春深く

 哨戒が終わったあと、黒く艶やかな髪が咲き誇る薄紅を見上げていた。
「この木がどうかした?」
 驚かせないようにわざと気配を滲ませてから声をかければ、カイエは振り返らないまま応えてくれた。
「私の好きな木で、サクラと言うんだ」
「へえ、これが噂の」
 木の下には死体が埋まっているだとか桜についての一通りの蘊蓄をカイエに教えてもらったことを思い出していると、頭ひとつ下に見える濡羽色の海に花が一片浮かんでいた。
「カイエ、髪に桜がついてる」
「む。どこだ?」
 小さな手が目標を髪を払おうとするが指先にすら掠めない。じれったくなって自分が取ると告げると、無防備に頭が差し出され何とも言えない感情に襲われた。信頼されていると言えば聞こえはいいかもしれないが、結局は意識されていないことの裏返しだ。
 かれこれ三ヶ月の付き合い──もちろん男女の仲という意味はない──になったというのに、と項垂れていた鼻先をシャンプーのほのかな香りが擽った。
 共和国のやつらは適当なので男女ともに同じものを使わされていて、戦隊員は大体同じ香りに包まれる。それなのに使う人間によって印象が変わるのは多分欲目からだ。
「取れたよ」
「助かった」
 つっけんどんにあしらうことなくお礼を言って、カイエは再び桜の木を見上げる。
「……綺麗だね」
「そうだろう?」
「──カイエのことだよ」
「な!?」
 勢いよくこちらを向いたカイエはポニーテールが縦に揺らし、ぱくぱくと空気を欲するように口を開閉させている。にも関わらず酸素は行き渡っていないようで、自身のパーソナルネームの由来である桜を褒められたと受け取って得意げだった顔は赤く染まっていた。
「おおおお前っ」
「お世辞じゃないし、揶揄ってもいないよ」
「!!」
 黙り込んでしまったカイエを微笑ましく思いながら、きっとこの先も異性として意識されない未来があってもいいと考えていた。
 桜のようにうつくしいカイエ。桜よりもうつくしいカイエ。
 こんな救いなんてどこにも落ちていやしない地獄みたいな世界の中で、折れることなく生きる君の姿が好ましかった。その清い姿をこの先も誰よりも近い隣で見ていられたら十分だ。
「……ありがとう」
 花嵐がちいさな声をかき消そうとしたが、そうは問屋が卸さない。長年の片想いはちゃんと一言一句聞き逃さなかった。
 カイエ。綺麗なカイエ。
 愛さなくていいから、君を愛した男がいたってことは忘れないで。

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Boy Meets Lady