明日は市場に向かうので?」
「そうじゃな、新しい魚がおるかもしれぬ」
「では、そのように準備をして参ります」
「お蓮よ、市女笠を忘れるでないぞ。少し前に被るのを忘れて以来、どこか昔の名が出てくるようになった気がしてな」
「…………!わかりました、なるべく濃い布がついたものをお持ちしましょう」
そう言うと、お蓮と呼ばれた女は急ぎ着物の用意をしに行った。豪華な着物の女―橘は優雅な手つきで膳に盛られた料理を口に運んでいた。
「あの名は、滅っさねばならぬ……」
そう呟いた彼女の顔には、嫌悪の色がありありと浮かんでいた。