鬱陶しい首元を乱暴に緩めながら、豪奢なだけで何の感慨も湧かせない廊下を一人歩く。妍を競うように煌びやかにするだけしてその実、中身がなく楽しくもない空虚な夜がモランは嫌いだった。
こんなことなら今お気に入りの下町のとある娘のところに行っていればよかったと曲を遠くに聴いていると、三人掛けの長ソファの端で座っている人影を見つける。それが見知らぬ人間ならば無視して通り過ぎていただろうが、その人間が傍にお供を連れていなければおかしい身分の人間であったら話は別だ。
「何やってんだ」
ましてやヒールを脱いでつま先でブラブラと浮かせているところを他国の人間に見られたらはしたないと心象が最悪だ。事になる前に対処しなければならない。
「見ればわかるでしょ。サボりよ、サボり」
とか普段動きもしない貴族意識が馬車馬のごとく走ったモランにこの国の王女はそう言いのけた。
「バレたら怒られるだろ」
「先生が優秀だからバレてないわ」
文句があるなら言ってみろとばかりに傲慢に顎を上げ、憎たらしく笑う。
あとで侍従になんで連れ戻さなかったのかと鬼の形相で捲し立てられるんだろうなと半目になりながら、行儀悪く頬杖をついている女の反対側の肘掛けに腰を載せる。本来ならば貴人の傍では許されない行為も人がいない場所で気にするのも馬鹿馬鹿しいと彼女が一蹴しているので、今夜もその恩恵に与ることにした。
「久しぶりね。いつ以来?」
「数えることほど暇なことはないって自分で言ってただろ。忘れたのか?」
「そういえばそんなことも言ったわね」
「で、今日は何人だ」
「五人。そっちは」
「四人」
二人で同時に吹き出し、くつくつと肩を震わせる音が廊下にさざめく。苦笑も二人ですればただの景気のいい笑いへと変わる。
社交界は大規模お見合いパーティーと言っても過言ではない。しかも道筋が決まりきっていることが多い、予定調和の演劇だ。よほどのことがない限り、その場に連れてこられた時点で顛末が決まっているのが常の笑劇であった。
「お前よく断れてんな」
「末妹のワガママは通りやすいの」
上の兄姉が多いから急いてしなくてもいいし、公務も他の王族に比べても精力的に取り組んでいることも見逃されている理由の一つだろう。引く手数多なのは相変わらずのようだが。
「ワガママと言えば、軍に入ると聞いたわ。オックスフォードを卒業したらすぐ?」
「ああ」
「へぇ」
自分から話を振った割に興味がないと言わんばかりの雑な対応をされる。寂しい、なんて言ってもらえると期待していたわけではないけれど、もっと何か他にかけるに相応しい言葉があっただろうにと口元がひん曲がる。
「この世界から抜け出したいという望みをようやく叶えられるわね。よかったじゃない」
王族と貴族と身分は違うものの、イートン・カレッジに入る前からの長い付き合いでお互いがどんな性格で、何についてどう思っているのか知っている。故にその言葉に僻みなどといった感情が含まれず、ただ純粋に彼女が喜んでいることはわかっていた。
「今日で社交界としばらくお別れなら、気になる女性に粉でもかけてきなさいな」
だからか、けれどか。どちらとも言えるものの、兎に角そんな突飛な提案に反応するのが遅くなった。
「なんでだよ」
「軍に入ったら本命と会える機会も少なくなるでしょう。今のうちに捕まえておいて損はないわ」
御父上にせっつかれるよりはマシじゃないかしら? と玩具を見つけた大人のような目をこちらに流す。
「これまで不特定多数の女性に声を掛けていたのは本命を隠すため、というのがご令嬢方の最新の仮説みたいよ」
ご令嬢方も面白いことを考えるわねと扇で口元を隠すこともせず彼女は笑う。時々面倒臭いことにもなるが、大方は彼女の言う通り不特定多数の女に声を掛けてきた。ただそれだけのこと。
モランの腹を煮立たせるには十分だった。
「何してるの。あともう少しで舞踏会終わるわよ」
ほら行った行ったと投げやりにハンカチを振る、その繊手を掴む。
「セバスチャン?」
吸い込まれるような瞳がわずかに揺れる。感情を抑制する訓練を叩き込まれている王族が動揺することは滅多になく、こんな風に素を見せたことで幾らかの溜飲は下がった。
が、足りない。こんなもので今すぐ彼女の首を噛みちぎりたくなった衝動を収めることはできなかった。
「軍に行く餞に箔をつけるならアンタくらいがいいだろ」
噛みつきたくなるのをギリギリで抑えてなるべく軽薄に伝えれば、並の男では飛び上がってしまうような鋭い視線が真意を探る。勿論、慣れてしまえばなんてことない代物だ。
一分に満たない時間が過ぎたあと、
「高くつくわよ」
と彼女はソファから立ち上がりモランの手を取った。
微かに聴こえるシュトラウスが二人のステップを邪魔することはない。
微笑を浮かべるでもなく、恥じらうでもなく。
ただ淡々と厳かに。
それでいて見た者がいたら全員息を飲んでいただろう優雅な動きが静謐なる廊下を滑らかに泳ぐ。この光景に水を差す野暮はいない。本人たちでさえも足を止めようとはしなかった。それがどういうことを表すのか互いに理解していたのだろうか。
彼女のドレスの裾が舞い上がり、ダンスを始めた元の位置、つまりはソファの前ですべてが幕を降ろした。
繋がれていた手がするりと逃げる。残っている感触は今この瞬間にも薄れていく。
「死なないで」
布越しの温もりが未だ残る己の手を見ていた視線を上げる。月明かりがもたらす影のせいでその表情はうかがい知れない。酷く細い声だった。あの彼女が紡いだとはにわかには信じられないほど脆く、触れたらすべてを壊してしまいそうな。
「国のためだとか、そんなちっぽけなもののために命を落とさないで」
――私のために。
そんなふうに縋る弱い女ではない。あくまで自分が思い描いたように、モラン自身のために死ぬなと。
「ああ」
激情はない。あるのは誓いだ。
彼女が言うように自分のために生きよう。誰に囚われることなく、自由に。
「まあ私と踊ったのだからそれくらいの加護があって然るべきだと思うけれど」
「自分で言うヤツがいるかよ」
「貴方の目の前にね」
笑いながら二人肩を並べて出口へ向かう。再び手は繋がれることはついぞなく、
それが彼らだった。