産土の約束

 その人物は昼の空のようであった。
 どこまでも手を伸ばせそうな奥行きは自由を。視界を覆い尽くすほどに広がる天蓋はおおらかさを。目が眩むほどの青は為人ひととなりとしての明るさを。
 そしてそんな人間も、人間たる故に大地に還る。
 雲ひとつとして遮るものがない澄清をミュラーは仰ぐ。昼の空は大地に属す、とはヒルダが引用していた言葉である。言い得て妙とはこのことだろう。
 ミュラーが今佇んでいるのは草花萌ゆる小高い丘。鈴蘭が慎ましやかながらもそこかしこで咲いている陵に友人の墓はあった。
 身体を壊したと知らされたのは一年前。並の兵士であれば支障のない程度の数値であったが、悪友は空戦艇の乗り手であった。戦場は零で構成された宇宙空間。無重力下とは言え、縦横無尽に飛び回れば加速Gがかかる。それに耐えうるだけの器がなければ操縦士として致命的で、健康状態の査定はどの兵種よりも厳格であった。
 生まれてこの方健康優良児で通ってきたんだけどやっぱり歳かなあと、連絡してきた声はいつもの武人らしくない間の伸びたものだった。
 自分たちが出会ってからすでに十五年。老いは生物であれば避けて通ることはできない。しかし出会ったときとあまり変わらないかんばせにどこか甘えていたのかもしれない。
 軍に籍を残す後方勤務や予備役に下がらず退役を選んだのはいかにも悪友らしいと評するのが正しい。戦乙女ワルキューレの操舵のみに能力が割かれていることは自他ともに認めるところで――実際はその他の萌芽もあったにも拘わらず、本人が育てようとせずほとんどを枯れさせたのであるが――机との戦いをしている光景をミュラーも想像できなかった。
 次の休暇には訪ねると約束し、そっちも身体には気をつけろと何気ない会話に幕が下ろされる。しばしの寂しさに浸る間もなくミュラーは久々の事務作業に忙殺され、月日は流れ、そしてその間に親友は呆気なく逝った。
 その唐突さは一瞬の煌めきで人と空に傷をつけ、そして最初から存在していなかったかのように去っていく桙星ほこぼしであった。
 生物無生物かかわらず有象無象無惨に漂う虚空を光条の尾で掻き乱し、生半可な覚悟など死への加速度となる場所を軽やかに白喪の小舟で舞い踊る。自らの生死を決めるのは他者ではなく己だと言わんばかりの自負は見た者の心に深く鮮烈に焼きついたであろう。
 憧れた。自分もそうありたいと高き空で明滅する星々に指で触れる子供のような願い以上に、そのまま美しく変わらないでほしいと無責任な祈りが占めていた。
 柔らかな風が吹き抜け、ミュラーの砂色の髪をささやかに撫でていく。
 ミュラーがそんなことを乞わなくとも彼――彼女は思うように生きていたその一方、ミュラーは友人にやっと安息の地を見つけられたと胸を撫で下ろすべきか、はたまたこんな優しい場所でよかったのかと親友の終わりに思いを馳せる。彼女はずっと居場所を探していた。士官学校に入学して直後に見た、何処か身の置き場はここではないと宿り木を探すような表情をミュラーは今でも忘れることはできない。
 ミュラーの問いに天つ原は答えない。所詮他人のお節介であることをミュラーは重々理解している。生き様は死に様で決まらないし、今際の雲居に自身で納得していればこの話は終わりだ。
「君は嘘つきだな」
 中空の下、やわく詰る言葉が零れる。会う約束をしたのに、その時点ですでに余命幾許だと言わなかった不実に対してではない。葬儀に呼ばなかった薄情にも怒っていない。寧ろ友人らしいなと納得したくらいである。友人はそういう・・・・人間であった。
『お前をひとり残して置いていかない』
 かなり一方的な宣言であったと思い返してもも同じ結論に辿り着く。
 そのときの彼女はミュラーのためにというより、自分のために宣言したように砂色の瞳に映った。
 親友は薄情だと自らを称していたが、ミュラーから見たら本当は誰の心にも寄り添える優しい人間であった。無自覚に削られていたのだろう。久しぶりに合わせた顔は痛々しく、だからミュラーは友人が友人でたらしめる拠り所となるのならとそのほだしに頷いた。
 いつからか。その誓いが彼女自身のためだけでなく、自分の支えにもなっていたのは。
 梯子がひとつなくなったとしても無様に頽れることなく踏ん張っていられる手段も心の持ちようも多く得た。それでも自分にそう言ってくれる人間がいるという事実に救われていた。
 もしかしたらあの約定は軍人であるうち、という条件付きだったのかもしれない。たしかに期限について互いに一言も触れなかった。向こうにそういう意図を隠すつもりがあったのかもしれない。対してミュラーはきっといつまでも二人生き残ると無防備に信じて。
 甘いなと足を運んできてからはじめて笑みが落ちる。それはすこし、苦かった。
「また来る」
 一方通行の約束を残し、墓石と碧落に踵を向ける。刹那、背中を押すように風が強く一陣駆け抜けた。
 誘われるように振り返った先には野ざらしに置かれたそれらしい石だけ。軍人としての名誉も功績も、何一つ刻まれていない。今この場に彼女がいたらそんな大仰なもの必要ないよと、好物のタフィーが一粒入った箱を鳴らすように笑い飛ばすのだろう。
 大事なひとを置いていく名残惜しさを抱え、元来た道へと歩き出す。
 不安定な二人を繋ぐ確かな約定はたった今解けた。ふたたび結ばれることはないし、この先欠けた部分が満ちることもない。でもミュラーは失ってもいなかった・・・・・・・・・
 大切な彼女から貰ったものはいまだこの胸にあるのだから。

top
Boy Meets Lady