腹筋に力を入れて体を起こす。幾日空けたかすら忘れてしまった部屋に息をすべて溶かせば自然と新しい空気が入ってきて、否が応でも頭を覚醒させる。
前髪を掻き上げると、視界に見慣れたシャツの袖口が飛び込んできた。どうやら家に帰るなりそのままソファーで夜を明かしてしまったようで、スーツのジャケットを残った理性がなんとかしてくれたのがせめてもの救いだった。
「……よし」
ぞんざいに扱ってしまったコートを手に、忍田はリビングを出た。
昨夜落とすはずだった汚れを流したあと、いつもの習慣でニュースをつける。猫の珍行動特集や街で評判のケーキ屋など平和なものばかりが映し出されていた。
一通り番組を回して、テレビの電源を切る。興味を誘うような内容はこれと言ってなく、リモコンをテーブルに置く。だが持て余している感覚は拭えなかった。
本来ならば職場にいてもおかしくない時間帯に家にいるのは、この腐るほどあまった休暇はなんだと昔馴染みの上司に半ば蹴られるように基地から出されたからだった。大方自分の仕事ぶりを見かねた直属の部下や同僚が彼に報告したのだろう。帰り際に会った弟子に休み明け稽古をつける約束をしてしまったことは秘密である。
そんなこんなで突如舞い込んできた休日の浅瀬で忍田は佇むしかなかった。前もって予定した休日ならいざ知らず、こうして放り投げられると何をしていいかわからない。愛車に乗るのも今日は何故か気が進まない。
珍しいこともあるものだと思案しているところに、楽しそうにはしゃぐ子供たちの声が飛び込んでくる。空気を入れ替えるために開けた窓の外ではクマゼミが鳴いていて、学生は夏休みが終わる頃かと目を眇める。
自分が学生だったときは何をしていただろう。十五年前はそこまで遠くはないはずだが、滲んでいるようにぼやけていて思い出しづらい。宿題を最後の週にやったことと、シャープペンの芯が切れて炎天下を走ったことは覚えている。
初期設定そのままのコール音が部屋に鳴り渡る。液晶画面に映し出された名前はしばらく会っていなかった高校時代の友人のものだった。
「久しぶりだな。……ああ、元気にしていたさ」
他愛のない花を咲かせる声はあの頃より重みがあって、月日の流れを浮き彫りにさせる。久しく同窓会に顔を出していないことを追及されたけれど、声音はそんなに怒っていなかった。
「それで? 用件は――」
風鈴がどこかで鳴いた気がした。
湿度も低い、からっとした晴れの日に忍田は葬儀場に向かっていた。
アスファルトは照りつける熱を放射して、行き交う人々の靴のゴムや服の化学繊維を焦がしていく。近づくにつれて冷や汗が少しずつ噴き出しているのを無視していたが、かの場所独特の雰囲気にあてられて体温が下がっていくのを意識の奥で感じ取っていた。
――もう慣れたと思っていたのに。
慣れるものではないとかつて林藤を窘めたことを思い出す。他人には諭したくせに自分が出来ていなかったというわけだ。なんと情けない。
冷房が効いた中に入れば、電話をくれた同級生とすぐに会うことができて礼を伝えた。
あんなにも時間を一緒に過ごしていたはずなのに連絡を途切れさせた自分に来る資格はないと、実はここに足を運ぶのを渋っていた。しかし、別れの言葉をできる時にちゃんとしないとこの先ずっと痛まない棘を気にするように生きていくことになると気難しい同居人に背中を押された。
今となってはそれに従ってよかったと、丸まった黒の背中の向こうで大人びた微笑みを浮かべた少女を見つめながら思う。写真嫌いはついぞ直らなかったようで、黒枠の中の彼女は自分が知っている高校生で時を止めていた。
遺族は男性が一人いただけであった。会場前に立てかけられていた看板にあった名字が変わっていなかったことから、恐らく結婚はしなかったのだろうし、記憶が正しければ遺族の男性は彼女の弟だ。彼が小さい頃に何回か会ったことがあり、彼女とよく似ている目元は成長した今でも変わっていなかった。
喪主から参列者への心遣いなのか、焼香台と棺までの距離は思いのほか近く、彼女の顔を覗き見ることができた。
綺麗だった。雪を彷彿させる白い肌に、赤く引かれた紅。元々色が薄かったから余計に血のような紅が映えて、わずかな息が逆流した。
それでも桐の箱で眠っている彼女は印刷された紙切れの彼女と瓜二つで、この世界に置いてきぼりにされたのは彼女なのか、それとも彼女がこの世界を置いてきぼりにしたのか。
短い列を退いたあとも忍田には分からなかった。
□□□
「ねえ、忍田くん。君の夢は何?」
柵に背中を預けていた彼女は今日の天気は何かと、そのくらいの気軽さで人の夢を尋ねてきた。足元で口を広げるカバンからは先程まで受けていた講習の教科書が顔を出している。
「まだわからないが、誰かの役に立てたらいいと思っている」
「役に立つと一口に言ったって色々あるじゃない。医者とかボランティアとか」
「そうだな……たとえば、人を守るとか」
「それはいいね」
うんうんと我がことのように彼女は嬉しそうに頷く。
「忍田くんは運動神経がいいからね。日本刀とか似合いそう」
「そういう君は夢を持っているのか」
「私? 私の夢はちっぽけだから話すに値しないよ」
彼女はこうやって自分のことを過度に下げるところがたびたびあった。彼女の生い立ちがそうさせるのか詳細はわからないけれども、自分の前ではそんなふうにいてほしくなかった。
「……自分の夢を卑下するのは良くないぞ」
「あらあら、怒られちゃった」
もっとも、何度このことを指摘しても彼女に聞き入れてもらえた試しはなかったが。
からからと笑って、彼女は愛飲しているアイスココアを一口喉へ煽る。アルミ缶についた水滴が白い肌に薄く浮かび上がった血管の上を伝っていく。その様子を追ってしまい、誰が咎めているわけでもないのに妙な罪悪感で喉が詰まった。
刹那、熱を孕んだ空気が二人の間を
その時、彼女がどこかに行ってしまうのではないかという不安が自分を襲った。理由はわからない、ただ己の直感が今引き留めなければいけないと叫んでいた。
「忍田くん?」
「……っ、悪い」
ハッと我に返って掴んでいた手を離す。痕は残らない、と信じたい。そこまで強い力ではしなかったと言い訳じみた文章が頭に羅列されていく。そういうのは反省文を書くときに出てきてほしかった。
「……そんなに知りたかった?」
掴まれた手首を気にした様子もなく、彼女は小首を傾げる。
「話したくないのなら無理にとは」
「いいよ」
でも、と恥ずかしそうに彼女は人差し指を口元にあてる。
「その代わり笑わないって約束してね?」
再びはためいた黒髪を押さえると、隣にいた彼女は淡く微笑んだ。
「私の夢は――」
□□□
悲嘆を白亜に押し込めた建物を一足先に去って頭上の天井を見上げると、馬鹿みたいに真っ青な雲一つない空が広がっていた。彼女が死んだ日も今日のような天気だったらしい。
『忍田本部長。お休みのところ失礼します』
「わかった。すぐ行く」
電話を切ってすぐさまタクシーを拾う。先程までいた歩道に陽炎は立っていない。
「……君は夢を叶えたんだな」
車窓の向こうで流れる風景が追ってくることはない。過ぎ去った初恋が追いかけてこないのと同じように。
「お客さん、何か言いましたか?」
「いや、独り言だ」
ちっぽけだと自ら烙印を押した、彼女のたったひとつの夢。
「『馬鹿みたいに晴れた日に死ぬこと』」
名残すら溶かす、ある夏の日のことだった。