憎き男

「姫様」
 声を潜めてメイドが傍に駆け寄ってくる。その表情は怪訝半分焦燥半分といった、告げようか告げまいか迷っている彼女の態度でおのずと眉間が狭まる。
「無礼があっても構わないわ。何があったの」
「――モラン卿から火急の報せが」

 ざくりと背丈の低い草が踏み躙られ、歩を進めるたびに耳奥に残りそうな音を蹴っていく。
「モラン卿」
 息子とは正反対の、生真面目を人間にしたような壮年の男性に声をかければ、白髪の見当たらない頭が恭しく下げられた。
「こんなところまでわざわざご足労いただきありがとうございます、王女殿下」
 こんなところまで来させたのはどこの誰だと悪態をつきたくなったのを黒のヘッドドレスに隠し、あくまで穏やかに話を続ける。
「遺体は見つかっていないそうね」
「はい。息子がいた戦線は戦闘が激しく、生存は絶望的とだけ電報が」
 激戦区は片腕が見つかれば御の字の場所で、アフガニスタンはその中でも三本の指に入る。アフガニスタンで戦争をしているおかげで世界大戦を避けられているなどとほざいている公爵アホを地中に首だけ出ている形で戦場に埋めたいと考えていることはこの際置いておく。
「親の言いつけなんて耳も傾けず女遊びばかりしていたバカ息子でしたが」
「およしなさい」
 虚をつかれたようにモラン卿の顔が上がる。
「反りは合わなかったのだろうけど、別に本気で嫌いだったわけでもないでしょう」
「殿下……」
「寧ろこちらこそ悪かったわ。彼を引き留められなくて」
 引き留める気なんて更々なかったくせに、と悲壮面を引っさげる自分の技量を冷ややかに嘲笑う。
 一貴族の息子の葬式をわざわざ火急の知らせで、それも名指しで特定の王族に知らせるなんて不敬罪と謗られてもおかしくないほどにありえない。
 このモラン卿が王族との繋がりを欲していたのは見え透いていた。何かとセバスチャンを連れ回したり一緒にいたりしたのを男女の仲だと勘繰ったのだろう。そんな関係じゃないとやんわり反論したとしてもこの御仁は聞いちゃくれないことは火を見るより明らかだった。そういうところは息子のほうが、と言いたくなったが、一応大人であるので口を噤んでおく。
「アレを持ってきて頂戴」
 傍に控えていた従者を呼び、その手に年代物のウィスキーボトルがあると知るやいなや、柳眉が皺を打ち寄せる。
「それは」
「墓に入れても?」
「構いませんが……」
「ありがとう」
 主のいない空の棺を見下ろす。
「貴方には餞別ばかり贈っていて、貰った試しがなかったわね」
 木っ端微塵の肉片になった可能性も無きにしも非ずだが、セバスチャンのことだ、どうせ生き残っているだろう。証拠はない。ただそう確信している自分がいる。死ぬなとあの月の夜に誓わせたから。
 しかし今後会えるとは限らない。というか生きていたとして、実家に顔を見せに行く甲斐性を持ち合わせていないセバスチャンが貴族社会の象徴みたいな自分に会いに来る確率は低い。死んだことになっているのなら享楽に身を任す生き方を選ぶ。片手に美女、片手に酒を携えてボードゲームと放蕩に耽る姿をゆうに想像できて笑わずにはいられなかった。
「で、殿下?」
 困惑声を合図につい、とボトルを掲げ、琥珀色で満たされた冷たい瓶の胴に口づけた。
 不謹慎だなんだで後ろにいる人間たちがザワついたがポーズとしては十分のはずだ。当たり前の話として瓶の味はしない。
 一緒に時を過ごしていたときには一度たりともしようとは思わなかったのに、今ここでそうするのが正解だと心の底から思った。ひょっとしたら私はずっとこうしたかったのかもしれない。
 ゆっくり唇を離しながら遠くない昔を想う。
 あっちへふらふら、こっちへふらふら。女のケツを追って、時々痛い目を見て。そのくせ気に入った人間の面倒見がよくて、貴族らしからぬフラットな目線を持っていて、笑った顔は幼くて。
「地獄で会おう、クソ野郎」
 花で敷き詰められた棺にそれを放り投げる。随分としっかり詰められていたようで、セバスチャンの生まれ年と同じウィスキーが底に沈むことはなかった。
「じゃあな、モラン卿。健やかであれよ」
 長い軍生活によりたびたび飛び出すようになってしまった粗暴な口調。王族がいる場でも出てしまう回数が増えていたので直そうかと割と真剣に検討していたが、やめた。そのくらいの感傷くらい許されるはずだ。
 呆然とする遺族と参列客を置いて葬儀場から出ると、風が強く吹いて髪を攫う。その行く先を我知らず見上げる。
 灰色のロンドンは何故か今日は晴れていた。

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Boy Meets Lady