君を待つ

「待ってますから」
 今にも泣きそうで、怒り出しそうな声が冷たい夜の空気を震わせる。店先でこんなやり取りをしている自分たちが悪いことは分かっているが、なんだなんだと覗き込む野次馬の視線が煩わしい。
「あなたの中であなたの戦争が終わるまで待ってますから」
 普段穏やかな彼女のにそんな強い感情があるなんて知らず、自分を射るように見つめる瞳から目を逸らして、彼女の胸元で作られた拳に意識を奪われる。
 水仕事であかぎれが酷く恥ずかしいと、いじらしく隠していた指先。妹たちにそれとなく聞いて贈ったハンドクリームはまだ使っているのだろうか。
 結局なんと答えたのかすら曖昧なまま、気づいたときには皆が待っている家の玄関に立っていた。
 ゆっくりと上がり框に腰掛け、敷き詰められた石畳を見下ろす。毎日誰かしらが綺麗にしているが、汚れや埃は生物が生きていれば必ず出てくるものだ。
 拭いても拭いても現れる汚れ。
 掃いても掃いても角に溜まる埃。
 お前らはそんな存在だと物心ついたときから体と心に叩き込まれていた。
「お兄様」
 自分に近づく足音に気づかず勢いよく背後を振り返ると、スヴェンヤが気遣わしげにこちらを見ていた。
「驚かせてしまい申し訳ありません」
「いや、いいんだ。ただいま」
 気づかなかったのは何も絨毯のせいだけではない。気配すら拾わないほど彼女とのことに気を取られていたのだ。
「また花屋の女のところに行っていたと聞きましたわ」
「……もう、行けないだろうな」
 薄く零れた声が自身を詰る。
 あのあと何を話したかは覚えていない。しかし別れ際に彼女がどんな表情をしていたかは脳裏に焼き付いていた。大事に描きあげた絵を目の前で破られたような、あんなに傷ついた顔をさせてしまった。一体どの面下げて明日も会いに行けるというのだろう。
「会いたくないのですか」
「それは」
 見せる顔がないだけで、本当は会いたい。会いづらいだけで、機会があるのなら行きたい。会って、謝りたい。
「会いに行きたいのなら行けばいいじゃありませんか」
「……え」
 いつも何かしらの手を使って妨害してきたスヴェンヤの口から出てきた発言かと思わずギルヴィースは耳を疑う。
「我々は自分で自分を呪いすぎた。自分勝手な大人たちに付けられた首輪に踊らされて首を絞めた」
 血が噴き出したような鮮やかな朱を片方しか持たない紛いモノの失敗作。
 拳で叩いて鞭で叩いて、自分たちから立ち上がる気力すら奪った理不尽な日々。英雄になれる理想を鼻先に垂らされ、いたぶられては消耗品のように捨てられた仲間たち。彼らを思うと申し訳なさで足が竦んだ。
「もしお兄様があの女性に会いづらい理由以外に私たちのことも含まれているのであれば、それこそ気にしないでください。私たちはあの頃のように弱くありません。お兄様がいなくとも私たちは自分の足で、自分の選んだ道を歩けるのです」
 いつの間にこんなに大人になっていたのだろうと目の前に立つスヴェンヤを見上げる。ノウゼン大尉の妹君にお飾りはすっこんでいろと叱られて萎縮したあの少女はどこにもいない。
「自分を優先してくださいまし。もっとワガママになっていいのです。──幸せに、なっていいのです」
 廊下の角の向こうに複数の気配がする。妹や弟たちが聞き耳を立てているのだろう。
「もうあの惨めな犬舎から出ていいのです」
 それに、と茜色の髪が揺れる。
「お兄様が最初に幸せにならなければ私たちは遠慮して誰も幸せになれません」
 血の繋がらない、けれど絆でたしかに繋がれた同胞。
 おどけて伝えてくれたのはスヴェンヤの優しさだ。彼らの幸せを自分が足踏みしているせいで彼らの幸せを邪魔をしているのだと思うと、忸怩たるものがあった。
「スヴェンヤ」
「はい」
「ありがとう」
「とんでもございません。迷う兄の背中を押すのは頼れる妹と相場が決まっております」
 誇らしげに胸を逸らすと、スヴェンヤは座ったままのギルヴィースの背中をぐいと前に押す。
「ほら。早く行かないとどこの馬の骨とも知れぬ男に攫われてしまいますわよ。よろしいのですか?」
「……それは困るな」
 とても、と素直に零すと今にも泣きそうな表情でスヴェンヤが笑った。
 軽くなった腰を上げ、ドアノブを回す。開かれた扉の向こうは夜の気配をぐっと深めていた。
「行ってらっしゃいまし、お兄様」
「ああ」

 □□□

 帰ってきたときより晴れやかな表情になった兄を見送る。すると隠れていた兄と姉たちが物陰から出てきた。
「姫殿下」
「もう私は姫殿下ではありません」
「……そうですね──スヴェンヤ」
 扉の向こうへ出ていった、大事なひとのもとへ駆けていった兄のことを想う。
「どうか、どうか幸せに」

 □□□

 息も切れ切れに人少ない静かな通りを駆ける。目的地への道のりはきっと一生忘れないだろう。
「まだお店は大丈夫ですか」
 いまだ灯りが付いている店にすこし上がった息とともに足を踏み入れ、始まりの時と同じ言葉をかける。花が挿されたバケツを奥に移動させている最中だったみたいで、手に持ったまま
「……ええ」
 目元がうっすらと赤い。泣かせたのだと胸の奥がきつく絞られる。
「お急ぎのようですがどなたに──」
「あるひとに謝りたくて」
 あの時はへそを曲げたスヴェンヤに花を渡すために夜遅い時間帯まで営業していたこの店に寄った。それが彼女と自分のすべての始まりだった。
「許してもらえなかったら」
 ところどころ言葉が震えている。
「もう次へと進んでいたらどうするんですか。貴方の自己満足で終わりませんか?」
 ここに来るまでの道中で考えなかったわけではない。あんなに手酷く傷つけたなら拒絶されるのが当たり前だ。
「これで終わる関係ならそれまでの関係だった、ということです」
「……そうですか」
「などと、昔の自分なら割り切っていたでしょう」
 沈んだ彼女の顔がえ、と上を向く。
「諦めたくない」
 今まで何もかも諦める人生だった。だがこのひとを想う気持ちまで握り潰されたくない。
「好きです。幸せになるなら貴女とがいい」
 幸せになりたい。妹や弟たちのためだけでない。自分のために明日を前向きに生きていきたい。
「……やっと。やっと戦争が終わったんですね」
 目元に浮かんだ涙を細い指が拭う。
 自分のためではなく他人のために涙を流せるやさしい彼女の手にそっと触れる。振り払われないことを確認し、止めていた息を吐き出した。
「遅くなりました」
 本当はとっくの昔に自分の中の戦争は終わっていた。それを自分が認められなかっただけで、すでに呪縛から解放されていた。それを弟や妹が教えてくれた。
「抱き締めてもいいですか」
「もちろん」
 壊してしまわないように丁寧に手を引き腕に抱けば、漂ってきた花の香りがギルヴィースに安らぎを与える。
 もう手放したりはしないと、ぎこちなく回された腕の強さに誓った。

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Boy Meets Lady