ブラックダイヤモンド


 四月(わたぬき)、という名前は。元になった人物――つまり、兄さんの名前から取っている。兄さんの名前は、卯月。卯月は暦の読み方で、別名四月。ただそれだけで、他に意味は無い。……と、皆は思っている。けれど違う。
 「春の夜の夢の如し」、という言葉がある。「ただ春の夜の夢のようにはかないものである」という意味の言葉で。確か、平家物語の一節だったか。

「兄さん。……兄さん」

 四月が別の黒トリガーと違う所は、幻覚作用がある、という所だ。儚い春の夢と同じように、淡く消える幻想。だって今も、兄さんが見えている。目を細めてゆるく笑う兄さんが、見える。幻覚は確かに使えるけれど、使っているわたしにも、それが作用してしまっているので。

「あなた達が、今回の敵だね」

 兄さんを隣に置いて、わたしは四月を構えた。今回は弧月に似た形だ。見据える敵の数は、少なく見積っても50。上に開いている警戒色のゲートからも未だ出てきているし、早めに終わらせなければ、幻覚の範囲が足りなくなってしまう。四月を振り回して、的確に、正確に。

「迅くんは凄いなあ。怖かっただろうに、辛かっただろうに、最上さんを使ってたし……」
「……あいつはそういう奴だろ。全部自分の下に覆い隠してさあ」
「兄さんもそう思う? あーあ、わたし、迅くんが辛くないように、頑張らなきゃって思ってたのに」
「それは無理だな。何をするにせよ、あいつは取捨選択を強いられる」
「――哀しいね。わたしが、もしあのサイドエフェクトを持ってたら、迅くん、今頃泣いてないのかな……」

 兄さんと背中合わせになって戦う。四月を振りかぶり、三体同時に切ってしまう。けれども、同時に背中を何かが掠って、一瞬我に返った。……そうだ、兄さんはもう居ないのだったか。これだから嫌なのだ。正気に返れば、そこには絶望しか残らない、この黒トリガーを使うのは。

「っ、兄さ……」

 先程背中を掠ったと思っていた攻撃は結構深かったらしくって、動きが鈍った瞬間に、残っている近界民が勢いよくなだれ込んでくる。時間なんて覚えていないし、正気ではなかったので、あんまり正確ではないんだけど。門は閉じていて、今蠢いている近界民の数は、多くて30。加えて黒トリガーにベイルアウト機能は付いていなくて、ああこれは死ぬかもな、なんて思いながら、四月で近界民を貫く。別の近界民はわたしの右肩を穿いていて、絶望感は増していっている。

「久し振りに使ったらこれだもんなあ。……本当、駄目だ」

 けれど。目を伏せたその瞬間に、綺麗な立方体のトリオンが、わたしを避けて、降り注ぐ。わたしは有り得ないと思いながら、ゆるりと目を開けた。

「何やってんだよ」
「……出水……?」

 案の定、そこにはわたしと大喧嘩中の出水公平という男が居て。ちょっと怒っているような、ちょっとどころじゃないような顔をしていて、わたしは思わず、ひっ、と小さく声を上げる。

「え、出水何でいるの」
「……迅さんに聞いた」
「迅くん……?」

 首を傾げながら、迅くんに何か、と思ったけれど、ああ未来視か、と思い至る。ガチギレしているらしい出水の後ろには近界民が迫っていて。ほぼ戦えないわたしと、無傷の出水と。どう考えても、盾役はわたしの方がいい。わたしは出水のコートの裾を引っ張って、立ち位置を入れ替えた。

「、羽純……?」
「油断は禁物、だよ、出水」