12

 彼を咎めたはずの私が、彼のひとつひとつの行動をひとりの男性として意識するようになってしまった。いつものように過ごす週末も、今まで意識したことのなかった彼の新しい面を見つけてしまう。
 ごつごつとした手。腕の筋。広い肩幅と厚い胸板。そして、話すたびに動く喉仏。以前までは可愛らしいと思っていた彼がいつの間にか大人に成長していて、心臓は常に騒がしくなる。
 彼がケーキを口に運ぶ様も色っぽく感じてしまうほどには重傷だった。

「……大丈夫?」
「あっ、う、うん」

 息が苦しくなる。彼にそんなことを言われるとは。私の様子がおかしいのは一目瞭然だろう。彼のことをここまでじろじろと見ている上、何も言わず、何も口に含まずいるのだから。
 ふと彼の指先が私の唇をスッと撫でた。反射的にピクリと身体を動かした。

「……あぁ、ごめんね。息苦しそうだったから」
「あ、りがとう……」

 彼の熱い瞳と目が合うと頭は溶けそうでクラクラする。心臓がどうにかなりそうだった。彼を意識しだしてからは彼の目を見ることでさえままならない。
 彼の息遣いであの夜のことを思い出して思わず離れる。

「……私のこと、嫌いになったのかな。あんなこと、していたから」

 いつもと異なる反応を見せる私に、彼の表情は曇っていく。
 「違う」と一言伝えるだけでいいのに、言葉が喉を通らない。彼の傷ついた表情が私の心に深く刺さる。ひとの表情にの変化に敏感な彼を甘く見ていたのかもしれない。
 彼に言っていた「愛してる」という言葉も、彼から貰う「愛してる」も、今の私には苦しい。

「ごめんね。体調が悪いのかも。今日はちょっと休もうかな」

 困ったように微笑んで誤魔化した。彼を騙すことなんてしたくもないが、このままの状態で彼と対峙していても埒が明かないだろう。

「……そう。お大事に」
「ありがとう」

 そう言って、結局一口も食べずに後日という話になってしまった。私は彼との『毎週の約束』を破ってしまったも同然だった。具合悪いだなんて嘘なのに。
 彼がどれほどこの週末を楽しみにしているのか、知っているからこそ楽しく過ごせないことに申し訳ないと思った。


   ◇


 そんな妙な空気を醸し出す私と同じように、彼の様子も変わっていた。
 その日の夜。ベッドの上で、真剣な面持ちをした彼が私に話した。話があると言われて身構える。昼間のことだろうか。しかし、その予想は外れる。

「……君に対する想いが抑えられないんだ。以前君が言っていたように、君が私の前からいなくなってしまうと想像するだけで、胸がとても苦しい」

 こんなに切羽詰まった表情の彼を見るのは初めてだった。眉間に皺を寄せて悲痛な瞳を浮かべている。彼のこんな表情を見たくて、彼との同居を引き受けたのではないのに。
 彼に私への愛情を確かなものにするよう、種を蒔いてしまった過去の自分を責める。彼の成長を切に願ってはいたが、こんな形になることを願っていたわけでもない
 彼の例の行為と行動原理が、私が女性だからということからくるのであれば、私が我慢するだけで良かった。が、よりによって私を想ってというのが問題だった。もちろん私も鈍感ではないし彼の気持ちにも薄々気づいてはいた。
 彼が私を異性として愛していると確信してしまった以上、私は彼と離れなくてはいけないのかもしれない。長く時間を共にしすぎたのかもしれない。
 彼との関係を崩したくない、など私のエゴだった。彼を保護できる人なんて他にたくさんいる。それでも、彼の一番の理解者になりたい。そんな我儘から続いたこの生活。いつまでも続くわけではないとわかっていたが、こんな形で終わりを迎えるなんて思ってもいなかった。

「……凪砂くん」

 返事はないが、彼は黙って私の言葉に耳を傾けていた。私はいつも通りうまく笑えているのだろうか。

「私たち、もう一緒に住むのやめようか」

 この言葉を発した途端、皮肉にも今までずれていた歯車はカチッとハマった気がした。これで、彼が間違った道に進まないし、私も彼を間違った道に導かないで済むという安心感があったからかもしれない。

「……え。どうして」
「凪砂くんももう高校を卒業するし、新しくできる『あんさんぶるスクエア』では寮があるみたいだから。これを機に、私がいない生活に慣れなくちゃじゃない?」

 大丈夫、凪砂くんならうまくできるよ。と、声をかけても、彼から返事が戻ってくることはない。
 罪悪感で押しつぶされそうになるが、それでもこの選択は彼の未来のために必要だったんだ。そう自分に言い聞かせて納得させた。心のどこかでこれでいいのかと思っていたから。
 いや、これでいい。彼がこの先私への恋愛感情を自覚したところで、彼のこの先の明るい未来の邪魔になってしまうだけだ。それなら、まだ確信づいていない今、離れるべきなんだ。互いに意識をしてしまった以上、あの頃の和やかな日々にはもう戻れないのだから。

「……そう。君がそう言うならそれが正しいんだろうね」

 反論をしない彼の諦めが混じった受容に、ズキリと心が痛んだ。彼に我儘を言わせる隙も与えなかった。彼がどうしたいかを尊重するべきだったのに。


   ◇


 同居を解消するまで、なるべく彼への恋を抑えられるように、必要以上に近づくことを止めた。
 私は彼と恋人ではないから。
 今まで通り、彼と一緒に寝たが、彼の様子が異なることについては目を瞑った。


 しかし、意識すればするほど、彼に少しでも触れることも怖くなってしまった。
 無意識のうちに、彼との距離は同居を始めた頃に戻っていた。彼が甘えることは滅多になかったが、それは彼が遠慮をしていたから。私から甘えるように仕向けたそれは、彼にとってはプラスになっていただろう。それを私は拒否するようになったのだから、彼も疑問と不安でいっぱいになっていたようだ。
 彼が内に秘めていたそれを言ったのは、週末の前日。いつもなら今週の出来事を和気あいあいと語っていたが、最近はボタンを掛け間違えたかのようにぎこちない雰囲気と会話が続いていた。いつも通り話せてはいたが、何か違和感を抱くような、そんな危うい雰囲気だった。
 そんな会話の中で、ぷつりと糸が切れたみたいに沈黙の瞬間があった。彼が私の視線をしっかりと捉えた。
 これは真剣な話をする雰囲気だ。

「……私、君に嫌われるようなことしたのかな。したのなら、謝りたいんだ。私は君と共に生きたいと思うから」

 とうとう言われてしまったそれを私はうまく誤魔化せるのだろうか。

「そんなことないよ」

 彼の一見重いとも捉えられる「共に生きたい」という言葉は彼にとってのすべてだ。彼の今の願いはそれで、それ以下でも以上でもない。ただ私と過ごすことに心地よさを見出しているということ。
 とても光栄なことだ。しかし、その願いは今の私には苦しいだけだった。彼のことを考えるとこの心地よさは私といる時ではなく、もっと他の人と過ごした時に感じてほしい。彼が広い世界に羽ばたいて、彼自身で見つけてほしい。

「……そう」

 私が否定したから、彼は私の否定を受け入れた。私が違うと言ったら違うという考えなのだろう。今の狭い世界を生きている彼にとって、正解が何かなど知る由もない。私がそう言っているのだから正しい。信頼する人物に決定権を委ねている。自分の意志に関係なく。
 彼にとって今この瞬間の『正義』は私だ。そんな彼を見ると心の底から苦しくなってしまう。彼には私の言葉を百パーセント信じるのではなく、自ら考え、決断をしてほしいから。 

 そんな私の意地悪のような言葉に、彼は少しずつ違和感を覚えていた。

「……最近、君が私を避けている気がして」

 暗い表情で顔を俯かせる姿に、私の胸は痛いほどに反応する。これは彼が確実に成長している証拠だ。

「仕事が少し忙しいから、かな。凪砂くんも寮に住むんだし最近は準備で忙しいよね」

 我ながら浅い回答だ。互いに忙しい時にも二人の時間を大切にしてきたし、彼から安らぎの時間を奪ったことなんてない。同居を止めようと提案したあの日から、明らかに私たちの歯車はずれ始めた。

「……私の我儘だったんだ。アイドルを続けて君も手に入れたいなんて」

 何かを察した彼がぽつりと言葉をこぼした。
 違う。我儘を突き通していたのは私の方だ。保護者と言う名目で彼を繋ぎ止めるようなずるい方法をとっていた。

「……君に出会えたことが、神からの導きだったのかもしれない。これから先も君と共に生きたい、そう思うのは罪深いこと?」
「――でも、」

 反論をしたいのに、この先の未来を瞬時に想像してしまって言葉が喉から出てこない。

「……君は、私のことを『愛』してくれていた?」

 彼は、まるで私が彼を大切にしていたのが嘘だったのかと責めているようだった。心外だ、と思ったが、そう思わせてしまったのは紛れもない私。自責の念と彼への罪悪感で押しつぶされそうだった。
 彼をその気にさせてしまったのも私だ。どうしたって異性で、男女。家族でもない。血のつながりのない異性同士が一つ屋根の下に住む。しかも相手は男子高校生。彼を惑わしてしまったのかもしれない。
 こうして当たり前に行ってきたスキンシップも今では少し触れただけでも心臓は煩く鼓動を進めるし、顔に熱も集まる。

「凪砂くんのことは、弟みたいに思っていたよ」

 その言葉が冷たい部屋に響いただけだった。その時の彼の表情は見られなかった。
 
 明日は、彼と過ごす『最後』の休日だ。