ベガとアルタイル


 時折、「置いていかないで」という言葉を、無意識に出してしまうことがある。それは例えば、寝言であったり、誰かと共に居て、その誰かがその場を離れる時であったり、様々だ。あの暗闇から見つけ出して貰って、わたしにとっての北極星を見つけて、早四年。未だ兄の記憶が薄れていないのは、良いことなのか、それとも。

「、置いていかないで」

 はた、と我に返る。今席を立ったこうくんは、今から防衛任務だ。椅子から立ち上がる途中で止まった不自然な格好のまま、こうくんは目を瞬かせている。ぱちぱちと目を開閉していたのも束の間、こうくんは椅子に座ったままのわたしの前に回り込んで、わたしの頭をうりうりと撫でた。

「おれは羽純を置いていかねーよ」
「……別に。そんな言葉かけずに任務行けばよかったのに」
「可愛くねえの」
「知ってる、そんなの」
「……ウソだっつーの。あー……、赤坂さんか二宮さんの所行ってたらどうだ? 二人とも見掛けたし」
「――、はーちゃんのとこ行ってる。だから、」
「おう。終わったら迎えに行ってやるよ」
「待ってる、から」

 いつもの声の大きい笑い声じゃなくて、今わたしに見せてる笑顔は、もっと綺麗なもので。それを見て少し安心してしまったのが、結構悔しくって、はーちゃんのところに駆け出す。後ろを振り向いて、「危なくなったら、ちゃんと帰ってきてね」、なんて言い放って、わたしはまた、走り出した。

 なんというか、わたしは少し、今と昔のボーダーを混ぜている気がする。だって兄さんが黒トリガーになってしまった時のボーダーには、ベイルアウトなんて無かったから、ああするしか無かっただけで、今ならベイルアウト出来るのに。そう思いながら、ぐりぐり、と先程見つけた羽由ちゃんの背中に頭を押し付ける。

「どうかしましたか、羽純ちゃん」
「んー……ちょっと……」
「、ふふ、そうですか。少し疲れてしまったのかもしれませんね」

 件の置いていかないでという言葉を意識し始めてから、あまり眠れていなかったかもしれない。慶お兄さんにも匡貴くんにも、羽由ちゃんにも、少しの間会えていなかったから、その影響もあるのかも。小さく「眠い」と言葉を一つ零せば、「寝ても構いませんよ」、という羽由ちゃんの柔らかな声が、わたしの意識を包む。朧になってきた意識の中、こうくんの防衛任務が終わったあと、玉狛に送ってもらうのだ、と、だから、こうくんが任務から帰ってきたら起こして欲しい、と羽由ちゃんに伝える。今日は久し振りに桐絵とお泊まり会をするのだ、と。そう言えば、羽由ちゃんは微笑ましそうな声音で了承した。

「――大切にされている様で、安心しました」

 心底安心したような羽由ちゃんの言葉を認識しかけたところで、わたしの意識は、終わりを告げる。

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 時折、羽純にとってのオレという存在を、軽く見てしまうことがある。それは例えば、羽純が赤坂さんに抱き着いたり、太刀川さんを頼ったり、二宮さんに慰めてもらっていたりする時が多いのだが。――七々原羽純という人間の全てを、オレは知らない。オレが知っているのは、羽純は強いということ、精神的には結構脆いのだということ、勘違いされやすいこと、オレや二宮さん、加古さんの師匠だということ、射手を開発した人だということ、……そして。オレの彼女であること、だけだ。羽純の過去はちらっと本人から聞いたが、家族構成のことはお兄さんのこと以外一切聞いたことがないし、何故いつもは本部に住んでいるのかも知らない。オレは七々原羽純の彼氏であるだけで、七々原羽純はオレとは他に、頼るべき人を知っているだけだ。ただ、それだけ。

「羽純ー、――」

 防衛任務が終わったので、約束していた通り、羽純を迎えに来た。先程オレと話をした時よりも楽そうな顔をしながら眠っている羽純に声を掛けようとして、ふと留まる。赤坂さんは目を瞑っている羽純を妹でも見るような視線で慈しんでいて、そこはまるで、立ち入ってはいけない場所、のような。無意識に後ずさり、音が鳴る。我に返って見れば、それはオレの足音で。

「――こんばんは、赤坂さん」
「こんばんは、出水くん」

 「起きてください、羽純ちゃん。出水くんが来ましたよ」と言って羽純を揺り起こす姿は、確かに姉のようだった。「ん、」と唸り声を小さく上げて、赤坂さんを目に入れた途端、瞳を煌めかせる羽純。そこに、オレは入れない。

「……こうくん……、……わ、ごめん、すぐ行くね、ありがとうはーちゃん!」
「いいえ。楽しんできてくださいね、お泊まり会」
「はーい! 行こうっ、こうくん」
「、ああ、……羽純あんまり走んな、転ぶぞー」
「わたしそんなに子供じゃないんですけど……」

 穏やかな顔でおれ達に手を振る赤坂さんの方を振り向いて、オレよりも少し前を歩く羽純の手を取った。「こうくん?」と不思議そうにおれを見る羽純は、きっと自分を保つためにそうしていて。

「いや、……なんでもねー」

オレは口を噤んだ。暗い夜道の中、羽純と隣に並んだオレは、心のどこかで「オレは羽純の大事な人には入れないんだろうな」と思っていた。オレはただの弟子で彼氏で、それだけだろうと。――けれど。

「こうくん、……こうくんってば」
「、……わりー」
「心配しちゃうから、辞めてよ、そういうの。こうくんだってわたしにとって大切な人! なん! だから! まあはーちゃん達とはベクトルが違うけど……その、大事だよ、出水公平、っていう人が」
「――」

 オレは驚いたように口を開いた。水のない場所にいる魚みたいに開閉している。その顔を見た羽純が不機嫌そうに「こうくんのこと大事じゃないとでも思ったの? 心外だなあ」と言った。

「オレも、」
「ん?」
「オレも、お前のことが大事だぜ、羽純」

 そう言えば、羽純の顔は、暗い道でも良くわかるくらい赤く染まる。羽純は空を仰ぎ、何かを見つけたのか、一瞬だけ、目を大きく開く。

「こうくん」
「……なんだよ」
「、……その、……月が綺麗! ですね!」

 その言葉に静止したオレを他所に、羽純は玉狛支部の方へ駆けていってしまって。……あー、なんなんだよ、もう。オレの顔も赤く染まっているだろうか。そう頭の隅で考えながら、先を走っている羽純を追い掛けた。