欠ける眠り


 寒い、と、ただ漠然と、わたしは思った。今まで隣に居た銀糸がない。あの人の居ない冬を、わたしはまだ、過ごしたことは無くって。部屋の中は十分暖かいはずなのに、ただ、あの人が。兄さんが、手を握ってくれない、それだけで。右の手の甲で、両目を抑える。ひゅ、と喉が鳴って、一筋の涙が零れた。情けない、情けないなあ。きっともっと辛い人が、ここには沢山居るのに。兄さんが死んじゃったと泣きながら伝えれば、電話の向こうの両親は息を飲んだ。大丈夫だった、辛かったわね、って二人は言ったけど、二人はわたしより、辛かったのに。わたしだけが、あの人の弔いをした時に、泣いていなかった。顔も一切、歪ませなくって。そんなわたしを見た悠ちゃんが、いっぱい、いっぱい、涙を流してくれて。
 
「ごめんね、迅くん」
 
 わたしはきっと、兄さんの分まで、皆を支えなきゃ駄目なんだ、と思った。手始めに呼び方を変えた。悠ちゃん、と呼んでいた彼を、迅くん、と呼んだ。真史くん、と呼んでいた彼を、忍田さん、と云った。迅くんはその目を見開いて、わたしの肩に手を置いて、待って、と言っていたけれど、わたしは何を待つべきなのだろうか。兄さんが戻ってくるのを? それとも、わたしが正式に所属すること?
 
「謝るのは、おれの方だ」
 
 目を伏せる。どうしてだろう。だって兄さんがこの姿になってしまったのはわたしの所為で、元に戻る可能性はとっても低いんでしょう。だから父さんも母さんも、遠く離れた異国の地で、命を棄てたんだ。ならわたしが。わたしがやらなくちゃ。あの人は強かったから、わたしも強くならなくちゃ。あの人にはカリスマ性があったから、わたしもそうならなくちゃ。あの人には才能があったから、わたしも、違う、そうじゃない。わたしに兄さんのような才能はなくて、だから何かで補わないと、そうだ、あの戦い方を完成させよう、確か兄さんが呼んだのは、射手。

「羽純、」
「羽純ちゃん」
「羽純……?」

 わたしの名前を。そんな哀れみの声で、呼ばないで。
 
「羽純ちゃん」
「……羽由、ちゃん、」
 
 もうずっと、あなたの、羽由ちゃんの声しか、聞いていない。あと何度、兄さんの居ない冬を過ごさねばならないのだろう。苦しい。寒い。もう嫌だよ、兄さん、助けて。
 
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 瞼を上げた。
 
「お、起きたか。太刀川さーん、羽純起きたっすよ」
「おー」
 
 ここに来るまでの、どころか、眠るまでの記憶がない。困惑したように眉を釣り上げれば、お兄さんから貰ったのはデコピンで。
 
「……赤坂だよ」
「……羽由ちゃん?」
「赤坂さんがフラフラな羽純を運んできたんだよ。びびったわ」
「ふらふらな、わたし」
 
 どう、だったっけ。確か、いいや、全てが、間違っている気がしてならない。わたしの眠っていたふかふかなソファに、毛布。その近くに来たこうくんに手を伸ばした。
 
「にいさん、」と呟けば、二人が息を呑むのは、当たり前で。柚宇さんが居ないなあ、と思いながら、こうくんの体温を握りしめた。「兄さんが居ないの。そしたら、母さんも、父さんも、棄てた」それは、自分の命を。わたしのことを。わたしを大事に思っていなかったわけじゃない。ただ、一等兄さんのことを可愛がっていた。どちらに愛情が掛けられたかと聞かれれば、それは、両親が外国に行っていない時の子供である、兄さんで。あいされていないのかな、と不安になれば、隣にいる銀が頭を撫でてくれたのに、何故今、その彼が居ないのだろう。にいさん、と、小さい言葉を落した。
 
「オレを見ろ」
 
 意識が戻る。温かなブラウンの色彩。猫のような瞳。「、ごめん」、こうくん、と。寒い時期は、どうしても。お兄さんは音を立てて隊室から出ようとしていて、どこへ行くのだろうと尋ねれば、羽由ちゃんのところだ、と。何の用事だろうと首を傾げつつも理解して、軽く頷く。くしゃり、とわたしの頭を撫でて退室したお兄さんの後ろ姿をぼんやりと見ている。寒いとどうにも判断能力が落ちるらしい。こうくんに取られている手に視線を落とす。
 
「……さむい」
「もう十一月だからな」
「寒い、寒いの、こうくん、」
 
 言葉をひとつ落としてしまえば、するすると滑り出す本音。兄さんが居ない冬を過ごすのは、もう嫌だ。
 
「嫌、」
「羽純」
 
 その言葉に、下げていた目線を上げる。目の前には黒が広がっていて、これは太刀川隊の隊服で、彼の、肩で。背中に回ったこうくんの手に、伝わる温度に、安堵する。
 
「これで寒くないだろ?」
「……ちょっとだけ」
「お前そんな寒がりだったか……?」
 
 すり、と目の前の肩に擦り寄る。後ろ手の力が強くなった。兄さんよりも少し高い体温を感じながら、わたしはもう一度、眠りにつく。