「竜崎の恋人はヴィオラだよ」
廊下の奥から聞こえてきた会話に上履きが止まる。一体どんな流れからその言葉が出てきたかはわからないが、今この時の威力だけはどのような意味でも変わることはないだろう。
「竜崎?」
「っ、悪い」
朝日奈が下から覗き込むようにこちらの顔色を窺う。三日後のデュオについて打ち合わせをしていたというのに雑念に囚われていた。らしくない、このまま上の空で話を詰めたとしてもいいものが出来上がる気がしない。今日は早めに切り上げて自主練にでもと腰を浮かした瞬間、ブレザーがくいっと引っ張られる。
「何かあった?」
「何かって」
お前のことだと言いそうになるのをぐっと堪える。今持て余している感情は自分勝手なものでしかない。気遣わしく見上げる朝日奈に当たるのは駄目だと理性が押し留める。
「何もない」
そうしてこの話は終わりだと無理やり打ち切った途端、バチンッ! と豪快な音が己の頬から叩き出された。
「はい! 言いたいことは言う!」
強烈な痛みとともに鋭い視線がお見舞いされる。一瞬たりとも逃がさないという意思がこちらの良心を刺す。
「……授業終わりに友人たちと話しているところを偶然耳にした。……その、俺の恋人はヴィオラだとか」
気まずくなって目を逸らす。本当は顔ごと隠したかったのだが、今朝日奈に固定されているのでそれは無理だった。
「たしかに昔そう言っていたから強くは言えないが」
それでも現実に付き合っている彼女の口から聞くと歯がゆいものがある。
「竜崎の好きな人は誰?」
「それは……朝日奈、だ」
改めて言うほどでもない、というか朝日奈もわかっているだろうにわざわざ言わせようとするとはどういう意図があるのかと裏を勘ぐってしまう。もしかしていつもの如く揶揄っているつもりではないかとはたと気づき、
「うん、それでいいよ」
愛しく笑う朝日奈に噛みつこうとした声が押し込まれた。何もかも受け入れると言われているみたいで、ぶつかる相手を求めていたぐちゃぐちゃな感情が行き場を失う。
「……よくはないだろう」
「じゃあヴィオラは愛人?」
「それも違う」
「じゃあ私が愛人だ」
「朝日奈!」
これではいつまで経っても駄々を捏ねているようにしか見えない。いや、初めから自分が一方的にゴネていたのだから正しいのだが納得がいかない。
「いいんだよ、名前なんて。きみが好きでいてくれる、それだけでいい」
やさしく奏でるように桜色の唇から滑り出た言葉たちにガツンと頭を殴られた感覚に陥る。
自分たちは恋に現を抜かしている場合も暇もない。ただひたすらにまだ見ぬ世界を目指している。そこに心を乱す要素を持ち込む余地はない。
しかし、だ。
「朝日奈はどうなんだ」
「え?」
ぱちくりと睫毛が星を弾く。その呆けた表情に自分ばかり振り回されて、自分だけが好きなんじゃないかと子供じみた感情は募るばかりだ。
「馬鹿だなあ」
「なっ、馬鹿とは」
「好きだよ」
当たり前じゃんとなんてことないように朝日奈は言いきった。そこに気休めと言った慰めは存在していない。
再開しようと楽譜に目線を落とした姿に言い返そうとしていた気持ちが萎み、一生敵わないなと悟る。勝負をしていたわけではないけれど、この先ずっと朝日奈唯という人間に翻弄され続けるのだろう。時には危なっかしく、勇ましく。そんな彼女に導かれ、時に腕を引っ張って共に歩いていく。
そこに名前なんて要らないのだ。