
決壊に花束を捧げる
がらり、がらり、と崩れ落ちる音をぼんやりと聞いている。この職業が嫌いなわけではなかった。ファンの笑顔は何よりの薬になったし、メンバーのことが大好きで、やり甲斐さえ感じていて、だからもっと、もっと上へ。期待に応えられるように、置いていかれないように、着いていけるように。でも、噛み合わないものは確かにあって。どうか、もっと。わたしがあの場所に居るためには、その為の努力が必要不可欠だったから。
京都からひとり、家族から逃げるように上京した。家族というものに理解がなかったわたしに愛をくれたのはメンバーの二人だったし、応援のあたたかさを教えてくれたのはファンの皆で。わたしにとって、アイドルはあまりに恵まれた職業たった。
根気よくダンスを教えてくれたなっちゃん。母のように、時には姉のように接してくれて、歌の練習にも付き合ってもらったしーちゃん。わたしを拾ってくれた社長。一緒に頑張ってきたプロデューサー。わたし達を応援してくれているファン。ただ努力を積み重ねることで追いつこうとしていた、あの時のわたし。
――その全部を裏切ったのは、結局、わたしだった。
目が覚めたら知らない天井が視界に入ってくる。どこにいるのかも理解出来なくて、傍には誰もいないし、うすぼんやりとした頭では何も分からなかったけれど、幾回か目を瞬かせればその雰囲気にここは病院なのだと分かる。理解と共にわたしはぱちりと目を覚ました。ナースコールに手を伸ばしかけて、止まる。がらり、と音を立てて開けられたドアの向こうに、社長が見えた。
アイドルはもう、辞めなさい。
そう告げられたことに、思いの外気が抜けてしまう。だって、不思議でならないのだ。何も問題はない。どうして辞めなければならないのだろうということが分からなくて。もうやめて、とメンバーに縋られてようやく、わたしはわたしがやらかしたことの全貌を知ったのだ。噛み合わない才能に辟易とした自分が、何をしたのか。どうしてわたしが、病に倒れたのか。
辞めます、と震えた声が社長とプロデューサーに届く時間は、そう遠くない。失望されたくなかった、それは、ファンに。なっちゃんに。しーちゃんに。プロデューサーに。社長に。最後まで認めてくれなかった、家族に。
「わたし……“アイドル”に、なれなかったんですね」
テレビの中から聞こえてくるカメラの音と、辟易としているような顔付きの推しアイドルが脳の中を行き来する。
『この度はお騒がせして申し訳ありませんでした。アンティークの結波春です』
『アンティークの七平夏梨です』
『同じく、橘秋です』
『わたし達アンティークは今月を以て、解散します。今までのご声援、』
『『『ありがとうございました』』』
初めてその子達を認識したのは、アンティークがデビューした時だった。最年少の春ちゃんはその時中学一年生になったばかりで、俺は二十代も半ばに差し掛かっている。とはいえ、そもそも春ちゃんのことは知っていたのだ、元から。デビュー前のオーディションの時から、目を奪われていたから。
随分と上手くなったなあ、と思った。トークも、歌も、ダンスも。俺達からすれば考えられないような努力もしたんだろう。あの時期の俺の推しといえば、と知り合いに聞けば、百発千中くらいでアンティークの結波春と答えることだろうと想像する。それくらい推していた。だからこそ記者会見近くの春ちゃんは追い詰められているのかもしれないと薄々感じ始めていたのだ。アンティークの中でファン人気が一番高いのは誰だ、と聞けば、その答えは殆どが春ちゃんなことだろう。
春ちゃんは勤勉だった。努力家で、ストイックだった。テレビの密着取材、ライブのバックステージ、メディアに露出する回数と比例して上がっていく能力。まるで原石が宝石になる過程を見ているようだった。俺の、心の支えでもあって。
春ちゃんには、本当にお世話になった。精神的に、沢山。初めての春ちゃんのソロをアラームにしたこともあった。ライブに行って、サイリウム振り回して。小さな箱でライブをしていた時から、ドームでやるようになっても、ずっと。
好きだったから。春ちゃんのことが。
眩しかったから。俺の、アイドルが。
だから、辛そうにしているところは見たくなかった。周りの人に聞いても、辛そうとか、追い詰められているとか、そういうことを春ちゃんから感じる人はひと握りだった。あの子は笑顔が良く似合うけれど、にこにことしてその辛さを覆い隠してしまったら、もう、それは。分かっている、それがプロなのだということは。でもこうして、春ちゃんは解放された。俺達はもう、春ちゃんを表舞台で見ることは出来ないけど。でも――あの子が元気で生きていられるなら、それで、十分だ。
「ゆっくり休んでね、春ちゃん」
ただ、あの子の。結波春という女の子の幸せだけを、願って。
「春ちゃん」
「……どうしたんですか、みのりさん。珍しいですね」
わたしのことをちゃん付けで呼ぶなんて、と春は返した。みのりは普段春のことを役職名、つまりプロデューサー、と呼び、プライベートでは春、と呼び捨てにしている。みのりが春のことを春ちゃんと呼ぶのは、アンティーク時代の春のことを示唆する時くらいだ。
315プロダクションの小さな事務所の中、たった二人。時計の針は午後十一時三十分を指すところだった。この書類を終わらせてから帰る、と言い張る春にみのりがそれならば待って送ってから帰ると言い出し、春が折れたのだ。
光が漏れ出すパソコンのデスクの前に座って作業をしているらしい春と、ソファに座って春のことを見詰め、春が視線を返しては緩やかに微笑むみのりが同時に瞬きをした。
「春」
「何ですか、みのりさん」
「ありがとう」
ぱちん。確かに今まで響いていたキーボードを叩く音が掻き消える。春は動きを止め、パソコンのモニターに釘付けになっていた瞳をみのりの居る方向へ動かした。相変わらずみのりの顔はゆるやかな微笑みを浮かべている。困惑したように眉を上げた春に、みのりは笑みを深めた。
「色々あった時期に、……なんていうか、迷ったことがあったんだ。これは本当に俺がしたい事なのかな……って」
みのりは、叔父の好きだったものをなぞるように過ごしてきた毎日を思い返す。アイドルを、花を、何もかもを。これは自分のものではないのだと、悩んで。その時に出会ったのが、デビュー前、オーディションの時の結波春だった。
「『あ、好きだ』って思った。後はもう簡単。アイドルのことは本当に好きだったんだ、俺。いつの間にか本当になってた」
気付かせてくれたのは春だった。支えてくれたのも春だった。節目に助けてくれたのも春だった。知らぬは本人ばかりというか。みのりは膝に頬杖をついて春を伺い見た。
「俺にとって結波春は結波春であるだけで太陽だったんだ。大好き。好きだよ、春。春ちゃんが春なだけで、幸せだから」
ふわり、とにおう花のかおり。がらがらと崩れ落ちていく噛み合わない歯車に、油が差された。
「――泣かないで」
「え、」
ぽろ。一度落としてしまった雫を認めてしまえば、あとはもう塞き止められていたダムが決壊した時のようにごうごうとこぼれ出す水に、春は指の先で涙を拭った。流れてくる滴はその量を減らすことなく。
今度は手の甲で拭った。けれど、未だ涙は引かない。
どうして、と呟く春の手を静かにどかし、赤くなっちゃうよ、と春の目元にハンカチを宛てたみのりに、春は瞳を向けた。
「幸せをくれてありがとう」
「こち、ら、こそ……っ、ありがとうございま、す、」
みのりは春の体を掻き抱く。既にこの書類が終わっていることは、保存されているという文言とその中のファイルで良く分かっていた。
ああ、どうしよう。愛してる、を伝える言葉が出てこない。ただ、真っ直ぐに言ってしまえばいいのに。
「みのりさん」
好きです、という春の言葉は、続く息とともにみのりに奪われた。暖かな体温に包まれ、幸せだなあ、と唇の感触に思いを馳せている春は、みのりの表情に浮かぶ慈しみを確かめていない。