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 昼の十二時を過ぎた頃。特に予定もないのに出かけていた。彼がいたあの部屋は、彼を知りすぎているから、あそこに一人でいるといろいろと思い出してしまいそうだから。
 行きつけのカフェの窓際。明るい春に日差しが心地よく、ポカポカと暖まる。心が一時的にでも洗われるような気がした。
 カランコロンと鐘の音が何度も店内に響く。いつものアイスティーとお気に入りのケーキ、を頼む予定だったが、今日の私はケーキを見れば彼のことを思い出して気分が沈みそうだったので苦いブラックコーヒーを頼んだ。いつもとは違うことをして何になるんだと自嘲しながら。

「いらっしゃいませ」

 再び誰かが入店する音。幾度とそれを聞いている私はいちいち気に止めなかった。が、今回だけは私の近くにその影が近づいてきた気がした。知らないふりをして手元にあったコーヒーへと視線を落とす。

「暗いね」

 その言葉が耳に入ったと同時に顔を上げた。聞きなれた声。溜息をついて呆れるような声色でそう呟いたのは日和くんだった。

「え、日和くん……?」

 小声で呟いた。慌てて周囲を見ても誰も気に留めていなかった。深く帽子をかぶって眼鏡をかけている彼の姿はまさか『巴日和』だとは思わらないのだろう。

「どうしてきみはぼくと会えたのにそんなに暗い顔をするの? ファンの子だったら叫んで目を輝かせるね」

 残念そうにため息をつく彼に「ごめんね」と伝えるとより一層ため息が深くなった。

「謝ってほしいなんて言ってないね。もう」

 口を尖らせて向かいに座った彼はアイスコーヒーを頼んでいた。大量のガムシロップとミルクと共に。

「ぼくに会えたのにそんなに暗い表情をするなんてきみだけだね」

 向かいの席に座った彼が改めてそう言うと、私は謝ることもできずに気まずい空気が流れる。

「…………凪砂くんが原因?」
「えっ」
「本当にわかりやすいね。ぼくを誰だと思ってるの? きみのことはあの凪砂くんよりも知ってるつもりだね」

 幼い頃からずっと一緒に時間を過ごしてきた彼には隠し事さえままならないみたいだ。幼く可愛い弟のような彼は知らないうちにみんなのアイドルである巴日和として大人になっていた。

「私だけみたい。成長していないのは」

 思わず零れたその言葉に優しい表情で私を眺める彼。

「……みんなそうだね。成長はしていても心の中ではまだ子ども。ぼくたちはずうっと発展途上だね」

 あんなに天神爛漫で汚れを知らなかった日和くんは、今はすっかり大人だった。否、彼は綺麗だからこそ何にでもなれてしまう。白にも、黒にも。しかし、彼は黒に支配されずに彼なりの太陽を心に宿したんだ。

「だから、何者にもなることができるぼくたちは幸せになる価値もある」
「そう、だね……」
「って、凪砂くんなら言うね」

 彼の確かな一言にハッと気づかされる。
 朝の彼の態度。あまりに普通で、拍子抜けしたと感じていた。私は彼の何を見てきたんだ。あれは、以前のように、ひとに期待しない、自身を嫌う、彼なりの自己防衛ではないか。
 彼も成長しているとはいえまだまだ子どもで、私も子どもだ。知っていたはずなのにどうして私は先走った答えを出していたのだろうか。
 彼の言葉がストンと私の中に納まり、ぽっかりと空いていた穴が塞がったような気がした。

「凪砂くんに謝らなきゃ」
「ふふ、そうだね。凪砂くんすっごく寂しそうにしてたね。ぼくもそうだけど、唯一近くにいた年上の女の子はきみだけだったし、ぼくたちの前を歩いて道しるべになってくれたのはきみだけだったから。それが突然いなくなっちゃうなんて悲しいね」
「日和くんありがとう」
「もう、感謝の言葉なら今度たっぷり聞くから、今は早く凪砂くんのところに行ってほしいね」

 ぷんぷんと音が聞こえそうなほどツンとした態度の裏には安堵が垣間見えて胸が暖かくなった。

「うん、またね!」

 手をひらりと振った彼に手を振り返すと満足そうに微笑んでいた。
 スマホを鞄から徐に出してすぐに彼とのトーク画面を開く。電話のアイコンをタップしてはすぐさま耳に当てた。メッセージはすぐに返ってこないとわかっているから。
 一回目、二回目とコール音を聞くたびに私の心は張り裂けそうになる。あんな別れ方をしておきながら、彼はどんな気持ちでこの電話を取ってくれるだろうか。嫌悪感を抱かれてもおかしくはない。
 三回目のコールが鳴り響いたあたりで私の鼻先はツンと痛く疼いた。

『もしもし』

 出てくれた。その事実だけで嬉しくて安堵と緊張で声を出せない。今言わないでどうするんだ。彼に伝えなくてはいけないことがたくさんあるのだから。声を必死に出した。

「な、ぎさくん」
『……うん』
「今から、会える?」

 その言葉を吐き出した時、電話口から聞こえる彼の口から優しい微笑みが聞こえた気がした。私のことをずっと待ってくれていたかのように。自身の幼稚さがとても恥ずかしい。
 立ち止まって、一呼吸おく。

「今日の夜、もう一度だけ家に来てほしいの。ちゃんと話したくて」
『わかった』

 それだけの短い会話。それで十分だった。彼がまたあの家に来てくれて、私と会話をする機会を与えてくれたのだから。