グラスの氷がとけるまで


かけがえのない一日を


彼の誕生日の翌日、一日空いている日がいつか聞かれたので翌週の土曜日だと答えた。
朝9時に集合と言われていたので、五分前を狙って彼の家の前に向かう。朝は弱いと聞いていたけれど、私が到着したときにはゆったりとタバコをふかしていた。


よし、今日は遊び倒すぞ


携帯灰皿に吸い殻をおさめて、車へ向かった彼に続く。
実は指定されたのは集合時間だけで、目的地の相談などはしていない。行くところに目星はついているとのことなので、私は大人しくついて行くことにした。


わー、映画観るの久しぶり


まず到着したのは映画館。デートの定番だけど、彼と来るのは初めて。というより、一緒に映画を観ること自体が初めてな気がする。


お、今の時間帯はこのあたりか


彼の視線の先には、作品名や上映時間が映し出されたモニターがあった。どうやら目当ての作品があるわけではないらしく、どれにするか意見を求められた。上映開始が近いものを優先したので選択肢は三つ、ホラーかラブストーリーかコメディ。私が選んだのはコメディで、おバカなノリの洋画だ。却下されるかとも思ったけどそんなことはなく、むしろ彼はさっさとチケットを購入してしまった。


あんなに下世話だとは思わなかった。でも面白かったね
おー、声だして笑うところだったわ


いや声出てたよ、とは思ったけど大目に見ることにする。
上映前は少し不安だったけど、蓋を開けてみればなかなかに痛快な作品だった。ところどころで下ネタは出てきたけれど、主人公はヒロインに振り向いてもらおうと空回りしながらも終始一生懸命で、好感がもてた。ああいう映画って男性ウケが良いんだと思っていたけど、女性客もそれなりにいたな。そんなことを考えて出口へ歩いていると、今になってホットスナックの香りに食欲をそそられてしまう。朝はちゃんと食べていたが、お昼どきなんだからしょうが
ない。


なんか食うか


映画館を出て、なんとなく車を停めた場所を意識しながら歩き始める。ファストフード店の前を通りかかったとき、隣で彼が「お、うまそう」とつぶやいた。十中八九、店先の看板「期間限定!ソルトアンドペッパーパティ、いまだけ増量2枚」を見たのだろう。このあたりは表通りじゃないので、すぐに座れそうだ。


映画観てハンバーガー食べてって、なんか学生みたいで良いね


パティ2枚入りにかぶりつく彼にそう呼びかけると、ハンバーガーを飲み込んで「そうか?」と少し不思議そうに返事された。私は久しぶりに来たけど、周りを見れば社会人や年配の利用客もいる。たしかに、ファストフード店イコール学生ではないらしい。


このあとどうしよっか
サウナ行って晩飯食って寝る、晩飯は一応19時で予約してる


お昼ご飯を食べて解散、じゃなくて嬉しいけど、サウナに行くのは初耳だ。タオルも化粧水もなにも持っていないと断ってみたが、アメニティが充実しているから大丈夫だと結局は丸め込まれてしまった。そうは言っても最低限、まゆげを描いたりしたい。どこかでコンビニとかに寄って買おう。

昼食を終えて車を移動させ、腹ごなしに中華街をぶらぶらと歩き回る。途中、誘惑に負けて月餅や麻花(マーファー)を買ってしまった。駅前でも買えるけど、中華街で買う方がおいしい気がするのだ。彼は顔見知りが多いのか、声をかけられては律儀にあいさつを返して歩く。昨晩はせっかくのデートなので少しくらい手でもつなごうかと考えていたが、やっぱり恥ずかしいのでやめておこう。

お腹がこなれたところで、サウナに向かう。途中お手洗いを理由にコンビニに寄り(こっそり化粧品も買って)、車内であわてて入浴の流れを検索して確認した。彼は受付で説明された通りにすれば大丈夫だと言うが、私はこれが初めてなのだ。なにもしでかさないと良いんだけど。リサーチもそこそこに、受付でロッカーの鍵を受け取り、施設の説明を受けて女湯へ向かった。


どうだった?
気持ちよかったです……
だろ?


彼はサウナ好きでよく利用するらしく、私がサウナの魅力を体感したことに気を良くしたのか得意げだ。
最初は息苦しさを覚えたものの、暖かい部屋に入るのとクーリング(水風呂や温度の低い部屋に入ること)を繰り返しているうちに慣れていった。本当に毛穴という毛穴から汗が吹き出してびっくりしたけど、たしかに代謝アップやデトックスといった効果がありそうだと実感できた。


ちゃんと水分補給したか?
ばっちり、お水たくさん飲んだ
よし、じゃあ行くか


最後に向かったのはホテル併設の和食レストラン。なんでもサウナのあとは味覚が敏感になるらしく、あえて素朴な和食を楽しもうという彼のはからいだ。たしかに、お米もお刺身も煮物も、どれもいつも以上においしく感じる気がする。


朝から遊んだからさすがに疲れたな


テーブルの向かいの彼が伸びをして、大きなあくびをした。つられて出そうになったあくびを噛み殺して、そうだね、と返事をする。楽しかったけど、たしかに疲れたし正直けっこう眠い。


帰るの面倒だし泊まっちまうか
えっ、着替えとか持って来てないよ
同じの着りゃいーだろ、夏じゃねぇし


まあ彼がそれで良いなら構わないが、お金もそんなに持って来ていない。思えばずっと払ってもらってしまったが、このホテルは海が見える立地だし絶対にお高い。私が尻込みしていると、彼はポケットから紙切れを取り出した。


今日の日付が変わるまで有効だよな?


それは先週、彼の誕生日に渡した「一日私貸出券」だった。一日と書いているので、有効期限は彼の言う通りだ。結局、お会計を済ませたその足で、上の階のホテルにチェックインしてしまった。せめて一人分の宿泊費くらいはと財布を取り出すも「なにしてんだしまえ」と止められた。


いいんだよ、俺がお前と行きたかったトコに付き合わせたんだから
うん、わかった。あらためてお誕生日おめでとう
おうサンキュー、おかげで一日楽しめたわ


でもクソねみぃ、とふかふかの敷布団にぼふっと仰向けで沈む彼は、遊園地から帰宅した子供のようだ。そのままじゃ風邪ひくよ、と声をかけ、備え付けのパジャマを手に脱衣所へ向かった。デートプランや支払いはお任せしてしまったけど、楽しい思い出をプレゼントできたと思ってもいいんだろうか。
着替えを済ませて部屋に戻ると、彼もパジャマを着てちゃんと布団をかぶっていた。なんなら寝息も聞こえるので、部屋を暗くして静かに布団にもぐりこむ。彼の寝顔を見つめていると、出会えて良かったなあ、としみじみと感じられた。生まれてくれてありがとう、また一年元気に過ごしてね、という気持ちをこめて手をそっとにぎる。
心地よい寝息と手の温度を感じながら、ふかふかの布団の中でゆっくり目を閉じた。



部屋に戻ってきた左馬刻がご機嫌だったので、銃兎が「なんだよ気色悪いな」と悪態をつく。玄関で恋人を見送っていたはずなので、実際なにか良いことがあったのだろう。
今日は左馬刻の誕生日だからと、銃兎と二人でこっそり家まで押しかけたところ、部屋にはすでに恋人がいた。こちらはサプライズのつもりで事前連絡をしていなかったので、完全にお邪魔する形になってしまった。食材と酒だけ置いて行こうと思ったところ、彼女は次の日も仕事だからと帰路についたのだ。申し訳なくはあるが、せっかくの厚意なのでありがたく三人で酒を飲むことにする。二、三杯くらいずつ飲んだあたりで、左馬刻が「なあ」と切り出した。


今度あいつには埋め合わせしようと思ってンだけどよ、ちっと頼まれてくんねぇか


指定された土曜の朝8時半。銃兎の車に乗り、二人で左馬刻の家が見える駐車場で張り込みをする。左馬刻の頼みというのは、恋人とのデートの際に絡んでくる不届き者を追い払って欲しい、というものだった。どんな輩が絡んでくるかは分からないが、このごろ小競り合いをしている組の者を特に注意して欲しいとのことだ。


いい天気ですねえ
そうだな……銃兎、あまり気をゆるめない方が良い
安心してください、真面目にやりますよ。ほら、恋人のお出ましじゃないですか?


銃兎が二人を確認してエンジンをかける。今のところ、この近辺には怪しい人物はいなさそうだ。今日のルートはざっくりだが、映画館、昼食、中華街を散歩、サウナ、夕食だと聞いている。途中、寄り道することを考慮して、左馬刻の衣服にはGPSを付けさせてもらった。


おそらく上映中は危険が少ない、今のうちに小官らは腹ごしらえをしよう
そうですね


映画館の近くのファミレスで腹を満たす間も、発信機の情報を見落とさないよう注意する。左馬刻によれば、今日は一日遊び回るつもりらしいので、どこかで携帯食を調達した方が良いかも知れない。ふと、銃兎がため息をつく。


どんな型破りな方かと思えば、案外フツーの女性ですね


どうやら左馬刻の恋人のことを言っているらしい。話に聞いてはいたが、ただのOLというのは本当のようだ。本来、荒事とは無縁なタイプの女性だろう、彼女と極道の者を会わせるわけにはいかないな。銃兎もそう考えたのか、市民の安全は守らないといけませんね、と独りごちてタバコに火をつけようとする。そのとき、発信機からの反応があった。


目標が動き出したようだ
チッ……では我々も移動しましょうか


左馬刻らが昼食を終え、中華街を散策し始めるタイミングで二手に別れる。騒ぎを起こさないよう、ヒプノシスマイクの使用は極力控え、肉弾戦や交渉で事態を収束させる方針だ。案の定と言うべきか、怪しい人物が多く現れたのはやはり中華街近辺だった。特に注意して欲しいと言われた組の事務所などがある地帯なので、当然と言えば当然だ。このあたりは人目も多い、目撃情報を拡散した者がいたのだろう。左馬刻に接触しようとする物が次から次へと現れだしたころ、二人の移動速度が加速する。おそらく車を拾ってサウナへ向かったのだろう。小官らも追わなければ。


まったく……人から恨まれるのも考えものだな


銃兎は合流するなり車を発進させた。追跡されていないか警戒したが、その心配はなさそうだ。左馬刻らが入館したサウナ施設は90分制らしく、身支度など含めて2時間ほどの滞在が見込まれる。まだ夕食には早いので、適当な場所に車を停めて休息をとることにした。ずっと座っていると体がかたまってしまうので、車外で軽くストレッチをする。銃兎も運転席から出て、タバコを取り出した。


人に厄介払いを頼んで、いい御身分ですねえ
こういう誕生日プレゼントも、また趣向が違って良いものではないか
まあ今日はそれで勘弁してあげましょうか


軽口を叩いて煙を吐く仲間の様子を見ていると、ふと平和だなという感覚がわく。銃兎も左馬刻も、警官としてヤクザとして責務を全うしているわけだが、リラックスできる時間というのはやはりどんな人間にも必要なのだろう。


どうかしましたか?
うむ、穏やかな休日とは良いものだな、と思ったのだ
おかげでこちらは慌ただしい休日を過ごしているわけですがね


そうは言いながら銃兎の声にトゲはなく、吸い殻をゆったりと片付けて「車内で少し休みます」と運転席に戻る。
体力を温存するのも大切だ、任務は二人の平穏な夕食を見届けるまで続くのだから。
さて、小官はもう少し体をほぐすとしよう。

- 3 -

*前次#


ページ: