恋に触れた日




 ふわりと鼻腔を擽る甘い香りに思わず顔を上げる。そうすれば、真横に座っている涼香ちゃんは不思議そうに首を傾げながら口を開く。

「どうかした?」
「いや、何。いい匂いがした気がしてさ」
「そう?…何の匂いだろう」

 ふたりですんすんと鼻を鳴らしながら周りの匂いを嗅いでいる様子は、周りからみれば少し変な光景かもしれない。
 ついになんの匂いか分からず、ふたりしてもう一度首を傾げながらまた元の教科書に目を移す。

「DV事案の対応について考えてたら昔のこと思い出すなぁ……」
「まあ、昔は色々あったもんな」
「こうやって勉強してると、あの頃お世話になったお姉さん達のこと思い出すよ。というか、勉強なんて降谷くんに訊けばいいのに…なんで私に?」
「降谷ちゃんは人気だからな」

 「確かに」なんてくすくすと笑いながら涼香ちゃんは適当にページを捲っている。
 小さく息を吐いたかと思えば、悪戯っぽく笑いながら俺の方に向いて続ける。

「かと言って、私暗記全振りだけど大丈夫そう?」
「俺よか出来るでしょ」
「まあ、そうかも」
「言ってくれんね」

 くすくすと笑いながら机に向き直した涼香ちゃんの髪の毛がふわりと舞って、さっきと同じ甘い香り。
 あ、涼香ちゃんの髪の匂いか。さっき風呂の時間だったし、多分それでだろう。……少し変態臭かったかもしれない。匂いの正体には気付いたけれど、涼香ちゃんには言わない方がいいかもしれない。
 そんなことを考えながら不意に、消しカスをはらった拍子に涼香ちゃんの手に自分の手がぶつかってしまう。

「おっと、悪ぃな」
「…だいじょぶ。えっと、さっきのどこだっけ」
「えっと……」

 何となく歯切れの悪い涼香ちゃんの方をちらりと見てみれば、髪の隙間から覗いた小さな耳は真っ赤に染まっていて。思わず口元を押さえる。
 いやいや、落ち着け。見間違いかもしれねぇ。もう一度バレないように盗み見ればやっぱり真っ赤。

「……どしたの?」
「……いや、」

 不審そうにこちらをじとりと睨む涼香ちゃん。周りにバレないよう、適当な紙に『耳、赤いよ』なんて書いてみる。
 それを確認し、目を丸くしたかと思えばばっと耳を押さえ更にこちらを睨み付けてくる涼香ちゃん。
 震える手でペンを持ち『悪い?』なんて一言を書いたかと思えば、自分の手元に紙を引き寄せて少し長めに何かを書いている。
 必死に書いている横顔を何となく眺めていれば、恥ずかしそうに差し出された紙に書かれた文字をゆっくりと目で追う。

『好きな人の横に座ってんだから当たり前でしょ』

 丁寧に書かれたその文字を読んでいればこっちまで恥ずかしくなってきた。
 どうやって返すべきか…、なんて考えながら涼香ちゃんの書いた文字と睨み合いを始める。そんな時だった。

「お前らなにしてんだ?」
「うおっ!って班長かよ……!びっくりした……」
「あ、こんばんは。萩にね、生活安全の辺り教えてた。あと法学」

 突然話し掛けできたのは伊達班長。そんな班長に驚いて、思わずさっきまで睨めっこしていた紙をくしゃりと隠してしまう。

「萩原、何書いてたんだ?」
「どうせまた落書きでしょ〜?昔っからそうだもんね」
「いやぁ……ははは…」

 どうしてさっきまであんな真っ赤んなって恥ずかしそうにしてたのに、こんな嘘付けるくらい平気なんだよ……。
 横目で見る彼女はもうすっかりいつも通りで。

「丁度いいや、分かんねぇとこあるから俺も混ぜてもらって構わねぇか?」
「全然大丈夫だよ〜。って次席の伊達さんに教えるとことかある……?」
「ははは、まあわかんねぇとこは一緒に考えようや」

 そう言ってどかりと前の席に座った班長は持っていた教科書を開いて、早速涼香ちゃんと覗き合っている。
 教えて貰ってたの、俺なんだけどな。なんてぼんやりと考えながら同じように班長の教科書を覗き込んだ。


 最近、涼香ちゃんにドキマギさせられ続けている気がする。
 近くに来た時のシャンプーの香り、たまに手に当たるふわふわの髪の毛。「萩?」なんてぼーっとしている俺の名前を呼びながら顔を覗き込んできたり、今まで意識なんてしていなかったけど案外近い距離だったり。
 涼香ちゃんに告白をされてから、意識なんてしていなかった筈のことをどんどん意識させられて、俺が俺じゃなくなるみたいだ。


────────


 最近、萩に避けられている気がする。
 気持ちを伝えて、少しでも意識してもらうため
好きになってもらうために頑張っていたつもりなんだけれど。それが裏目に出ていたのか。
 露骨にアピールする子、苦手だったのかな……。なんて今更になって後悔ばかりしている。

「……また、萩原となんかあった?」
「……何も無いよ?」
「今回は根掘り葉掘り全部聞かせてもらうからねん」
「えぇ〜……」

 真梨ちゃんにがっちりと腕を掴まれそのまま人気の無い適当な場所に引きずられて行く。
 聞かれるがまま、ここ最近にあった萩とのことをぽつりぽつりと話していく。ああ、何かデジャブを感じたのは、刑事関係の取調べ要領を最近習ったからか……。

「───ということがあったわけです」
「…フン、続けて」
「真梨ちゃん、顔凄い事になってるけど…」
「気のせいじゃない?」

 楽しそうにニコニコとした後、自分の中で整理がついたのか「ほら、続き」なんてまた嬉しそうに続きをせがむ真梨ちゃん。

「……で、何か。最近ちょっと萩の様子がおかしくて」
「あ〜…、まあ、確かに。萩原の名誉のために言わないでおくけど、そういう事だったんだね」
「え?何かあったの?」
「萩原はニワカだったって話」

 何らかを思い出したのか、真梨ちゃんは至極楽しそうに笑っている。他人事だから当たり前なんだろうけど、此方としては笑い事では無いのだ。

「言わなきゃ良かったのかな…」
「まあ、何とかなるよ。ほら、萩原アホだし」
「適当なんだから……」
「私に何らかの助言求めようとしてる方がおかしいよ」

 とっても失礼な話だけど、ぐうの音も出ないかもしれない。
 ぐぬぬ、なんて呻いていれば「そうだね、」なんて真梨ちゃんは立ち上がって背を向けて歩き出す。

「涼香ちゃんが心配する程、事態は深刻じゃないだろうし肩の力抜きなよ。次の休み、気分転換にお出掛けでもしてくれば?」
「うえ、……萩のこと、さ、誘って…?」
「さあ?あとは知らない。どこ行ったか教えてね」
「無責任!」
「あはは、今更」

 ヘラヘラと笑いながら手を挙げてどこかに行ってしまった真梨ちゃん。他人事だと思って…!なんて考えるけど、実際は他人事だ。
 お出掛けに、誘う……?誘ってみようか…、いや…どこに?なんて、うーんと唸りながら考える。
 考え事をしながら歩いていれば、曲がり角から突然現れた影を避けることが出来ずにそのままぶつかってしまう。

「わっぷ、すみませ…あ、萩」
「こっちこそ、ありゃ、りょーかちゃん」

 顔をあげればそこには萩が居て。
 ぶつかってしまったのが萩で良かった…。これが教官とかだったらしこたま怒られていたかもしれない。

「どしたの?難しい顔して。考え事?」
「や…その」
「ん?」

 いや、萩の事考えてたなんて言えるわけないでしょ。そう一人心の中でツッコミを入れながらどう返すかうーんとまたまた考える。
 あ、もういっそ本人に訊いてしまおうか。萩ならモテるし、いい感じの答えが訊けそうだ。

「……そうだなぁ、…萩なら、」
「ん?」
「デートとか、誘うならどこ誘う?」
「…は?……なに、誰か誘うの」

 いつもより低い声に思わずびくりと体を揺らす。普段はにこにことしているのに少し不機嫌そうな顔をした萩から見下ろされて、──実父を、怒鳴られている時の事を思い出し喉が引きつって上手く声が出ない。

「ゃ…その、きぃ…てみた、だけ……ごめん、なさい……」
「…ふぅん、そっか。……まあ、無難に買い物とかじゃない?あぁ、そういえば米花水族館リニューアルしたところがあるらしいぜ」
「水族館、…うん、ありがと」
「お役に立てたなら何より、じゃあな」

 すっと私の横を抜けて、この場から立ち去ろうとする萩。思わず「ま、待って!」なんて大きな声で呼び止めれば、ピタリと足を止めて此方に振り返ってくれる。
 萩に駆け寄り彼が逃げてしまわないように手をがっしりと掴めば、萩は目をまぁるくしている。

「何?」
「や、逃げないように……」
「はは、別に逃げねぇよ。で?」
「あの」
「おう」

 すうはあと何度か息を整えてじっと萩の顔を見る。改めて顔をよく見ると、整ってるし、かっこいいな……いや、違う今はそうじゃない。

「あの、」
「……おう」
「あの、次の土曜日。お出掛けしませんか」
「……は?」
「米花水族館、行かない……?あとは、その。お買い物とか…」

 こんな顔、初めて見たかもしれない。というぐらい目はまんまるで、口はぽかんと開いていて少し間抜けかも。放心状態とでも言うのか、目の前でふりふりと手を振ってもフリーズしていて動かない。

「は、はぎ……?」
「ふっ、ふは…あはははは!!」
「えっえっ、なに!?」

 その場にしゃがみこんで大声で笑い出してしまった萩に思わず困惑。
 いや、まあ確かにさっき訊かれたプランそのまま使われたらそうもなるか。でも、そんな笑うことある?!

「……笑い過ぎじゃない?」
「うはは、ごめんな。まさかそう来るとは思ってなくて」
「もう、…でも、これが確実でしょ?」
「ふは、確かにな。……おう、いいぜ。陣平ちゃんとかも誘おうか?」
「ねぇ!こっちは、真剣に誘ってんの!」

 むっと怒った顔を向ければ「悪ぃ」なんて謝りながら立ち上がる。
 さっきより雰囲気は解れていつも通りにこにことしていて思わず安心する。萩は笑ってる方がなんだか可愛くて似合うな、なんて。

「次の土曜な、暇だしいいぜ。楽しませてくれる?」
「う…まあ、こういうの初めてだけど……。頑張ってはみるよ。はあ、良かった。上手くいって」
「まさか本人にプラン訊いて実行するとはなぁ?」
「も〜、笑い過ぎ!」

 そうやって未だに笑っている萩の手をぺいっと投げながら同じように顔を緩ませるのだった。





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