06

 彼がよく微笑むようになってからか、家で過ごしている時も明るい表情をすることが多くなっていた。彼が朝起きた時にふわりと笑うだけで、彼が楽しそうに本を読んでいるだけで、美味しそうに食事をしているだけで、私は幸せでたまらなかった。
 毎日が彼の色に染まっていた。街を歩いていても彼を思い出す。彼が好きそうな宝石、お菓子、本。彼と似た香りが鼻に抜けるだけで胸は熱を帯び、彼の好きなものを見かけるだけで心が弾む。
 彼が生活の、私の一部になっていて、何もかもを彼に結びつけてしまう。感じた香り、見た植物、食べたランチ。帰ったら何を話そう、何をしよう。そんな浮ついた気持ちで溢れる。この感情が何か名前を付けなかった。つけたら何かが終わってしまう予感がしていたから。
 
 昼過ぎ。街を歩いているとバイブ音と共に送られていたのは凪砂くんからのメッセージ。
 滅多にない彼からの連絡も、写真ひとつ送られるだけで口角が上がってしまう。そんな呑気な日常を送っている自分が嬉しかった。

『今日はここに来たよ』

 彼が最近気に入っている発掘も、「わからないから面白い」と色を帯びた声で語るのが微笑ましかった。こうして今日行った場所を贈ってくれるだけで幸せをひしひしと感じる。
 その時、いつもと異なる風景を感じ、ふと画面から目を離すと、そこはレトロな洋菓子店の前だった。
 一九九〇年代ヨーロッパのような可愛らしい外観。大きな窓ガラスから中を覗くと、店内も西洋風の装飾が施されていた。その中にいる男性と目が合った。にこりと笑ったその男性は感じの良さそうなひとだった。
 スンっと鼻を擽る甘い香りに誘われるように、店内に続く扉へと手を掛けていた。


 軽快なベルの音を立てながら店に入る。
「いらっしゃいませ」
 笑顔を浮かべる先ほどの男性が出迎えた。入った途端、タイムスリップしたかのような空間に、思わず声が漏れ出た。

「わぁ、素敵……」
「ありがとうございます」

 無意識に出ていた心の声に返事をされて気恥ずかしくなる。誤魔化すように笑って横に大きく広がるショウケースへと視線を落とした。そこには色とりどりの洋菓子。目が眩むほどの輝きを放つそれらに釘付けだった。
 いつもは近所のお店で買うことが多いチョコレート。せっかくだからと、このお店でケーキを買ってみることにした。
 彼の好きそうなチョコレートのケーキも、美味しそうなショートケーキもあった。



「またお越しください」
「ありがとうございました」

 名残惜しくも、お店を後にする。ドアに手を掛けて再びベルを鳴らすと、魔法が解けるように日常の風景へと戻った。
 
  ◇

 次の日。窓の外から入る心地よい風を感じながらテーブルに座る。箱から取り出したのは昨日買ったケーキ。

「……ケーキ?」
「うん。今日はチョコレートのケーキだよ」

 彼の好きなチョコレートと、甘いケーキの組み合わせは彼にとって未知なるものだった。
 わくわくする瞳を浮かべながら一口。口の中に入れた途端、私の顔を見ては目を見開いた。嬉しそうに食べる姿を見ていると私まで嬉しくなった。
 私もケーキにフォークを入れた。ほろりとした食感と甘さと酸味がちょうどよく、口の中に充足感が溢れた。そんな私の満足そうな表情が気になったのだろう、私が食べるそれに好奇心を一層抱いていた。

「……それは?」
「これ? レモンのパウンドケーキだよ」

 興味があるのか、じっと私の手元を眺めるので、クスッと微笑みながら「一口どうぞ」とフォークで一切れ差し出した。
 顔を近づける彼に、これは食べさせてほしいのだと察した私は彼の口に運んだ。
 彼の口がフォークを咥えた途端、弾けたように瞼を見開いて目を輝かせていた。
 レモンのパウンドケーキを選んだ理由はもちろん味が気になったのもそうだが、意味も含めてだった。大切な彼と過ごす週末だから。何か意味のある週末にしたいと思ったから。
 例のお店で彼へのチョコレートケーキを買おうと思いショウケースを覗いていた時、レモンケーキのショップカードに、

『大切なひとと週末に食べるケーキ』

 と、書かれていた。ケーキのビジュアルにもまんまと惹かれた私は、すぐにそれを選んでいた。

「……このチョコレートのケーキも美味しいよ。このお店、初めてかな」

 ケーキピックにあるお店のロゴを見ながら不思議そうにしていた。

「昨日初めて見つけた洋菓子のお店だよ」

 私が大袈裟にそのお店を嬉々として語るので、彼も関心の目を向けていた。以前までは希薄だった彼の好奇心も今ではすっかり熟している。

「そこで買ったケーキだよ。レトロなお店で、雰囲気が素敵だったなぁ」

 本を片手にマグカップに手を掛けた彼が興味深そうにコーヒーを一口含んだ。

「……今度は私もそれを食べてみたいな。甘いのに酸っぱいなんて不思議で興味深い」

 こんなにも平穏な会話をできるようになるなんて、同居を始めた当初は予想にもしていなかった。
 彼と同居しているとはいえゆったりした時を過ごせる休日も早々にないから。
 この週末の時間も、私の一種の我儘だった。きっかけは彼の願いだったとしても毎週ではない選択肢もあったはずだ。それでも毎週欠かさずしているのは、彼との距離を確かなものにしたくて、だ。

「それに――」

 彼が言葉を続ける。

「……君が食べているものを私も共に楽しみたいから」

 そう言ってくれた彼の言葉を胸に刻みながら次の週末には一本のレモンのパウンドケーキを買おうと心に決めた。