13
いつもの週末の時間。
昨日のことがあってか会話は続かなかった。片方が何か言っても返事をして終わり。まるでキャッチボールではなくドッジボールだ。一方的に話しているだけ。
そんな微妙は雰囲気を断ち切ったのは彼だった。テーブルの上にあるレモンを手に取って空中を仰ぐ。
何の変哲もないレモン。しかも皮の剥かれていない単なるレプリカだ。以前、レモンのパウンドケーキを食べる時のために雰囲気ついでに良いと買ったものだ。
「……檸檬は黄金の林檎、だそうだよ」
「レモンなのにリンゴ?」
「うん。聖書でしばしば描かれる金の林檎は柑橘類でもあるらしい」
博識な彼がそう言うのだから間違いないのだろう。
「禁断の果実、だね。まるで君みたいだ」
その言葉と共に頬をするりと撫でられる。あまりの衝撃に椅子を引いて膝を机にぶつける。何を言っているんだ彼は。今の状況下でそんなことを言うのは皮肉なのか、それとも、告白、なのか……。
「ど、どこでそんなこと覚えてくるの……?」
「……? ただ、君みたいだと思ったから言っただけ」
きょとんと首を傾げて、柔らかく微笑む彼は嫌に余裕だった。そんな変わらない彼の態度に気まずくなり咳払いをして椅子に座り直した。
もうひとかけら、ケーキを口に含むと、彼がフォークを置いて私の目を見つめた。その瞳には彼の確固たる意志があるように見えた。何か大事な話をする予感がして、私もフォークを置いてケーキを流し込むように紅茶を一口飲んで座りなおした。
「……今なら、君に抱く『愛』がわかるかもしれない」
「…………え?」
『愛』。それは彼にとって難解なもので、他のひとを愛するとは違うと話していた『愛』だった。
「……私は君を愛しているけど、これは父や日和くんに対する『愛』とは違う。これが何か、私はずっと考えたんだ」
少しずつ、拙いながらも言葉を紡ぐ。私のために、私のことを考えてくれる姿を見るだけで胸がいっぱいだった。目頭が熱くなる。彼の紡ぐ言葉一つひとつに、私の手先が、唇が冷たく震える。恐怖や不快感ではない。これは感動というプラスの感情だ。
「……君と過ごす日々がとても楽しかった。でも、以前の私は自身への興味は乏しかった。私自身を愛せなかったから、こんな私に本当の『無償の愛』を注いでくれたのが君。君は私にとって欠かせない存在だった。
……君からこの生活を終わらせようと話があった時、今まで経験したことのない苦しみで胸の奥は歪なものへと変化していったんだ」
彼の想いに胸が熱くなると同時に言いようのない喪失感に駆られた。それはすべて過去の話。彼の語尾が全て過去の出来事だと物語る。
もう遅いんだということを思い知らされた。私が彼より年下で甘えられるような性格であったのなら、彼と同じ年齢で年相応の可愛げがあったのなら。そとそも私が頑固ではなく柔軟な性格であったなら。何もかもがもしもの世界。今の私がなることのできない空想の話だ。
彼の必至の思いは、私が踏みにじってしまったも同然だろう。彼の成長を見守ると言いながら、私は彼のひととしての成長を否定してしまったのだから、本当に最低だ。
「……でも、もう遅いんだね」
「ごめんね……」
その謝罪は彼に対してのものか、自身の滑稽な心に言っているのか。否、今の私はすべてに謝りたいほど羞恥で震えていた。この生活を賛成してくれた七種くん。見守ってくれた日和くんと漣くん。そして期待を抱かせて自分勝手に突き放してしまった凪砂くん。そんな彼らへの謝罪だ。
同意にもとることのできる私の謝罪は、彼を酷く傷つけてしまった。複雑な表情に、私の心も痛く疼いた。
そして、静かに立ち上がった彼は「今日は出かけるから」と言って、家を後にした。
いつも彼を感じていた向かいの椅子は寂しそうに置かれているだけ。彼のいた温もりを感じるように椅子に近づくと、そこはまだ温かかった。突っ伏すように椅子にしなだれると、自然と涙がこぼれていた。始まりも終わりも私から。彼の前では泣くこともできない私は、偉そうに「私の前では泣いてもいいんだよ」なんて言った過去を自嘲した。
「どこが『弟』なの。こんな気持ちで家族だなんて笑える……」
ぼやけた世界で放った言葉は、誰に伝わるでもなく冷たい空気に消えて行った。
◇
そうして迎えた最後の夜。帰宅した彼とは視線が合わなかった。
「おやすみ、凪砂くん……」
「……おやすみ」
いつもは眠りにつくまで話しているこの時間も、今の私たちはそれをするほどの空気感ではなかった。
名残惜しさを抱きつつも仕方がないと自分に言い聞かせて無理矢理に瞼を閉じた。が、落ち着かず、なかなか眠ることができない。
ふと瞼を開けると彼の顔が間近にあった。月明かりに照らされて綺麗だった。
男の人だと意識し始めたが、それでもとても綺麗だ。雄々しさと彫刻のように美しい造形が共存する美しさ。
彼の胸元に触れると愛しさと切なさで目頭が熱く疼いた。
こんなにも愛しいと思った彼と、お別れをしなくてはならない。
彼と過ごした日はもう戻ってこない。
頬をするりと撫でると、彼がこんなにも大人になっていたことを実感する。出会った頃に小ぶりだったそれらは確実に大人の、一人の男性として成長していた。この無意味な行為にも意味が含まれてしまうほど、私は彼を異性として愛してしまった。これ以上の時を一緒にしては抑えられないのは目に見えているだろう。
早くにブレーキを掛けることができて良かった。彼と一緒にいる自分が一番好きだ。でも、それを押し通してしまってはただの自己満足だ。彼はまだこの世界が広いことを知らない。もっと多くのひとと関わって、興味を持って、色んなひとから刺激を貰ってほしい。彼はそれを受け止めるための空っぽで大きいお皿があるのだから。真っ新なそれを目一杯満たしてほしい。それを私が止める権利はないから。
目を瞑ると、彼と初めて一緒のベッドで眠ったことを思い出した。寂しそうな縮こまった背中は大きく逞しい背中へとなっている。彼は十分成長していて、私などいなくとももっと成長していくことができるだろう。彼がひととしての幸せを享受するまでは隣にいたいと願ってはいたが、そんな夢物語も今日でおしまいだ。
可愛くて、素直で、彼を明るく照らしてくれるような素敵な女性が現れたらと願う。数年後にはきっと隣にお似合いの女性がいて、幸せなはず。それは間違いなく私ではない。
そんな私の想いは無意識に口に出ていた。
「……凪砂くん、幸せになってね」
静かな寝室に小さく響くその言葉は、こぼれ落ちた涙が枕に染みこんで消えるように空気に溶け込んですぐ消えてしまった。彼に届いているとも知らずに。
彼との間には寂しい壁がまたひとつできていた。
◇
重たい体を起こすと隣に温もりがもうなかった。ベッドの近くで身支度をしている彼がいた。
「……おはよう」
「おはよう。凪砂くん」
あまりに普通の態度の彼に拍子抜けする。昨日までの彼とは違い、何も気にしていないような素振り。
今日から今までの日常が当たり前ではないものへと変わる。彼がいない生活に戻るだけなのだから、すぐに慣れるだろう。
「今日はいつもより早いんだね」
「……うん。今日は朝早く収録があるって茨から」
そう言ってスマホを取り出してメッセージを見せてくれる。合鍵をテーブルの上に置いたのを横目に見る。
「そっか」
先程までの素気のない彼はもういない。悲痛な表情で俯いている様子を見ると胸が痛く締め付けられた。一度口を噤んだ彼は顔を上げた。
「……私のことを愛してくれてありがとう。私も君を愛しているよ」
……違う。この言葉をそんな表情で言わせたかったわけじゃない。彼に、幸せになってほしかったからこの選択をしたはずなのに。
私が今涙を流しては意味がない。彼を不安にさせて疑問を抱かせるだけだ。
「うん。いってらっしゃい」
精一杯の温かい笑顔で彼を送り出した。目を細めて微笑んだ彼が玄関を出ていった。
「……さようなら、凪砂くん……」
その場にしゃがみ込んで溢れる涙が頬を伝った。