変わらぬひと

「あ」
 飲み屋の並ぶ、喧騒息巻く歓楽街にその声はやけに透き通って響いた。
 瞳を大きく見開いた彼女は数年前の面影を残しつつ、あの頃よりもぐっと落ち着きを深め――そして自分とは正反対の男の隣にいた。
 嫌いで別れたわけじゃない。お互いに譲るには躊躇するものを持っていて、一緒にいられる時間を割くことが減っていって。これはお互いにとっていつか毒になると双方の合意で別れた。
 彼女が幸せであればいいと願った。不幸になれと呪ったことは一度としてない。
 それがどうだ。
 彼女の隣に自分以外の男がいる。自分と真反対の容貌をしているから、なんて理由は取るに足らない。自分と似たようなタイプの男がいてもきっと内腑をぐちゃぐちゃに掻き乱された気持ち悪さに襲われていただろう。
『友達?』
 男の唇の動きと首を傾げる仕草で読み取れる。
 友達なんかじゃない。再会した今だから深く思い知る。彼女のことがまだ好きだと。
 二言三言交わすと、男が彼女を笑顔で送り出したものだから面食らった。いいのか、こちとら元鞘に収まったっておかしくない関係を築いてきた男だ。酒の何かがあったら困るんじゃないか。
「須間くん」
 困惑するこちらを他所に、彼女が呼びかける。
 恥ずかしそうに控えめに呼ぶ声が好きだった。嘘だ。今でも好きで、目尻に優しさが乗る笑い方も変わっていない。それを今一緒にいる男にも向けているのかと想像し――、
 踏み外した。
「須間くんって何」
 抑えたけれど鋭く醜い色が混じり、聡い彼女は案の定違和感に眉を顰める。
 他人行儀な呼び方に言い知れぬ激情が腹の底で渦巻いた。他人だから合っているとかいう野暮なツッコミは要らない。
 自分から手を離したくせに、相手に別の男がいると知っただけでこのザマだ。冷ややかな嘲りが耳の奥から聞こえる。
「ああいうのが好み?」
「何言って」
「昔と趣味変わった?」
 聞き鶴しい妬みが止まらない。誰か止めてくれと祈るけれど、そんな容易く差し伸べられることはない。
「あの時別れなきゃよかった」
 もしかしたらと淡い期待を残してしまったのが悪手だった。こんなに未練が煮えたぎるとは数年前の自分は想像すらしなかった。自分は冷静で大人だと甘く見積もっていた。
「ごめん。こんなこと今更言われても困るよな」
 昔付き合っていた相手に再開して一番、矢継ぎ早にまくしたてられたら二度とお会いしたくない。
 嫌われたなとこれから訪れる痛みへ態勢を整え始めた男の視界に繊手が伸びる。
「とりあえず近くのお店に入ろう」
「え」
 彼女はこちらの手に触れ、歩き出す。手を引く指たちは相変わらず努力の痕が残っていた。

「最初に言っておくけど、さっき一緒にいた男のひとは姉の婚約者です」
「…………は、」
「今日はたまたま近くで会っただけ」
 ニス塗りのテーブルに使い熟れたスマホが置かれ、画面には彼女と雰囲気だけ似ている女性と先程の男性が銀環を嵌めた左手をこちらに向けていた。
「だから須間くんと分かれてから異性の関係はないし、趣味も変わってません」
 つまりは誤解ということで。
「恥っず……」
「本当だよ」
 手の甲に額をつけて顔を隠す。向かいに座る彼女の顔を見られない。
「……一応確認だけど、悪いお酒でも飲んだ?」
 素面での馬鹿な嫉妬に心配してくれる優しさはあの頃と変わらない。
「飲んでないよ。ただ本当に、君の隣に特別な誰かがいると思ったら頭に血が上った」
「血圧が気になる年齢だから気をつけてね」
「気にするの早くないか?」
「早め早めです」
 店舗が良くて、ちょっとズレた回答に穏やかな時間を過ごしていたときに引き戻される。
「須間くんがああなるなんて知らなかった」
 置いた冷のグラスを見つめながら彼女は呟く。
 関わったのは二年。短い様で長く、長いようで短い日々。自分も我を忘れるなんて思いもしなかった。
「付き合ってた頃、私が飲み会に行くって話をしても『行っていいよ』って快く送り出してもらってたじゃない? 優しいっからそう言ってくれることは頭では理解していたけれど、寂しかった」
「外じゃあまり飲まないって聞いていたから」
「付き合っているひとがいたら軽々しく箍を外すほど飲まないよ!」
 彼女の気遣いに築けなかったことが恥ずかしく、一方でそんなことをしてくれるくらいこっちを大事にしてくれていたのだと知れて馬鹿みたいに心が躍る。
「やり直したい」
 あの頃と比べて忙しくなったが、選択肢を迫られても泰然としていられるほどの心の余裕はできた。何より今掴まなかったら一生後悔する。
「……私も」
 噛み締めるように落とされた応えにゆっくり手を包み込む。
「またキレイにお別れしちゃうのかと怖かった」
 今にも涙が零れそうな切なげな微笑みに、彼女にとっても傷になっていたのだと思い知らされる。
 と、ハッと嫋やかな顔が突然青ざめる。
「彼女さんいない!?」
 何かしでかしたかと身構えていた頭は斜め上から降ってきた質問に理解が追いつかず、咀嚼しきった瞬間には笑いをこらえきれなかった。
「さすがにそこまでクズじゃないよ。というかそういう男だと思われてたのが心外」
「だって須間くんじゃ素敵なひとなんだもの。彼女の一人や二人いてもおかしくないから」
「……二人いたら駄目だし、名前」
 ぱちくり星を弾く。大層子供っぽいことを口にしている自覚は十二分にある。
「忠くんて結構可愛いんだね」
 はじめて知ったと胎児に彼女が紡ぐものだから反駁しようとした気力が一気に削がれる。
「俺は昔から君に対してそう思っていたよ」
 でも言われっぱなしは性に合わなくて、前々から抱えていた気持ちを正直に告げれば頬が朱に染まる。
 こういうところが変わってないよなと、海らしい女性と己の趣味に目を伏せた。

top
Boy Meets Lady